吉澤誠一郎(東洋史学)

私は、東大の東洋史学専修課程を卒業して、いまは東洋史の教員をするに至っています。しかし、このガイダンス冊子のためには、駒場からの最初の進学先が、実は国史学研究室だったことを書かなくてはなりません。これは、いくつかの意味で、すこし気が重いことです。(1)自分が不動の立場をつらぬく堅固な意思の持ち主でないことが、ばれてしまう(でも、柔軟な発想の人間だといえばよいかもしれない)。(2)きちんとした選択を進めるはずのコラムの趣旨から外れるかもしれない(迷いにも、また意義ありとか、もっともなことも言えますが)。(3)なぜ、国史から東洋史に転じたのかということが、いまだによく自分でもわからない(これが、気を重くする最大の理由です)。

私は、高校生のときは、理科系志望だったこともあります。しかし、物理法則といっても、それは必ずしも実験によって証明されないではないか、なぜなら、全く空気抵抗のないところで落下実験をした人はいないのだから、などと妙なことを考えて、自然科学は、不確かなものだという結論を強引に導き出しました。文学に代表される言語の世界は、それとは異なり、そもそも虚構が深い意味をつくりだすものなので、安心です。実は、単に数学の点数が悪かっただけかもしれません。

大学に入学した当初は、さまざまなことに興味を持っていましたが、第二語学に中国語を選んだことは、やはり大きな意味がありました。当時は、まだ中国語クラスは文科三類では1クラスしかなく、少数派という感覚が残っていました(実態は、急増の過程にあったのですが)。そのなかで、中国に対する特別な関心が芽生えたことは確かです。

 大学二年の夏には、ひとりで中国大陸を旅行しました。このころの安い旅行は、まず(英国植民地の)香港に行って、そこから中国本土に入国するのです。中国では、さまざまなことに驚きました。社会制度のありかたや人々のものの考え方の違いです。食堂では、「糧票」という配給券を出せと要請され、駅では鉄道の切符が全く買えない。上海では、最良のデパートのエスカレータが止まったままで、ただの階段になっている。街のあちこちに痰をいれる壺がある。しかし、見知らぬ者に親切にする優しく度量のある人もたくさんいる国とわかりました。

日本に帰ると、まもなく、進学先を決めなくてはなりませんでした。そこで、国史を選びました(現在では日本史と改名されています)。むろん、これは熟慮を経た結果です。日本史については、大学に入ってから、強い関心を持つようになっていました。

なぜ、中国に関する専攻を選ばなかったのでしょうか。それは、おそらく、そのような混沌とした中国について、学問的に対象化することが可能なのだろうかという疑問を持ったのです。

文学部国史学研究室に進学してみると、とても真面目に学問をするところでした。他方で、日本史という学問は、大きな枠組みがとても明確で、それを動かすことは許されず、いっそう細部に迫ることをめざすという印象を持ちました。これは、私の学力が足りなかったせいでもあるのでしょう。

このころ、中国では、1989年の政変が起こり、また、それと関係あるかどうかわかりませんが大量の移民が福建から流出して日本に至るという事態になりました。私は、まじめに日本史の勉強をしていたので、それら事件にも表面上あまり強い感銘を受けませんでした。しかし、昨年、自分で歩き回った北京の街が、大きな動乱に包まれたという感じは、もしかすると、私の意識に影響していたのかもしれません。中国の不思議さ・不可解さ、誰ひとりとしてまともに説明できないらしい中国のありようは、基本的な枠組みを自分で動かせるとは思えぬ日本史(そして日本社会)とは異なる魅力をもつものと感じられるようになりました。

ここまで書いて、まだ気が重いままです。これが、どの程度、正確な説明なのか、それほど自信が無いからでもあります。つまり、少し後づけの説明が入っているのではないかということです。でも、いざ選択するというときの心の動きを後から正確に説明することなど、そもそも可能でしょうか。

文学部に進学してから一年後、私は東洋史学研究室に「転専修課程」し(注※)、中国史の勉強を始めました。その後、中国社会の実態も、どんどん変わっています。でも、それだけに、中国の不思議さという感覚は、今でもあまり変化していません。まだまだ勉強する楽しみがあります。

(注※) 文学部に進学したあと、研究室を移動するには、いくつかの要件を満たしたうえで手続をして承認を受けることが必要です。定数を満たしていない研究室への移動は、比較的容易なようです。定数を満たしていないからといって、その学問の底が浅いと考えるのは早計です。これこそ、「底がつかない」ということの深意です。