夜の徘徊の思い出

横手 裕(中国思想文化学)

私は文学部の中国思想文化学という研究室に所属して中国思想を教える立場になっていますが、何故こんなことになってしまったのかと原因を考えてみると、どうも高校生のはじめ頃の自分にたどり着くように思います。

私は高校生のある時期、夜になると街に出かけて一人でぶらぶらすることがよくありました。だいたい夕食(当時は家の事情で一人で食べることが多かったように思います)が済んだ7時過ぎ頃になると、おもむろに家を出て電車に乗り、青梅という駅で降りました。青梅は東京の西のはずれにある町で、山梨や秩父へと続く深い山地と東京へと広がる平野のちょうど境目に位置しています。私が生まれ育った家は、青梅駅から30分に一本しか走らない青梅線に乗ってさらに西へ数駅先の山の中にありました。そこから宵闇の中をのこのこと出てきて、青梅の駅前の街を徘徊するのが好きでした。30年も前の昔の田舎町でしたので、駅前の商店街も7時になるとほとんどの店は閉まっているのですが、その暗い人っ気のない街を意味もなく歩くのが心地よく思えました。そんな街の中で、8時頃まで開いている珍しい本屋が1件ありました。そこで本を立ち読みすることも、ささやかな楽しみの一つになっていたように思います。ある日、その本屋で「荘子」と書かれた本を手に取って読んでみました。当時は、中国の古代の思想家に「×子」と呼ばれる人がいろいろといて、何やら偉そうなことを言っているらしいというようなことは知っていましたが、誰が誰だかよくわかってはいませんでした。それを読んでみたところ、大昔の中国にも自分のように非常に世の中になじんでいない人間がいたことを知って随分と驚いたように思います。お金もありませんでしたので、夜の徘徊で物を買うことはほとんどなかったのですが、この時にはそれを買って帰ったように思います。それから、何故か懲りずに「×子」と称する人の本の類をいろいろと読むようになり、難しくてわかりにくい(=つまらない)と思ったりもしながら、面白い気もするようになってゆきました。その後の高校生活ではもちろんもっと驚いたこともありましたし、紆余曲折もあったのですが、結局この方面のこと追求をして世の中から外れて行こうと思い、ついに文科3類に入学して、当時の文学部の中国哲学専修課程(これが現在は中国思想文化学専修課程と改名しています)を目指すこととなりました。

実は、その後の私の駒場生活は、あまり現在の駒場生の方々の参考にはなりません。私はただひたすら中国哲学へ行くことを考えていました。駒場の教養学部は、現在と同じように、若くて頭のやわらかい学生に多彩な教養を身につけてもらえるように、さまざまな分野の授業を履修するように設定されていました。その中で素晴らしい学問に出会い、自分の道を見つける人も多いことでしょうし、そうすべきです。しかし私はひたすら中国語のみ一所懸命勉強し、その他の授業はあまり熱心には出ませんでした。おかげで今も教養がありません。当時も進学振り分けはありましたが、文学部の中国哲学は受け入れ定員に対して進学者はわずかで、志望すれば確実に入れるはずの専修課程でしたので、悩みも不安もありませんでした。将来の就職のことを考慮して進学先を選ぶなどということもありませんでした。中国哲学へ進学したらできるだけ上へ進み、読みたいけれど読めない道教などの原典を読めるようになって、わかりたいことがわかるようになることだけを目指していました。とはいえ、東京大学の中国哲学という恐そうなところが自分のような者を受け容れ続けるようにも思えませんでした。まずは本郷に進学して学部の卒業はしたいと思いましたが、その後は大学院に行けるにしても行けないにしても、いつかは大学から排除されてドロップアウトするのだろうとも思っていました。その後はというと、行脚のようなことをしながら人知れぬ山奥(何故か四川省とチベット自治区の間あたりのイメージがありました)で力尽きて野たれ死ぬような成り行きを漠然と思い描いていました。実はそうなりたかったように思います。しかし、残念ながらそうなれずに今日に至ってしまいました。皮肉なことに、大学というところは思ったより温かいところだったようです。

もし私が何か皆さんの参考になるとしたら、私のような、あらぬ方向に突き進む人間も大学は寛容にも受け容れ続けてくれることを示す一例としてでしょうか。文学部はもちろんですが、他の学部や社会などでも、結構そういうところは少なくないかもしれません。案外、人と同じことをやり続けてゆくことの方が難しいのではないかという気もしないではありません。