本研究は、英国における1970年代の文化政策形成過程において、どのような影響要因が作用していたのかを明らかにすることを目的としている。この研究目的は、文化政策とは誰のためにあり、どのような過程で合意形成されていくことが望ましいのかという筆者の第1の問題関心に端を発する。そして、この問題意識は、現在の英国イングランドの文化政策が文化芸術活動をより多くの人々に開いていくという方針のもと、政策形成に当たり、文化芸術の専門家はもとより、一般国民まで多様な人々の意見を広く聴取して政策形成に反映していく制度設計への関心から生じている。第2の問題関心は、日本における英国の文化政策への関心がアーツカウンシルという組織制度に限定される傾向にあり、俯瞰的な視点が欠如しているのではないかという懸念である。

 そこで、本研究では、多様な運動や民間財団の活動が活発に展開されていた1970年代という時期に焦点を当て、アーツカウンシルのみならず、地方自治体、民間財団、中間支援組織、文化芸術施設、芸術家といった多様な利害関係者が当時の政策形成に、それぞれどのように関与していたのか、その歴史的経緯や事象を通して、政策形成過程における政策主体と利害関係者の関係性の在り方を探り、文化政策形成の力学を明らかにすることを試みた。

 1970年代における英国の文化政策を考察するに当たり、第1章では、本研究に通底する、1970年代の英国社会における文化芸術及び文化政策の立ち位置を、政治・経済、社会、教育との関係性から整理し、俯瞰することを試みた。当時の文化政策は、経済的、政治的、そして文化的な分断が大きい社会にあって、芸術としての卓越性の追求することに主眼が置かれ、一般の人々からは共感を得にくく、公共政策と呼ぶには不安定な立ち位置にあった。文化的側面においても、既存の文化芸術の概念を超える多様な運動や価値観が生まれ、従来の芸術という言葉だけではすべての現象や広がりを表現することが難しくなっていた過渡期にあったのである。

 第2章では、公的な芸術支援が開始された1940年から1965年文化白書の発表までの時期を対象とし、公的芸術支援の理念の推移を整理し、その経緯を考察した。まず、1946年のアーツカウンシル創設の経緯を巡り、創設者のケインズの言説を通じ、ケインズがアーツカウンシルを通じて実現しようとしたビジョン「大いなる知識を発展させ、純粋芸術のみに対する理解と実践を深め、特に我々の領土全体に純粋芸術へのアクセスを増やすこと」の背景を明らかにした。アーツカウンシルの前身である芸術・音楽奨励評議会が目指した達成目標は、戦時下にあって「最大限の人々に最高の芸術を届ける」ことであったが、平和時においても芸術を振興していくことを目的としてアーツカウンシルが創設されたのだが、プロの芸術家が生み出す純粋芸術、ハイ・アートへの支援に限定されることになった。ケインズが考えていたアーツカウンシルの理念は、「より多くの人々」へ優れた芸術を届け、「最高のもの」を生み出すことへの支援の双方だったが、戦後のアーツカウンシルの継承者たちは、卓越した純粋芸術を生み出す創造活動を支援する方針を長年にわたり優先した。1960年代半ばともなると、ハイ・アート支援の方針は限界を迎えるようになり、アーツカウンシルは、ハイ・アートへの支援を優先し続けるのか、あるいはより幅広い社会層の人々に対して芸術へのアクセシビリティを優先するのかという二項対立的な矛盾を常に抱えることとなった。

 このような状況において、1965年、労働党政権において初めて国家レベルの政策文書として文化白書「芸術のための政策:最初の一歩」が発表され、ケインズが主張した公的支援の在り方が見直されることとなった。同文化白書によって、全国各地での文化芸術活動の振興が奨励された結果、1970年代、全国に中間支援組織としての地域芸術協会、多目的な文化施設であるアーツ・センターが多数設立され、こうした施設や活動に携わる芸術家たちや実践者たちも活発に活動を展開し、多様な運動体が生まれ、ネットワーク化が進み、地域での文化芸術活動はさらに進展した。

 第3章から第5章にかけて、本研究の中核を成す時期、すなわち、1965年文化白書発表から1979年のサッチャー政府樹立までの期間を対象とし、当時の文化政策に転換をもたらした影響要因を考察した。1960年代から70年代にかけて新たな文化政策の担い手が出現するようになり、当時の文化政策形成に対して、民間財団による調査提言や、多様な運動に携わる芸術家たち、実践者たちが大きく関与するようになっていた経緯があった。

 第3章では、民間のグルベンキアン財団が、2点の報告書、レッドクリフ=モード報告書とカーン報告書を通して、当時の文化政策の在り方に対して問題提起と提言を行っていたことを考察した。前者のレッドクリフ=モード報告書は、公的支援が開始されて以来初の、全国における芸術支援の実態を網羅的に調査した報告書であり、この調査をもとに当時の文化政策の課題を指摘し、改善策を提言した。後者のカーン報告書は、公的芸術支援においては、移民などのエスニック・マイノリティの人々への創作活動が認知されていなかった現状を指摘し、公的支援の必要性を提言した。この2点の報告書は、ともに1976年に発行され、いずれも当時のアーツカウンシルの方針に対する批判・圧力として、政策形成に大きな影響を及ぼすこととなった。

 第4章では、社会や文化芸術の概念が大きく変化していた1970年代にあって、前衛的、実験的な芸術表現や新しい価値観によって実践された芸術運動や社会運動との関係性、またこうした活動の評価判断に揺れていたアーツカウンシルの実態と改革の試みについて考察した。1975年に事務総長に就任したショーは、芸術の卓越性を高めるという目的以外のもう1つの目的である「我々の領土全体に純粋芸術へのアクセスを増やすこと」の振興を目指し、教育を通じて目的を達成しようと試みていたのだった。

 第5章においては、地域における文化芸術活動が振興された結果、地域においても中間支援組織、文化施設が多数出現し、多様な運動が展開されるようになっていたこと、また、芸術家たちも自らの居場所と創作空間を求め自助活動を展開し、運動体を形成するようになっていたことを考察した。地域における文化芸術活動を推進していたのは、地域芸術運動、アーツ・センター運動、芸術家たちの自助運動、課題を抱えた地域において、創作活動の過程により多くの人々に参加する機会を提供しよう試みたコミュニティ・アーツ運動という4つの運動に関し、その歴史的経緯と当時のアーツカウンシルとの関係性に焦点を当て、文化政策形成への関与について考察した。この4つの運動のうち、地域芸術運動やアーツ・センター運動、芸術家の自助運動は芸術運動として捉えられていたのに対し、コミュニティ・アーツ運動は社会変革を求めていたとして社会運動と捉えられ、前者の運動とは異なる運動として分類されていたのだが、実際には、現在の文化政策の概念形成に大きな影響を及ぼすこととなった。また、いずれの運動も設立当初から、アーツカウンシルの方針とも複雑に絡み合い、時には拮抗、対抗する勢力ともなり、当時の文化政策の構造転換をもたらす影響要因となっていたのだった。

 第6章では、結論として、1979年のサッチャー政権樹立によってもたらされた、さらなる文化政策の構造転換について考察を進めるとともに、1970年代におきた文化政策の構造転換の現代的意義について明らかにした。特に、サッチャー政権の文化政策としてのアーツカウンシルの10年戦略「庭園の栄光」と、このサッチャー政権が推し進める政策へのアンチテーゼとして、経済学者マイヤーズコーによって作成された「英国における芸術の経済的重要性」の2点の報告書を通して考察を進めた。

 1970年代に展開されていた芸術運動や社会運動は、1979年に保守党のサッチャー政権の樹立を契機に、それぞれ転機を迎えていた。文化政策において、ポスト1970年代を特徴づけたのが、アーツカウンシルの10年戦略「庭園の栄光」が発表されたことである。同戦略において、文化政策の地域分権化が推進され、アーツカウンシルから地域芸術協会に地域の文化芸術活動の推進に関して権限移譲する方針が提言された。サッチャー政権は、文化芸術分野においても、効率主義や市場原理の導入を推奨した。こうした動向に危機感を覚えたグルベンキアン財団は、再び、調査と提言が必要と考え、地方自治体、文化芸術団体、公的機関と連携し、文化芸術は経済に寄与できるというデータを調査収集し、提言書として発表した。この調査には、アーツカウンシルも加わり、政府の文化政策に対抗した。同報告書は、1988年に経済学者マイヤーズコーによって「英国における芸術の経済的重要性」として発表され、文化芸術活動が初めて数値化され、経済効果を生み出す文化産業となる可能性や、都市再生への経済的貢献の事例が提示され、大きな反響を呼んだ。文化芸術活動が産業として捉えるようになると、それに属する人々は文化セクターと呼ばれる業界を形成する素地も生まれ、公共政策における立ち位置も変化していく契機ともなった。

 本研究の結論として、冒頭の問題提起に対し、文化政策は決して政府や公的機関などによってのみ形成されてきた訳ではなく、多様な担い手、すなわち利害関係者が存在し、活動し、政策形成に働きかけてきたボトム・アップの力が影響要因として、英国の文化政策の発展を支えてきていたことを明らかにした。また、この力が現代の文化政策形成過程においても継承されてきていることも考察した。

 終章として、本研究の意義と今後の研究課題についてまとめた。