本研究は、イブン゠アラビー(1165–1240)の神秘体験を記述し考察するものである。直観をめぐってなされる体験当事者の自己理解から、特有の思考の動きを明示することを目的とする。彼の多分野にわたる膨大な著作は異なる主題を取り上げているように見えるが、絶対者としての存在を直観することとその直観をめぐる言説が諸テクストに通底しているという理解は研究者に受容されている。彼の神秘体験と自身による記述は本人と後継者により学説化され、神秘体験を基礎におく存在論が形成されてきた。本研究は彼の体験と思索が絶対者としての存在の思惟に展開することを認めた上で、それに先んじて〈無限なるもの〉が現れ与えられる事態の成り行きをテクストの読解から提示する。これは神秘体験、神秘主義を神人合一や主客合一としてではなく、超越の内在的現れとして考察する事例研究である。

 イブン゠アラビーは〈無限なるもの〉が相対的な事物の認識の根拠としての〈文字〉へと転じるさまを考察する、という読解が本研究の特徴である。この読解で、体験に直接与えられた〈無限なるもの〉の実在性を確信する根拠はそれが自分を超えた他者性・超越性として与えられることであり、それは〈文字〉の現れと連関していることが提示される。彼は自然本性のような既存の用語や香りのような独自の用語で超越としての〈無限なるもの〉が相対者である体験当事者のうちに〈文字〉として現れることを記す。彼の神秘体験は無限なる超越が内在的に〈文字〉として現れることを自覚することであった。本研究は、直観に与えられる本質的な事態として〈無限なるもの〉が認識に至るまでの変容を章ごとに扱い、認識は〈文字〉が成り立たせ規定するという確信を解釈学的根拠とする彼の思索の基礎を分析する。

 第一章「直観」は、イブン゠アラビーの主著『マッカ開示』と『叡智の宝石』の基底となる神秘体験・神秘的直観をその現れの構造的な本質、現れの仕組みから記述する。まずヴィジョン、形象、あるいは像の与えられ方、現れ方の基本要素、すなわちヴィジョンの構造に着目した上で、それが直観体験の当事者にいかなる意義として了解されているのかを考察する。特に他者・超越者から〈文字〉へと至るヴィジョン、形象、像の展開に着目する。その結果、次のように言える。彼は幻視・幻影の報告を目的とせず、〈文字〉、形象、像の現れを独自の範疇化によって彼なりの理性的言語化にもたらそうとしている。それは論理的な概念化ではなく、体験の直接性が失われずに無媒介的に認識が与えられるような範疇を準備するものである。

 第二章「夢見」は、心理学の分析方法を用いて直観と夢見とが同質的・同型的な体験であることを議論する。まず、第一章で提示された直観される形象、あるいは像がもつ位置づけが、体験者当人にとっていかなる心理学的根拠、心理学的機能として認識されているのかを検討する。その結果、次のことが示される。第一に、夢見および直観体験の当事者として、イブン゠アラビーはイメージの非論理的な連鎖と思われかねないヴィジョンのうちでも最も基礎的と思われる形象、あるいは像が他者性・超越性によって特徴づけられていることを意識している。第二に、他者性・超越性で特徴づけられる形象は、非論理的な本性として彼に現れ、与えられ、直観されている。第三に、他者性・超越性に見出される非論理性は〈無限なるもの〉に由来していることを当人は意識している。

 第三章「無限」は、直観と夢見の本質的な構造を規定している〈無限なるもの〉をイブン゠アラビーがどのように記述しているか提示する。彼は無限と訳しうる複数の表現を用いている。そのような表現が用いられるテクストの分析を通し、彼がそれらの表現で無数や無際限といった概念と異なる事態を指示していることを示した。そのような事態の記述には、有限な現実世界として現れる形象、あるいは像が〈無限なるもの〉を内包しているという直観が基礎にあることが読み取れた。彼は、かいま見ることしかできない〈無限なるもの〉が他者性・超越性の確信を保証しているという認識を持っている。

 第四章「香り」は、直観のなかで〈無限なるもの〉が感性的・感覚的様相を呈してゆくさまが香りとして捉えられることの意義をテクスト分析を通して考察する。直観における事物事象の現れは〈無限なるもの〉としてではなく香りとして捉えられる。その段階は質料的な局面の顕現に対応する、とイブン゠アラビーは考えていることが示される。香りの体験は、神による創造行為の現れ、存在そのものの働きとしての事物事象が、理性的な認識、知的対象と一致することだけでなく、〈無限なるもの〉として現れる感性的・感覚的な了解のことであると言える。彼は〈無限なるもの〉から香りへという形で具体化してゆく過程を扱い、それらが認識することの根拠、あるいは仕組みと関わることを述べている。

 第五章「遍在貫流」は、香りとしての存在そのものの働きが存在界全体に行き渡り充満しているという認識がイブン゠アラビー存在論の基礎にあることを論じる。テクストの読解によって、遍在貫流は存在論的基礎ではなく、認識の仕方を指すことが分かった。存在するとはいかなる事態かという彼の思考がイブン゠スィーナーと結びついていること、遍在貫流はイブン゠アラビーの思考が学知化されるにあたって基礎的観念になることが分かった。また、遍在貫流が直観に与えられるには、想像力にもとづく認識が不可欠であると彼が考えていることが示された。〈無限なるもの〉を知的対象化せずに了解へともたらす働きが想像力による認識である。

 第六章「自然本性」は、イブン゠アラビーが存在を自然本性の現れと見なしているテクストを分析し、遍在貫流という現実の生成変化するあり方が自然本性と呼ばれている意味を考察する。自然本性は、遍在貫流を直観する体験のさなかで、直観しつつそれを捉えるための概念でも、体験を分解して部分を固定的に捉える概念でもない。それは直観で与えられる現実の生成変化を産出性として捉えるものとして用いられていることが分かった。彼はあらゆる偶有としての〈無限なるもの〉を孕んだ実体として存在そのものを見るために、生成変化する現実の産出性において捉え返すことで、偶有としての存在の付帯する以前の本質を自然本性と呼ぶ。このような形で、彼は思想史の流れに革新をもたらしている。

 第七章「文字」は、イブン゠アラビーに特徴的な〈文字〉の観念を考察する。彼は知性を構成する無限な〈文字〉を事物の本質としての神名、神の〈言葉〉と同定する。彼の〈文字〉とはアラビア語子音であるが、前意味的な単位としての音であり、その組み合わせにより意味・概念が与えられ、神名、神の〈言葉〉として展開するものである。アラビア文字をめぐる彼以前の文字論は、通常、数秘術・錬金術・占星術などの隠秘主義的な技法であった。すなわち、それは個々のアラビア文字がもつ決まった数値を操作して隠された意味を自然界やテクストから導き出す技法、アラビア文字と星や元素との対応から神話的な宇宙生成論を構築する思想、あるいは両者の混淆した実践と理論の体系であった。しかし彼の諸テクストからは、彼が〈無限なるもの〉の直観体験においてその現れを香り、遍在貫流、自然本性として捉え、思索していることが読み取れた。彼はそこに直観の構成要素としての〈文字〉の現れを認める。彼は〈文字〉が直観・思惟・認識の本質的な構成要素として与えられ、思惟の仕組み、認識を規定する機能として働いていると考えている。

 イブン゠アラビーの神秘体験は、体験当事者にとって異他的かつ超越的なものとしての〈無限なるもの〉の現れであり、それが自己の内に認識の根拠たる〈文字〉として現れることとして直観されるという自覚体験として理解できた。〈無限なるもの〉は他者性・超越性ゆえにその実在性が確信され、〈文字〉は人為的なものではなく、自然に与えられ、その付与は自身の作為を超えるものとして了解されている。そこから、〈文字〉は事物事象を認識する知性の基礎であり、事物事象・世界の認識を成り立たせる認識の範疇として自然本性として知性に与えられているという確信になっている。彼の神秘体験の特徴は、〈無限なるもの〉を内包する〈文字〉が知性を構成し規定し、〈文字〉と事物との一致としての認識に事物の自然本性として無限が現れ、自己の内なる自然本性と事物の自然本性とが一致する香りの体験として世界が体験当事者に現れるという了解である。

 彼の思索の特徴は、無限な絶対者が有限な相対者を通して無限な絶対者自身を認識し、それを〈文字〉論として展開することである。彼は神秘体験を神人合一や主客合一の直観と了解するよりも、有限な相対者としての自己の中に無限な絶対者が現れる直観を神秘体験と了解する。これは一神教の文脈で慎重になされた発言であることが理由であると見るよりも、自身を超えるものとして認識の枠組みがもとより与えられていることを自覚することが神秘体験であるという考察である。また彼は〈文字〉をめぐる神秘主義的な形而上学的思考を展開する。〈無限なるもの〉が〈文字〉において現れることは、〈文字〉が相対者の内部で絶対者の認識器官として働くことであった。つまり彼は事物事象・世界の認識が自己の内なる〈文字〉を通してのみ生起し、〈文字〉が相対者に認識を可能にすると考えた。このような形で〈文字〉を描出し、その対応として事物事象・世界を捉える。彼は感性的認識と理性的認識との重なりあう想像的認識として想像力を捉え、この想像力が神名、神の〈言葉〉からなる世界や聖典の〈文字〉に〈無限なるもの〉を認識する解釈学として〈文字〉論を提唱した。