ほとんど何も思い出せないけれど

木下直之(文化資源学)

教室で学生に向かって何ごとかを語りながら、今語っていることを、30年後の彼らは何ひとつ覚えていないだろうなと、ふと思うことがある。それは確信をもって言える。なぜなら、30年前には教壇の向こう側に座っていた私が身をもって証明しているからだ。

本当に、あきれるほど何も、何ひとつ覚えていない。覚えているのは、講義内容とはまるで無関係な、教師のひと言や仕草である。「どうせオレの話はみんな忘れてしまうよ」と、同じようなことを口にしながら、肩を少し傾けて、教壇に登場したイタリア文学の非常勤講師の自嘲的な姿をよく覚えており(その人とは20年後に大学で再会した)、その思い出が血となり肉となって、今度は教師になった私に同じことを口走らせるのかもしれない。

もっとも、過去の一部始終を覚えていたら大変だ。記憶力はそんなふうに出来上がっていないから、都合よく忘れ、都合よく思い出す。もっとも、だから教室で何も聴かなくてよろしい、というわけではない。おそらく、学生がやらなければならないことは、そして教師も同様に心がけるべきことは、その都度その都度、考えるということだろう。

この文章は、これから文学部のどの研究室(公式名称は専修課程)に進んで行こうかと考えている、あるいは考えることになる学生諸君に向かって書いている。ちょうど、分かれ道に立っているような気分かもしれない。道は目の前でふたつに分かれているのか、三つなのか、はたまた放射線状に広がっているのか、いずれにせよ、どれかひとつの道を選んで足を踏み出すことが求められている。

しかし、「分かれ道」とは、あくまでも分りやすい比喩にすぎない。人生は一本の道にたとえられるほど単純ではない。実は、これまでにだって、無数の選択を経て今日の自分があるはずだし、これからの選択肢もまた無数にある。いくらでもやり直しがきく、とも思う。 

大切なことは、その都度の判断を真剣に下すことだ。黒澤明の映画「用心棒」にそんな場面があったように思うが、たとえ、分かれ道で棒を投げて行き先を決めたとしても、偶然に身を任せるのだという判断を真剣に下しさえすればよい。行くか行かざるかと迷ったら、必ず行くことを選ぶという人に何人も出会ったが(たぶんその人を「迷っている」とは言わない)、これまた名案で、それを信念にすればよい。

その都度の判断に、日頃の勉強や活動に加えて、教師の話や教室での会話が少しは役に立つのだろうと思う。まさしく、そのような経験(むしろ刺激と言うべきもの)は、持ち物のように身体の外部にぶら下がるのではなく、血や肉のように身体の内部に取り込まれる。陳腐な表現だけれど、それが成長するということなのだろう。

私の「成長」について少しだけお話しよう。はじめに書いたように、ほとんどは忘れているのだから、私の内部に向かって探査艇を降ろして行くような気分だ。自分のことなのに、それは既知の世界ではなく未知の世界である。

30年前の私は、美術史という学問を学んでいた。もっと正確に言えば、学んでいることを疑わず、美術史学という世界に身を置いているのだと考えていた。その世界が可視化されたものが大学の研究室であり、学会であり、1970年代から80年代にかけて盛んに出版された美術全集であった。学生の身分でありながら、美術全集の作品解説に書く機会を与えられることは、その世界に参与することだと信じて疑わなかった。

さらにこの世界は美術館の世界と隣接してはいたのだが、私が大学から美術館への進路を選んだ時に、引き返せない大きな川を渡ってしまったような印象を抱いた。現在では、大学が学生を学芸員として美術館に送り込むことは推奨されているが、当時の美術館には美術史学とは別世界という雰囲気があり、後者がアカデミックな世界であれば、前者は俗な興行の世界にも足を踏み入れているという認識が、教師や学生たちの間にあったのではないだろうか。

しばらく年月が過ぎてみると(それは成長と呼び変えてもよいかもしれない)、大学における美術史学も美術全集の出版も美術館の活動も、すべてがそれぞれに歴史的な経緯を有して、出来上がっていることが見えてきた。

それからの私は、戦後の日本社会が築き上げてきた美術館と博物館という棲み分けがひどく窮屈だと感じるようになった。美術館を離れ、博物館へ移り、そして巡り巡って、今は文化資源学研究室で教師をやっている。大学院の研究室(公式名称は研究専攻)ではあるが、学部生向けの講義をいくつも開設している。一度、文化資源学研究室のホームページを訪ねてほしい。

諸君も20歳を過ぎたのであれば、信じて疑わないものを疑ってみるという姿勢を、そろそろ身につけていいかもしれない。世界は動かないものとして固定されているわけではない。歩くにつれて、風景は変わる。

いうまでもなく、これから進もうとする研究室は終の住処ではない。それは通過点であり、階段の一段か二段か三段にすぎない。それから先の人生はどうなるかわからない。30年後の私が身をもって証明している。