立花政夫(心理学)

後期課程への進学を考えている駒場生は平成生まれがほとんど。ジェネレーション・ギャップを感じつつ、とりあえず昔話をすることにしましょう。

今は昔、団塊世代の最後に属し大学受験者数が最も多かった時代、高校3年生の夏休みに、理系コースから文転することにしました。小さい頃からの伏線や近々のきっかけやらは色々あったのでしょうが、まあ若気の至りで、「心理学をやる!」と決めました。担任の教師に話をすると「文科3類は多士済々の行くところで、おまえには適さない」と言われるし、父親からは「心理学の本もロクに読んでもいないのによくそんなことが言える」と散々でした。とりあえずはあれやこれや考え、まあ良かろうと思ったら、後先を考えずに飛び込み、後悔はしない、という単純さがずっと私の好みです。

東京大学に入学すると、その年の6月からはストに突入。残念ながら駒場では全く「教育らしい教育」を受けませんでした。心理学の本を読んでも退屈だし、そもそも高校時代に知りたいと思っていたことは心理学の書物には書かれていないし、むしろ文学書や哲学書でも読んだ方が遥かにましだということがよくわかりました。しかし、親にも同級生にも心理学をやると言った手前、「自分に合った心理学を切り開く」と不遜なことを考えることにしました。

当時は“花の心理学”といわれていた文学部心理学科に進学すると、生理心理学の先生やアメリカから帰国したばかりの新進気鋭の知覚心理学の先生に出会い、卒業論文と修士論文の指導を受けました。人間を被験者とした視覚の精神物理学(Psychophysics)を3年近く研究したのですが、修士論文を書き上げたあと、脳の中身をどうしても知りたいとの思いがつのるようになり、医学図書館で借りてきた本や雑誌を読んで独学しました。

博士課程の1年次に大学院の先輩からの紹介もあって、慶応義塾大学医学部の生理学教室で視覚生理学の手ほどきを受けることができることになりました。見学第一日目に電気生理学的実験の面白さにすっかり魅せられ、その後はワクワクしながら毎日コイの網膜を使って実験をしました。この世界は自分に合っていると確信したので博士課程を1年で中退し、慶應義塾大学大学院に入学しました。当時、国立大学から私立大学に移るというのは誠に希有なケースで、日本育英会の奨学金は打ち切られるし、私立財団の奨学金は返還を求められるというひどい目に遭いましたが、幸いなことに慶應義塾大学から援助を受けることができました。

医学博士号を取得した直後に、慶應義塾大学での私の指導教員が国立の生理学研究所に教授として就任することになり、私もそこの助手に採用されました。愛知県岡崎市での地方生活は、ずっと神奈川・東京(直前までは新宿に夜な夜な歩いていける下宿)で過ごしてきた私にとって新鮮な驚きであり、学ぶことが多々ありました。半年後に休職し、ハーバード大学にポストドクとして2年半滞在しました。医学部神経生物学教室には5人の教授と、若手研究者やポストドクが100名近くひしめいており、熱気を帯びて活発に研究をしていました。そこでは、出自であるとか博士号は全く何の役にも立たず、研究成果で実力を示す(「自分の足で立つ」)しかないことがよくわかりました。滞在中に私のボスと同僚教授がノーベル医学生理学賞を受賞し、世界超一流の研究者のレベルを知る良い機会となりました。しかしそれ以上に、この二人の教授のボスで、受賞の1年前に急逝した真に偉大な学者に知り合うことができたのは私の一生の思い出です。

帰国後は生理学研究所で引き続き6年以上も助手をしていましたが、どのような風の吹き回しか、文学部心理学研究室に戻ってこないかとの誘いがありました。一生、生理学でメシを食っていこうと考えていたので移ることに躊躇しましたが、生意気にも「そのうち機会があれば飛び出せばよいだろう」と自分を納得させ、古巣に戻ることにしました。周りの先生方や学生達の理解と協力のおかげで、引き続き視覚系を神経科学的な手法で研究することができ、いつの間にかずるずると20年以上も過ごしてしまいました。必要なアプローチ法は何でも取り入れ、分子から行動まで様々な角度から視覚を研究をしてきましたが、動物を使った実験をやっている限り、生理と行動の間にある心理(意識?)には手が届かず、未だどうしようかと思い悩んでいます。

「何をやりたいか」、「何を知りたいか」、この大筋をつかむことが進路を決める上で重要なのでしょう。決めたからといって、志があるからといって、その時々の状況や周囲の人々の影響もありますから、将来どうなるかは全く予想がつきません。目標に向かって継続すること、但しアプローチの仕方は多様であること。皆さんの健闘を祈ります。