学問の縁(えにし)

池澤優(宗教学)

何で自分が今、文学部の宗教学研究室に所属しているのか疑問に思うときがある。そしてまた、なぜ自分がこの専門を研究しているのかといぶかしく思うときがある。

実は私はかなり早くから研究者になることを希望していた。幼稚園のごっこ遊びでは鉄腕アトムではなく、お茶の水博士をやりたがったというから、その頃から素地があったのであろう。人文系の研究を志したのは小学校の高学年の頃であった。東大に入学したときには、自分が何がやりたいかについての悩みはなかったので、そのような悩みを抱えている方々に気の利いたアドバイスはできそうもない。一方、確固たる意志を持って研究室を選択した方々にも、文学部で学ぶ上での心得を偉そうに説ける立場でもない。というのは、今でこそ、文Ⅲの学生がなぜ必ずしも文学部を志望しないのかを嘆き憂える立場にあるが、実は私自身が教養学部志望であったからである。

高校時代から文化人類学に関心を持っていた私は、進振りでは教養の文化人類を志望した。実際、大林太良先生や寺田和夫先生など、書物で親しんでいた教授の講義に出席したことは感激であった。では何故、教養学部に進学しなかったのか。簡単である。単純にそれだけの点数がなかったからである。第二希望には何となく人類学に近そうな宗教学を記入した。そのために文学部宗教学研究室に進学することになった。といっても、宗教に関心があったわけではない。その時の私の眼中にある宗教とは、いわゆる未開宗教や民俗宗教であって、仏教とかキリスト教には何の関心もなかった。

進学が決まってから、やや慌てて、ちょうどその時に脇本平也先生が開講していた全学ゼミに参加した。宗教学の古典を講読する演習であったが、担当したのはフレイザーの『金枝篇』である。少し後になって、脇本先生が私の発表を“フレイザーが生きていたなら、こんな声だったろう”と評されたことを知ったが(どんな声だ?)、あるいは私の声が評価されたのかもしれない。文学部に進学した後は、柳川啓一先生に最も影響を受けた。今でも忘れられないのは、宗教人類学関係の英語文献を読む演習で、発表した私が突然英語の意味が分からなくなり、十数分間沈黙してしまった時のことである。柳川先生は私が意味を把握しなおすまで、何も言わずに待っていてくださった。この時点でも私は宗教全体にはなおも関心を持てなかったが、宗教学の先生方の人柄には参ってしまったと言って良い。宗教そのものには関心を持たぬまま、私は大学院進学を決めた(というより、就職ははなから眼中になかった)。

大学院では、後藤光一郎先生が指導教官であったが、実際は東文研の松丸道男先生の演習に参加することで、現在の私の基礎ができた。柳川先生と後藤先生が松丸先生に“こういう学生が行きますので宜しく”と話を通していただいたことを知ったのはかなり後になってからである。松丸先生が開示する甲骨・金文の世界は私を魅了した、というよりも、それはあまりにも魅惑的であったため、振り落とされないようにしがみついていくしかなかったという方が正確であろう。よく好きなことを飯の種にして幸せですねと言われるが、それは嘘である。私は好きで現在の専門をやっているのではない。ちょうど悪女に魅入られた凡夫よろしく、好きではなくても、対象があまりにも魅惑的なため離れることができないのである。

その後、私は松丸先生の紹介でブリティシュ・コロンビア大学に留学することになる。そこで出会ったのがオーバーマイヤー先生であった。オーバーマイヤー先生とは実は専門はかなり異なる。それにもかかわらず、私をうったのは、教授が私に示してくれた真摯な対応であった。博士論文の草稿を送るたびに教授はそこに細かな鉛筆書きでコメントを書いて送り返した。その書き込みは時に草稿の印字が見えなくなるほどであった(この時の草稿は今も私の宝物である)。

私はどう考えても、進振りが何であるのか、それにどう対応すべきか答えられない。今の私を作り上げているのは、そのような制度としての、あるいはディシプリンとしての学問ではなく、その時々に出会ってきた人々のキャラクターであったからである。進学する先がどんなところでも良いとは言わないが(そんなことをしたら、このコラムの目的を否定してしまうことになる)、どこに進学しても、そこにはあなたを生涯にわたって影響することになる人がいる、そんな風に考えられないだろうか。

多くの先生方との縁により、そのお蔭によって、私は今、宗教学研究室に所属している。そんな私が希望していることは、今の自分を作った諸先生方から私が受けたことを、そのまま今の学生諸君に還すことである。もっとも、それができているのかは、はなはだ心許ないのであるが……。