本論文は、20世紀初頭にインドから太平洋航路上を北米方面に向かう際に寄港地・目的地となり得た香港、上海、日本、マニラ、カナダ、アメリカ(便宜上これらを「環太平洋地域」と総称する)に焦点をあて、これらの地域間を移動したインド人移民の空間的・社会的な流動性の高さはなぜ生じたのか、また、移動の過程でインド人移民間にどのような多地域間関係が構築され得たのかを解明することを、第一の目的とする。
 こうした目的を設定する背景には、環太平洋地域へ渡ったインド人移民の歴史を扱うこれまでの研究が、移民先ごとに移民の状況を切り離してまとめる傾向にあり、複数の移民先にまたがるインド人の活動が主要な関心の対象となりづらかったことがある。また、2000年代以降に発表された諸研究では、環太平洋地域を含む世界各地へ向かったインド人移民の歴史を解釈する際に、広域におよぶイギリス帝国の植民地や自治領とイギリス本国との関係性を強調する傾向がみられる。そうした研究群においては、イギリス帝国の政策やイギリス帝国によって整備された交通・通信基盤がインド人の移動をどのように決定づけたのかといった点に議論が集中する一方で、移動を行うにあたってインド人移民自身が果たした主体的・戦略的な役割が見えづらくなるという側面があった。
 そこで本論文は、インド人移民自身の主体的な行動選択に注目する立場から、インドから北米へ至る環太平洋地域間移動の全体像を捉えたうえで、彼らが移動の過程で蓄積した経験や、移民同士が構築し得た関係性について明らかにすることを試みる。なお、移民同士の関係性について検討するうえでは、共通の帰属意識に基づく均質的なネットワークが多地域間におよんで形成されていったという前提にたたない。むしろ、地域や時期によって異なる文脈において、様々な部分的・断続的な関係性が形成されていく過程に着目し、そうした関係性について「接続性」の語を用いて考察する。
 ところで、20世紀初頭には、サンフランシスコを本拠としつつ、本論文で対象とする環太平洋地域のインド人移民の間にも広く参加者を得て、「ガダル運動」として知られる反イギリス植民地主義運動が展開された。この運動は、主にインド人移民の間で参加者、資金、武器の獲得を試み、集団で帰国したのちにインドで武装蜂起を実行してイギリス支配を終わらせる「革命」を達成することを目的としていた。先行研究では、この運動が多地域間におよんで展開した理由を、各地を移動しつつ活動したインド人政治運動家や、政治運動家によって発行されて様々な地域へ送付された出版物が果たした役割に即して説明してきた。他方で、運動の拡大を担った各地のインド人移民がどのような人々で、なぜ運動に加わる選択を行ったのかという観点からも、運動の拡大過程について解明する余地がある。そこで本論文は、20紀初頭における環太平洋地域間のインド人の移動に着目しながら、ガダル運動の形成と発展につながる状況がどのように準備されたのか、その一端を解明することを、もうひとつの目的とする。
 本論文は、序章、第1章から第6章、終章から成る。序章では、上記のような研究の目的と背景を整理するとともに、19世紀以降インドから世界各地へ向かったインド人労働移民やインド人兵士の移動への諸政府の関与と、20世紀初頭以降環太平洋地域へ向かったインド人移民の流れとを比較した。その結果、環太平洋地域へ向かったインド人移民は、インドと特定の目的地の二地域間で移動を維持・管理されるのではなく、多地域間を行き来する特徴があったことが示された。
 続いて、第1章から第6章までは、インドから香港、上海、日本、マニラを経てカナダやアメリカへ至るインド人移民の環太平洋地域間移動という一連の動きを捉えたうえで、移動の各段階において重要性を持つ地域やテーマに絞って、議論を行った。全ての章は1900年頃から1915年頃までの間のほぼ同時期を扱うが、各章が特に焦点をあてる時期は、第1章から第6章にかけて緩やかに時系列に沿って進行する形をとった。
 第1章では、イギリス帝国下で「軍事適応種族」とみなされて兵士や警官として働くようになったパンジャービー(パンジャーブ出身者)が、1900年の義和団戦争を契機として中国方面でイギリス政府系以外の職にも就くようになっていったことと、イギリス帝国が彼らの移動を思い通りに管理できなかったことを明らかにした。イギリス帝国がパンジャービーを帝国にとって都合の良い範囲内に留められなかったことは、パンジャービーがイギリス帝国の推奨しない地域や職種に独自に進出していくことにつながり、本論文の対象地域におけるインド人移民の空間的流動性の高さを生じさせることになった。
 第2章では、香港や上海でイギリス政府系の兵士や警官の職に就くインド人(その多くはパンジャービー)が、辞職してアメリカやカナダなどへ渡ろうとした動機や、辞職と渡航を実現するためにとった戦略的な行動について、インド民族運動の展開や上海共同租界の情勢と関連づけつつ考察した。その結果、インド人がイギリス帝国支配への加担から解放されるためにイギリス政府系の仕事を辞めることに意義を見出したことが、環太平洋地域を移動するインド人移民の社会的流動性の高さの一因となり得たことが示された。
 第3章では、第1章と第2章で確認した状況の延長上で、職を求めるインド人自費渡航者が多く集まるようになった北米太平洋岸に視点を移した。特に、インド人到来の初期からインド人労働移民、富裕なインド人実業家、インド人政治運動家が共に活動する事例がみられたカナダのバンクーバーに注目し、彼らが移民コミュニティ内において雇用機会を創出したり、共同経営の貿易会社を設立したりして相互扶助を図り、排外主義的風潮に対抗したことを論じた。こうしてカナダで異なる活動に従事するインド人の間に接続性が形成・強化されたことは、のちにアメリカやマニラでインド人移民が問題に直面した際に、カナダのインド人たちが援助を申し出て、多地域間にまたがる接続性を形成する前提となった。
 一方で、カナダとアメリカへ多くのインド人移民が入国する状況は長くは続かず、1910年頃にはカナダとアメリカの双方で実質的な対インド人入国制限措置が講じられていった。これに伴って、香港まで来たものの北米行きの汽船の切符を買えないインド人や、北米で入国を拒否されて送還されたインド人が、香港に滞留する状況が生まれた。彼らの主な滞在場所となったのが、香港スィク教寺院であった。第4章では、そうしたインド人滞留者が増加していた時期の香港スィク教寺院に焦点をあてた。すなわち、1911年から1914年までの間に香港スィク教寺院に滞在した3人のインド人の回想録に基づきながら、香港スィク教寺院がスィク教徒の信仰のための場であるとともに、非スィク教徒を含む様々なインド人の滞在および交流の場となっていたことを論じた。また、この時期に香港スィク教寺院で出会ったインド人同士の間に形成された接続性が、彼らの一部が香港からアメリカへ渡った後にも緩やかに存続し、後のガダル運動の展開に生かされた可能性があることを指摘した。
 第5章では、第1章から第4章までに見てきたパンジャービーを中心とする自費渡航者の流れと同時期に、彼らとは異なる文脈において日本で活動したインド人学生、商人、政治運動家たちに着目した。こうした滞日インド人たちは、職を求めて北米へ渡航しようとするインド人たちとは、日常的にはほとんど接点をもたなかった。他方で、両者が日頃異なる活動に従事していたからこそ、両者が時として接触した場合に、それぞれが形成してきた人脈や活動圏が組み合わさり、拡大することがあり得た。特に第5章では、日本で活動するインド人商人の活動圏が、のちにガダル運動における東アジア・東南アジアを通じたインドへの武器密輸計画に生かされた可能性を指摘した。
 第6章では、北米渡航を試みるインド人自費渡航者の移動にふたたび視点を戻し、カナダやアメリカへの入国を阻まれて香港に留まっていたインド人移民の一部が、マニラ経由でアメリカ本土へ入国する経路を切り開いたことを論じた。そして、後にこの経路も塞がれると、マニラのインド人移民がカナダから到来した政治運動家とともにアメリカ政府の移民政策に対する抗議運動を展開することになり、カナダとマニラのインド人移民間の接続性が強化されたことを明らかにした。また、マニラのインド人たちが北米での入国拒否問題に抗議する過程で、自分たちの権利がイギリス帝国臣民として尊重されないことを繰り返し経験したことは、彼らと反英革命思想との接近を促す要因となり得たことを指摘した。 
 終章では、様々な手段を尽くして入国拒否措置に抵抗していたインド人移民たちが、それらの手段を通じてもなお問題が解決されなかったため、最終的にガダル運動の反乱実行という手段を選ぶに至ったと考えられることを示した。また、環太平洋地域のインド人移民たちが、1900年頃からそれぞれの活動目的を達成しようとする主体的な試みの結果として形成していた多地域間の移民にまたがる接続性が、後にガダル運動において利用されるようになった可能性が高いことを論じた。翻って、環太平洋地域間を移動したインド人移民たちは、自身の人生を切り開こうとする主体的な試みの延長でガダル運動の担い手となり、多地域間にまたがって運動を拡大させる役割を果たしたことが示された。