池田謙一(社会心理学)

ほぼ四半世紀も前に文学部の社会心理学専修課程と大学院を出て、16年ほど前に舞い戻り、そのまま教師をしている。こう言ってしまえばいかにもあくびの出そうなキャリアである。進学ガイダンスにプラスになる波瀾万丈のお話なんて、とてもムリにも見える。たしかにブレはない。しかし平坦な道ではなかったように思う。その話をしよう。

ぼくの場合、高校がたまたま大阪だった。なぜ京都に行かないのか、と多くの人にいぶかしがられながら文三に進んだ。「たまたま」というのは、親の転勤のためにあちこちで暮らしていたからである。仏文の某大先生のところに行きたいというのが、受験の大義名分だった。一つしか受けなかった。大江健三郎に毒されたというわけでもないが、「物書き」になりたかった自分がそこにいた。

入学後、同級の仲間を中心に少人数でよく読書会のようなことをした。フーコーやソシュールは、そこでかなり読んだ。今はそうした仏語力は影も形もない。このときの仲間は哲学や言語学や国史に行き、自分は文学系統ではなく社会心理なのだから、不思議な組み合わせである。己が世間一般で言うような「物書き」にそれほど向いてないな、と感じるようになったからだろう。それは、何がどう、というより違和感でしかなかったが、徐々に蓄積されたものだった。要は、ストーリーテラーではないし、エピソード記憶と人物とを立体的に結びつけることにも力が欠けていたのだ。

駒場にいる間に、心理学や社会学にも出会ったが、当時は設置されて3年目、新しい専修課程だった社会心理学に行ってみる気になった。この判断は個人的なものだから詳しく書いても役立たないだろうが、「社会」と「心理」の両方がついていれば何をしても許されそうだ、などとよくうそぶいていた。今でも人の心がどのように社会的に埋め込まれた存在なのか、関心はそこにあるのだから、正解だったと言うしかない。

しかし、進学当初は未開の地だった、と今だから正直に書かせていただこう。ありていに言えば、社会学と心理学からお一人ずつ回ってきただけのことで、お二人とも「社会心理学」というものの独自性に納得してもいなければ、特有のアプローチに目覚めていただけでもない。寄り合い所帯だった。いまのように実習が充実しているわけでもない。当時はそれがふつうだったのかもしれないが、教官には放置された。よく言えば、自助努力のフロンティアだったわけだ。

 だから、進学した仲間はそれぞれの思いで、社会心理学という分野に対する愛着もアイデンティティも形成していかざるをえなかった、という思いが強い。教官どうしがコンパで鍋を挟みつつお互いにいやみねちねちの状況でも、学生はそこに「生まれた」存在であって、そこにしかアイデンティティの行き着く先はないのだった。

もちろん、優れた教員に恵まれた研究室は進学すれば大いにプラスである。しかし進学するに当たって、教員の専門性にとくに振り回される必要は必ずしもない。たしかに学部時代の2年間だけでも、自分が何を専攻したかはその後の人生にかなり影響を与える。教員に恵まれないのは小さな不幸だが、それが全てではない。自分が何に関心があるか、好きなこととしてやっていけそうなのは何か、まずはそれに重点を置くことだ。あとは自分の問題意識を生かすことだ。

この分野のハイブリッド性もあって、ぼくは周りの領域から多くを得た。理論社会学、実験心理学、音声言語学のゼミにはずいぶんとお世話になった。そうした他流試合的な方向性は後々まで肥やしとなった。とくに、ぼくらができることは何なのか、という社会心理学のアイデンティティの形成に。

その後の自分の経路については、研究者になるという意思以外に「この道」と積極的に自分でどれだけ決めてきたかは疑問である。むしろ、選ばない選択だったと言えるかもしれない。まず助手としてコミュニケーション関係の専門部局に5年行き、そこで世論調査手法を身につけた。その手法が生きる方向で都内某大学の法学部で政治学の専任講師となった。その5年後に社会心理学研究室に戻ったわけだが、こうした経歴の中で、ぼくがいつもしてきたことは、自分で「この分野」と選んで固執することよりはむしろ、周囲の需要に応じることであり、またその過程で培った研究のネットワークを発展させることだった。誰にもそれを勧められるわけではない。考えようによって主体性がないからである。しかし他方で、それは未知でワイルドな状況に応じて適応力を磨くと同時に、他人の持っていない専門性を持ち込んで、新天地に貢献することでもある。異質さのもたらす価値、というのは現在の自分の研究テーマの一つでもある。

もし進学後さらに院をめざすような諸君にアドバイスがあるとすれば、その影響が大きくとも自分が最初に学んだ専門分野に固執することは必ずしも正しくない、ということだろうか。学部生や院生の数年程度でやったことを一生続ける必然性がどこにあるのか、それをベースにして他分野へ発展する方が自分にとってプラスかどうか、つきつめて考えることである。自分がユニークで他人にはない視点や知識や技量を持ち込めるのがどんな分野なのか、熟考することである。

過去を振り返れば、入学当初考えていた「物書き」とは形の異なる「物書き」にいまはなっている、と自分では思う。つまり、ぼくの仕事は理論仮説の構築とその検証を世論調査に基づいて行う実証作業であり、その論証の言語を通じて語ることである。そこに物書きのストーリーは現れる。それは多くの場合、チームを組んだ大規模な研究となる。一人の頭の中で全てが展開するのではなく、あたかもルネルサンスの工房のように、一つ一つの作品をチームで彫琢していくことがごく普通の営為となっている。さしずめぼくはその工房の親方として「物書き」になっているわけである。多くの作品が連名なのはその共同性のゆえんである。膨大なコミュニケーションなしにははかどらない仕事だが、そこには苦楽をともにするよろこびがある、というのが実感である。美化しすぎ?