唐澤かおり(社会心理学)

高校などで話しをする機会があると、「なぜ心理学を選んだのですか?」とたずねられる。「大学の教員になっている人」は、きっと立派な理由があって専門を選択したのだろうと思っているとしたら、その期待を裏切るのも申し訳ない。「心の仕組みが、実験などによって説き明かされることを通して、人間がどういう存在かを考えることができるのが面白くて・・・」などと答えることにしている。しかし、本当のところ、大学2年生の半ばで「心理学専攻」を選んだ直接の理由は、全く自慢できるものではない。わたしが卒業した大学では、2年生のときに「心理学実験」の授業があり、毎週のレポートでかなり大変な思いをした。その「大変な思いをした」授業の単位を無事に取得した一方、他の専門については、それほど知る機会がなかったので(つまり、真面目に授業に出ていなかったということ)、「なりゆきで心理学を選んだ」のである。先ほどの「答え」が本当の選択理由なら、なかなか格好いいのだけど、世の中、そううまくはできていない。

とはいえ、心理学を選んだことは、多分「正しい」ことだったのだろう。とりあえず、今の私は「心理学」を生業として存在することができているのだ。その結果自体、幸運なことである。また、大学2年生のときにはほとんど見えていなかった心理学の面白さについて、今は他者に語る立場にいるわけだが、それがうまく語れるかどうかはともかく、その面白さや、問題点や、可能性を考えること自体、「楽しい」時間のすごし方となっている。どのような学問も、おそらくは世界を切り取る手法や分析する視点を提供するのだろうけれども、心理学が提供する手法や視点自体が、今の私の日常のものの考え方とは切り離せないとも思うし、その意味では大仰な表現にはなるけれど、「心理学」が私自身を作っているといえるのだ。

もちろん、社会心理学者として、少しシニカルに分析するなら、このような私の心理学に対する想いには、自分の選択を正当化しようとするがゆえの判断バイアスも、かなり含まれているのだろう。人は、一般に、自分の行動や態度を「正しい」と信じたい存在である。したがって、選択を正当化しようとさまざまな理屈付けを行うものだ。いったん選んでしまえば、「なぜそれが選ぶに値するのか」を考え、良い面をさらに探し出そうとする。また、選択したこと自体がその選択肢の魅力を高める効果を持つことも、なじんでいるものはそうでないものよりも魅力的だと感じることも、よく知られた心理学の知見である。したがって、あるものを自分で選び、かつそれと長く付き合えば、おおむね好きになり、それを選んだことが正しく思える、というのが人の心のなりゆきなのだ。

人生が選択の連続であるとき、選んだ対象を正当化する心の働きは、そう悪いものではないと思う。正しい選択を行ったと思うことができれば、選択に対して責任を持って行動していく気持ちも生まれるだろうし、それを大切にし、しがみつき努力をするという意志も出てくるだろう。その結果として、選ばなかった他の多くの選択肢よりも、選んだ対象が魅力的で良い選択だと思えるのなら、そういう人生は、そうでない人生よりも幸せであるに違いない。

ただし、である。選ばなかったものには、今は実現することもかなわない、私の他の可能性が埋もれていたという事実にも、また心は向くのである。もし「正しさ」を何らかの形で測定することができるなら、心理学の「正しさ」よりも、もっと上の「正しさ」を持つ選択が、どこかにあったのかもしれない。選んだものよりも、選ばなかったもののほうが、数多いのだから、きっとそうだろう。例えば、哲学や歴史、いや、そもそも文学部ではなく、工学部や農学部を選択していたらどうなっていただろうか…どこかの企業に勤めて、ビジネスのノウハウを習得したのちに退職して、会社でも興して大成功を収めていたかもしれない?

まさか、そのようなことはあるわけもないのだけれど、反実仮想は無責任で自由だ。そして、こういう反実仮想は、どんな選択を行っていたとしても起こるものである。何を選択していたとしても、もっと正しい選択があった可能性は否定できないとするなら、選択の正しさについて思いをめぐらすのは、無責任な反実仮想を楽しむ程度にとどめたほうがいいのだろう。そもそも、「正しかった」といつ判るかだって怪しいのだ。選択の結果は時が進むにつれて変わる。ある時点の選択の結果は次の時点の選択を決めるし、未来の選択によって過去の選択の意味が変わってくる。だとするなら、やはり、今現在において、「正しい」選択だと正当化するような心のベクトルを、ありのままに認めてやるのが、素直な生き方だ。そして、心理学という選択は、私の主観の中で「正しいもの」としてとどまり、それにいそしむ日々が、また続くのである。