大西克也(中国語中国文学)

私が生まれ育った大阪・阿倍野の家は、20坪あまりの土地いっぱいに建てられた狭い町屋で、ちょっと不思議な造りをしていた。階段が二つあったのである。玄関脇から階段を登り切ると、もう一つの階段が一階の手洗いに向かって一直線に降って行く。三歳の頃だったか、私はその直線階段から転落して鎖骨を折った。そのためかどうか知らないが、直線階段は一家使用禁止になった。家相を見てもらうと、この階段を使い続けると良くないことが起こるというのである。祖母が大変信心深い人で、家のあちこちにいろいろな神様が鎮座しており、裏庭には祠もあった。1970年代、神さびたものは都会でもまだ身近だったように思う。

子供の頃の私は、この家のあちこちで宝探しを楽しんだ。親たちがあまり開かない戸棚から、たまに古いコインが出てきたりしてわくわくしたものだ。『大字典』という名前通りの分厚い漢和字典を見つけたのは、玄関にあった大きな古い水屋だったと思う。この水屋には食器ならぬ大工道具と本が詰まっていたのである。著者の「上田萬年」という変わった名が印象的だった。ウエダカズトシが我が文学部の国語研究室の創設者であったことなど、無論知る由もない。が、私はたちまち『大字典』のとりこになってしまった。この字書に載っていた篆書という奇妙な漢字に夢中になったのである。怪しくうねる曲線と、それでいてどこか今の漢字にも繋がりそうなこの書体を、一人書き写しては悦に入っていた。

高校時代は、国学院出身の担任の影響で、折口信夫に傾倒した。折口が出た旧制の大阪府立五中は私の母校でもある。そのような生い立ちの中で、白川静の漢字学と出会ったとき、私は何か運命的なものを感じたものである。折口の民俗学を援用し、実に魅力的に語られる古代の漢字の世界、しかし実証の伴わない白川文字学を、何らかの手段で実証することが私のやるべきことのように思われたのである。駒場の教養学部時代、文化人類学の伊藤亜人先生のゼミに入って、大阪の枚岡神社の祭礼調査などをしたのは、そこから何か手掛かりが得られないかと思ったからである。しかし私はその道へは進まなかった。

およそ古代の中国に関心を持つ者が必ずぶつかる壁がある。文字の国中国に残された夥しい文献である。時空を隔てた漢字の羅列とどのように向き合うか、人によってその方法は様々だが、私はその鍵を古い中国の言葉そのものの中に見出そうとした。漢文(古代中国語)は文脈によって如何様にも読める、漢文には文法がない、などと平気で言う人がいた時代である。どのようにも読めるというのは読めないのと同じこと、文法がないなら自分で見つけてやろう、そのような気持ちで選んだ進学先が、中国語中国文学専修過程であった。何かをするためには、私にとってはそれが先決だった。

文学部で過ごした二年間は苦しい時代だった。意欲ばかりが空回りする中で、次第に自分の目しか信じられなくなった。字書も句読点も信じられず、文献を読む時には点の切っていない白文を極力選んだ。今から思うと病気の一歩手前、しかも大変滑稽なことで、ベテランの研究者がつけた注釈をじっくり読んだ方が、よほど勉強になったはずである。ふっと肩の力が抜けたように楽になったのは、そんなに何でも自分でやろうとしてもできません、という恩師の一言がきっかけだった。他人の助けを素直に借りることができるようになったのは、大学院に入ってからのことだった。

一旦途切れた文字の縁がつながったのも、その頃だった。上古の中国語の文献は限りがあるから、何か新しい研究成果を挙げるためには出土文字資料を扱いなさいという、これも恩師のアドバイスである。私は東洋文化研究所の松丸道雄先生の下で、金文(周代の青銅器銘文)を学び始めた。松丸先生の指導は厳しかった。出席者は一つの銘文を割り当てられ、それについての全ての文献を細大漏らさず集めて読み込み、その上で自分の見解を報告することが求められた。そこで私は再び金文研究者としての白川静と向き合うことになった。そのようなある夜、研究会の後の飲み屋でふと感じた息苦しさが、白川文字学との訣別のきっかけとなった。以前あれほど魅力的に感じられた字源に関する言説が、実は甲骨文や金文のコンテクストに立脚点を持たず、信じるか信じないかというレベルで人に受け入れを迫るものであることに思い至ったのである。

しかし文字との縁は切れなかった。戦国時代の楚の国の竹簡を始めとする出土資料が増えたため、言語の研究にとっても難解な戦国文字資料を避けては通れなくなったのである。東大着任間もない1998年に、中国広州市の中山大学に楚の文字を学ぶべく留学し、それ以後楚の竹簡を中心に戦国文字資料の解読や文字学的研究も行うようになった。広州から帰国後、新設の大学院文化資源学研究専攻の文字資料コースの担当を命じられ、それまでは考えられなかった様々な分野の先生方とお付き合いさせていただいて10年になる。ごくたまに呼ばれる他所での講義や講演は、文字に関するものばかりだ。本業の上古中国語文法には、まずお呼びはかからない。副産物であったはずの文字研究だが、むしろそれによって「世間」と繋がっているのは、何とも不思議なご縁である。上田萬年と白川静に始まり、多くの先生方によって紡ぎ続けられたこの縁をしみじみ思う。