旧人類の右往左往

石井規衛(西洋史学)

実を言うとなぜ西洋史に進んだのか、いまだによく分からない。大層な理由などないけれど、今回を機会に整理してみることにしよう。つじつま合わせかもしれないのだが。

子供の頃から心を捉え続けていたのは数学であり、それを生かせるような仕事につくことを、漠然とではあれ考えていた。だが高校2年の終りごろから哲学に関心を抱き、ヘーゲルを学びたい、との一念で文Ⅲに入った。だから第2外国語はドイツ語である。余談だが、てっきり理系を受験したものと思いこんでいた父親は、知らせを受けるや激怒し、やれ入学金等を払わない、やれ他大学へ入り直せ、などと言い放ったものである。

では入学するや直ちに哲学三昧の日々だったのか、というと、そうではない。はやくも4月下旬には、授業に一切顔を出さなくなった。生来の怠け癖もあったが、大学生活を取り囲む大状況がざわつき始め、書物の哲学どころではなくなった、という事情もあったのだろう。すでに1965年には、日韓条約の締結をめぐって私の高校生活は揺れ動いていたのだ。だがなによりも私(たち)の生活を落ち着かなくさせたのは、ベトナム戦争という大状況である。それとは対照的な高度経済成長が、捻れた形で絡み合い、生活をいっそう居心地悪くさせることで、「68-69年」の事態の一つの背景となっていたのかもしれない。

文学部内の進路選択が迫ったときには、関心は、「近代知」の起源としてのヨーロッパ中世思想へと、より具体的なものに移っていた。そこで進路先に西洋史を選んだが、とくに西洋史なるものにひかれたわけではない。もともと「世界史」は、受験での楽勝科目の一つであった。教科書に書かれている事象がマルクスの『ドイツ・イデオロギー』などから仕込んだ大きな枠組みに、不思議とよく収まり、整理も暗記もしやすかったからである。だがそれ以上のものではなく、西洋史とは、添乗員養成コースにこそ必要なもの、とすら思えたものだ。日本の過去には強い関心を抱いていたが、切実すぎ、日本史(当時は国史と呼ばれていた)はかえって選択肢には入りにくかった。ちなみにテーマの関連で、駒場第4学期にラテン語やギリシャ語の勉強をはじめたが、いまから思えばたいへんな贅沢をさせてもらった。ラテン語は荒井献、ギリシャ語は川島重成の両先生で、しかも少人数の授業だったからだ。のちにロシア史の卒論を書いた際に、荒井先生の岩波新書『イエスとその時代』を引用したのも、そうした縁があったからだろう。

では一体いつ、ロシア・ソ連を選択したのか。ひるがえって、学業上のテーマ選択と切実な問題関心とは、はたして同一でなければいけないのだろうか。

実は私にとってソ連世界への関心は、大学の入学時よりはるか以前からのもので、それはたんなる関心事ではなく、のっぴきならぬ「今の問題」たり続けていた。ソ連が社会主義と呼ばれていたからではない。核戦争を伴う世界戦争の勃発の可能性をはらんだ大状況(冷戦)に、過剰なまでに怯えていたのだ。元来ソ連とは、第一次世界大戦のさ中に、反戦を掲げて政権についた勢力が作りだした世界だったはずである。にもかかわらずソ連は、はるかに苛烈な世界戦争の再発を防げなかったばかりか、戦後には、自ら軍拡競争の積極的なアクターとなって大状況の本質的な構成部分に転化することで、その状況の印象をいっそう出口なしのものにしていた。そうした大状況が今後の人生を大きく拘束している以上、私には、ソ連も含んだその大状況に、なんらかの形で働きかけるか、凝視し続ける外はあるまいと、思われたのである。それに対して、大学制度の内部でソヴィエト・ロシアの過去を詮索することは逃避的で、どこか悠長な「大学内のお遊び」とすら思えたのであった。ソンナコトシテ一体何ニナル、という声が、いつも自分の内から聞えてきた。要するに、私にとってソ連とは、単なる学業上のテーマではなかったのだ。駒場時代『歴史としてのスターリン時代』の菊地昌典先生からお話を伺う機会もあったが、ロシア史を学ぶ気が起こらなかったのも、そうした私の一方的な思い込みがあったからに違いない。私のこうした思い込み(妄想か?)は、かなり極端なものだっただろう。だがそれは、おそらく若い人には分かりづらいと思うが、世界戦争を身をもって体験した親の世代のトラウマが私(たち)をいかに捉えていたのかを示す、一つの事例だったのかもしれない。

私は本郷で二重の学生生活を、つまり大学制度上の「表のお勤め」としての中世思想史と、自分本来の「裏の営み」としてのソ連問題や大状況との不断の対話、といった二重生活を送れるとでも思っていたのだろうか。かかる生活は特別の人だけがなしうること。だから本郷に進学するや無理がきた。だが幸いにも、当時国際的に議論が起ってきた「スターリン主義」問題が、大状況との不断の対話と、学業とを両立させる手掛りとなるやに思われた。とくに関心をひいたのがソ連社会と共同体の関係をめぐる議論である。それは、ソ連の矛盾した行動や性格を説明し、ソ連体制と明治国家(「絶対主義的天皇制」!?)の相似性を示唆しているとさえ思われた。さらにはマルクスやウェーバーの思想との突き合せや、フランス革命など西欧史上の事件との比較も伴っていたのだ。あるとき西洋史の柴田三千雄先生に、テーマがロシアでも西洋史の大学院に採ってくれますか、と伺ったところ、なにを寝ぼけたことを、との顔をされて、試験に合格すれば当然だ、とおっしゃった。その一言で大学院への道を決意し、ソヴィエト期ロシアの農村社会研究の第一人者ダニーロフの論文を片端から読みながら卒論の準備にとりかかり、ひとまず二重生活を解消することになる。だがそれは、30年近くも続く別のレベルの試行錯誤のはじまりでもあったが。