社会学の可能性

白波瀬佐和子(社会学)

どうしていまここにいるのか。つくづく思うことは、本当に将来なんてわからない、ということである。私など、特に優等生であったわけでも、本の虫だったというわけでもない。あえていうならば、怖いもの知らずで、なんだか好奇心だけは旺盛だったということぐらいである。その上、誉められるとついその気になって木に登ろうとしてしまう。これまでの節目、節目に私をうまく誉めて、木に登らせようとしてくれる人がいた。結局は木に登りきれずに転げ落ちてしまうのだが、何度かそんなことを繰り返すうち社会学を専門とする研究者になっていた。

大学院に進むとき、私は社会学に進むべきか、経済学に進むべきか迷った。そこでなぜ社会学に進むことにしたのかは、経済学よりも将来性がある、と生意気にも感じたからである。ある意味、経済学は社会学よりも方法論が確立している。教科書にしてもミクロ経済とマクロ経済というように、研究分野が明確に体系づけられている。一方、社会学といってもその体系の捉え方に定番というものがない。正直いって、Sociologyとつく教科書にあまり面白いものにお目にかかったことがない。それでも、社会学に学問としての「これから」を感じた。そのビビット感が社会学を選ぶきっかけとなった。しかし今思うと、社会学の社の字も知らないでこういう大胆なことを考えたのだから、われながらあっぱれである。

ひとは生まれたときから社会がひとつの器としてある。この社会をどう認知し、意味づけるか。その答えが一つでないことも、また面白い。我々をとりまく諸制度の縛りや諸制度からの保護、規範といった制約が我々の意識や行為に関与する。個人は人と人とのつながり、諸制度とのつながり、規範とのつながりの中で生きている。これらのつながりは個人の選択に有利に働くこともあれば、足枷になることもある。これはまさに一つの社会学的なものの見方である。

「選択」の意味をよく考えてみると、ここにいま私がいる場所をどれほど自分で積極的に「選択」してきたのかは、正直わからない。物事を選ぶにはまず、選ぶ対象が目の前にあることが前提となる。ただ、この「ある」ことはすべてのものに等しく「ある」わけではなく、また「ある」こと自体も時として見落とされることがある。さまざまな選択にあたって、いろんなひとびとが助けてくれた。もちろん嫌なことだってあったし、選択を間違えたかしらと思い悩んだこともある。しかし、どういう専門分野を選ぶにしてもひとついえることは、わくわくすることを選んだ方がよいがということだ。例えば、だれがみても無謀だと思われる選択もある。いうなれば、私がハリウッドスターを夢見るようなことである。それでもすごくわくわくする自分がいるとすれば、いくら無謀でも「とにかくやってみたら」と言いたくなる。「そんなできもしないことをやってみろと進めるなんて、なんて無責任な」といわれるかもしれないが、これまでの私の経験からすると、「それは無謀よ、やめときなさい」といわれるより「やってごらん!」と背中を押してもらったことが大きな勇気になった。そんな無謀な勇気を私はいままで、ちょっぴりづつ積み上げてきたように思う。

ひとつの選択によって、人生は変わる。だからこそ、何を選ぶかに慎重にならざるをええない。しかし、どの選択をとってもあまり変わらないと思って臨んだほうがよいかもしれない。選択によってその後に続く道は変わってくるが、その選択を評価し、どう将来に生かすかはあなた自身の選択に対する意味づけやその後の取り組みによる。また、選択する当人としてのあなた自身とあなたの目の前にある選択肢はさまざまな規範や制度に左右されて偶発的にもまた必然的にもあなたの人生を形づくる。生きるということは、意識的、あるいは無意識のうちに、さまざまな選択をしてきた過程の積み重ねである。

それでは、どこが社会学をやっていてわくわくするのか。ひとつは、気に留めなければどうということがないことが、よく考えてみると意外とわかっていないことを発見する意外性にある。社会とは、生きるとは、家族とは、といった「そんなことわかりきったことじゃないの」ということが、よく考えてみるとその中味は意外と複雑でわかっていないことが多い。「そんなの常識よ」と片付けてしまうのは易とも簡単だが、同時にそれは世の中を鈍感にしかみていない。当たり前と思っている「普通のこと」が、実は普通ではない。そんな発見があるとき、私はとてもわくわくするし、感動する。

身近なことだと当然視していることが、実は考えてみるとさまざまな要素から成り立っている。どうしていまあなたが東京大学にいて、ある専攻を「選択」しようとしているのか。この意思決定の過程にも実はいろんなことが絡んでいる。私は何をするのが好きかという嗜好の問題、特定の専攻に進むことで将来有利な就職につける可能性があるかもしれないという潜在的効用の問題、親が数学者で絶対に数学はやりたくないという親との関係など、考えてみると面白い。そう考えはじめると、何でも社会学の対象になりそうだ。だからこそ、身近なこと、常識だと言われていることをもう一度疑ってみてはどうだろう。疑ってみると、これまでわかりきったことだと思い込んでいたことから新たな発見が生まれる。あなたの常識をもう一度疑って、社会学の扉を開いてみるのも悪くないかも。いちどお試しあれ。