本研究は、第一部から第三部の計十章、ならびに序章、終章にわたり、中世和歌における表現の生成と変遷の諸相を論じるものである。以下、本論の各部各章につき、要旨を述べる。
 第一部の計四章では、鎌倉時代初期に成立した『千五百番歌合』を扱う。本作は後鳥羽院三度目の応制百首として成立し、後に歌合に改編された。歌人三十名、判者十名が参加した本作は、『新古今和歌集』と並び、後鳥羽院歌壇を代表する巨大和歌行事である。だが、成立に関わる外部徴証が乏しいこともあって、その性格については今なお未解明の点が多い。そこで本研究は、表現に即して、実証的に本作の基本的な性格を明かすことを目指した。
 まず第一章では、『千五百番歌合』の本文を歌人別の百首に組み直し、各々の構成上の特徴を確認した。ついで、他の後鳥羽院応制百首との比較を行い、本作固有の祝賀の表現を指摘した。以上の分析により、当初はあくまで応制百首として詠まれており、歌合への改編は想定されていなかっただろうこと、また本作は前年までの応制百首とは違い、『新古今集』編纂が後鳥羽院の主導のもとに具体化された中で詠進された、最初の応制百首であっただろうことを明かした。
 第二章では、先行作品摂取に注目した。本作では『古今集』からの摂取が顕著に認められるが、その中には歌人の内発的営為であるとは捉え難いものがある。また、本作で摂取された『万葉集』『伊勢物語』等の古歌は、後にしばしば『新古今集』に入集する。こうした特徴的な先行作品摂取は、『千五百番歌合』『新古今集』両作の下命者である後鳥羽院の意向によって要請されただろうことを、後鳥羽院の表現分析や前後の応制百首との比較により明かした。そして、前者の種類の摂取は『新古今集』の『古今集』重視の理念に連なるものとして、後者は『新古今集』撰歌時の古歌発掘作業に繋がるものとして必要とされたと捉えた。
 第三章では、視点を下命者から各々の出詠者に転じ、藤原公経、公継、源通親の、先行作品摂取の方法を分析した。具体的には、公経は、先行作品から摂取した言葉を歌の全体に鏤めることにより、強度の圧縮や句切れを伴う一首の骨組みを繋ぎ止め、当代風の詠風を実現していると指摘した。対する公継の場合は、院政期的な和歌のあり方を一面では受け継いでいる。だがその『万葉集』摂取は、『万葉集』摂取を新たな表現獲得の場として利用する、独自性の高いものであり、院政期から鎌倉初期に至る過渡期の様相を伝える作者であると指摘した。そして通親は、応制百首という公の場に、亡妻哀悼のような私的なものを紛れ込ませてゆく方法として、『源氏物語』摂取を利用していると論じた。以上からは、後鳥羽院の意向が強く働く中でも、同時に先行作品摂取が、個々の歌人の表現獲得の場として機能していることが見えてくる。
 ここまで、本作を百首歌として論じることで、下命者後鳥羽院の『新古今集』への意識と古典敬慕の姿勢、そしてそれに対する歌人各々の反応を抽出してきた。これを踏まえて第四章では、本作をその最終的形態である、歌合として論じる。まず、作品呼称や『新古今集』詞書の分析により、歌合改編の所以は、『古今集』における『寛平御時后宮歌合』に相当するような大規模歌合の姿を、『新古今集』中に書き残すためだったと結論付けた。また歌合としての構造に君臣和楽の演出を指摘しつつ、その和楽は他の後鳥羽院の歌合とは違い、『亭子院歌合』等の古い歌合を慕ったものだと見た。こうした経緯と志向性ゆえに、本作が当代の歌合として内実を欠くのは必然だったが、それを曲りなりにも歌合として成立させたのが判詞である。そこで最後に顕昭判に注目し、判詞が引用を駆使して解釈を示すことにより、歌合にふさわしくない歌を歌合の歌として成立させてゆく過程を指摘した。以上のように、『千五百番歌合』の複雑さと資料的価値は、下命者と歌人、判者が互いに密に関わりながら、異なる志向性を見せる点にある。
 
 以上の第一部を土台に、第二部「歌語の機能と表現史」の計三章では、『千五百番歌合』の和歌や判詞に見える特殊な表現に着目した。その際、個々の表現の特性の指摘にとどまるのではなく、歌語(表現伝統に立脚して日常語から自立した機能を備えた、和歌固有の語彙)が、『新古今集』の成立期に見せた機能と展開を捉えることを目指している。
 第一章では歌語「菊」に着目し、とりわけ「霜」と取り合わせられる際、長寿と霜枯れ、白色と紫色といった、矛盾するイメージと色彩を持つことを確認した。そしてその色彩が、固有の観念性や両義性、特殊な時間的表現を生んだことを指摘した。こうした特性を持つからこそ、「霜」と「白菊」の取り合わせは、『新古今集』成立期、動的な変化を内包する表現を生んだのである。
 第二章は、藤原定家の自撰家集『拾遺愚草』『拾遺愚草員外』および『定家卿百番自歌合』を分析対象とし、「梅」と「月」の取り合わせを俎上に乗せる。具体的には、定家の自詠に対する評価を抽出し、建仁年間頃までの定家は『新古今集』を代表する著名歌を残したにもかかわらず、同集とは異なる評価軸と志向性を見せることを指摘した。それは、「梅」の伝統的な詠み方にも、父俊成が牽引した当時の風潮にも反する、独自性の高いものである。だが建保期以降の定家は、一転して梅の規範的な詠みぶりに従う姿を見せる。その変化の分水嶺となったのは、家集を編纂する行為であったと指摘し、個人の詠歌史における家集編纂の意義を論じた。
 第三章では、歌語「桜色」の詠歌史と、その画期点となった定家詠とを互いに照らし合わせて論じた。まずは「桜色」が喚起する具体的な色相を、服飾に関する言説の調査によって明確化し、歌語「桜色」の機能と停滞を、和歌の作例の通史的分析によって確認した。そして以上に基づき、定家詠が、「雪」と「花」の見立てと協働させることで「桜色」の新たな表現機能を引き出した過程を分析しつつ、その「桜色」刷新の方法が、伝統的に培われてきた「桜色」の機能を弱める側面も持つことを指摘した。ここには、中世歌人が伝統的な表現を受け継ぐことの難しさ、歌語と歌人の間の緊張関係が検討課題として見えている。
 
 こうした歌語に関する問題意識を、第三部「表現の獲得と継承」の計三章でより発展させた。特に、第二部第三章でみた、伝統的な表現の継承と克服の間で揺れる中世歌人の様相を念頭に置き、表現研究を糸口に、中世和歌の特性と史的展開を捉えることを目指している。
 第一章では、琵琶湖をさす歌語「鳰の海」の生成と変遷を論じた。この語は鎌倉初期に流行するが、本来は平安中頃、専ら受領層の女性が物語等に用いた表現である。その背景には、石山寺参詣時等に琵琶湖に触れた、受領層の女性たちの実体験があったと指摘した。だが『千載集』前後の時代、「眺望」題や「湖上」題が、題意を満たす表現の成熟に先立って盛行する中、「鳰の海」は湖上の眺望を実現できる表現として利用されてゆく。そして鎌倉初期に、初句切れの流行から包括的な地名表現が必要とされたこと、東海道の旅程に変化が生じたことなどから、「鳰の海」の観念化はさらに進行した。以上の分析から浮上するのは、平安中期の受領層の女性の表現が固有の特性を奪われ、普遍化されてゆく過程でもあり、中世初期の歌人が、古い表現を換骨奪胎することで、時代の要請に応える表現を獲得する過程でもある。
 第二章では、文屋康秀「吹くからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」を扱う。まず、近現代の当該歌注がしばしば影響を指摘する遊戯詩と、それらの基盤にある神秘的文字分解(拆字)のそれぞれの特性を、漢籍及び日本漢詩に基づいて確認し、近現代の研究の問題点を明らかにした。そして当該歌が、拆字の本質的特性である分析性を受け継ぐ、高度なメタ言語意識のもとに成った一首であり、「(あらし)」という語の歴史の中で極めて先駆的であることを論じた。だが、その分析的な知的遊戯が鮮やかな意義を持ったのは、平安初期という時代背景あってのことだった。中世には、拆字の大衆化や「嵐」の定着、語源意識の変化等により当該歌への理解が変質することを指摘し、拆字を基盤に持つ日本の詩歌の通史的展開を整理した。
 最後の第三章では、第二部で触れた見立ての問題や、第三部で扱った時代と表現の関係の問題を踏まえて、中世歌論に見える「似物」に注目した。「似物」とは事物Aを言わんとするために事物Bを経由する表現の総称であり、今日の研究用語でいう見立てを含む。本章では、「似物」及びその代表例とされる「花」と「雲」の取り合わせに着目し、歌論と実際の作例を分析した。その結果、「似物」は院政期にはすでに行き詰まりを見せていたが、だからこそ一三世紀に新たな自然観察の契機となったこと、一四世紀には和歌・連歌において変質し、現代の季語にまで繋がる新たな形式と機能を得たことが明らかになった。つまり「似物」という方法は、克服されねばならなかったからこそ、かえって中世の表現の土台となり、その展開を支えたのである。その顕著な例として、最後に「共感覚的表現」と呼ばれる方法を取り上げた。従来一括されてきたこの表現に、異質な二種があったこと、ことに創造的な一種を生み出した原動力に、「梅」と「月」の「似物」があったことを指摘している。こうした一連の分析からは、中世和歌の展開を優れた作例の点綴によって捉えるのではなく、表現伝統の蓄積に向き合う動きの総体として捉える視野が開けている。
 以上の通り本研究は、第一部から第三部にかけて異なる対象を分析した。そしてその各論を積み重ねることにより、中世和歌が前時代からの蓄積と向き合いながら表現を獲得してゆく展開を、多角的に捉えることを図ったものである。