本論文は20世紀20、30年代の中国で活躍した豊子愷(1898-1975)が大正期の日本の学者たちによる東西の芸術比較論を介して、カンディンスキー(Wassily Kandinsky, 1866-1944)の抽象芸術論を受容し、それを中国画論と融合させた上で独自の仕方で「気韻生動」概念を解釈したことを明らかにするものである。美学者、翻訳者、画家、美育者といった多彩な顔を持つ豊について、従来の研究はその多くが仏教的要素や竹久夢二(1884-1934)の絵画様式の影響の解明に集中している一方で、豊の思想形成において西洋の美学芸術学の受容が果たした役割は十分に検討されてこなかった。豊の東西比較論、さらにそのうちに見られる日本的な要素に着目した研究としては、稲賀繁美の『絵画の東方——オリエンタリズムからジャポニスムへ』(1999)などが挙げられる。しかし、カンディンスキー受容における豊の東西比較論と日本の学者らによる東西比較論との異同はなおそこでも十分に検討されていない。したがって、本論文は豊と日本の学者の東西比較論を実証的・文献学的に詳しく対照することによって、アーサー・エディ(Arthur J. Eddy, 1859-1920)から園頼三(1891-1973年)、そして豊にいたるカンディンスキー受容の系譜を辿った。

 本論文が扱う「気韻生動」概念は謝赫(479-?)によって提起された中国画論の最も重要な概念の一つである。20世紀初頭の中国において、西洋の写実絵画への傾倒に対抗して、豊の論考のほかにも、劉海粟(1896-1994)の『中国絵画の六法論』(1931)などが現れた。また最近でも、尼ヶ崎彬の「「筆法記」の六要について」(1981)、田中英道の「西洋美学と「気韻生動」」(1997)、彭鋒の「気韻とリズム」(2017)など、気韻生動をめぐる研究は多い。ただし、これらの研究が主として「気韻生動」を中国の概念として捉えるのに対して、本論文は東西の文化交渉をとおして「気韻生動」概念が形成される過程を再構築した。

 本論文は豊の芸術論を歴史的に初期(20年代前後)、中期(20年代中頃から40年代にかけて)の二つに分ける。第一章は豊の初期の芸術論を、第二章から第五章までは中期の芸術論を扱う。その際、考察の中心となるのは「気韻生動」という概念である。

 第一章では「気韻生動」概念が登場する前の豊の初期の芸術論を考察した。豊は新文化運動の発祥地の一つである浙江省立第一高等師範学堂で李叔同(1880-1942)に師事し、美育〔美的教育〕の実践から西洋の近代美術の写実絵画を提唱し、「図画教授談」(1919)などにおいて模倣を行う芸術ジャンルにおける「自然美」を重視した。ところが、こうした過程を通して彼は模倣を行う芸術ジャンルの限界をも意識するにいたった。すなわち、「画家の生命」(1920)などにおいては、絵において重要なのは、自然物の外形の写生ではなく、自然物の美的質に関わる画家の「感興〔遺貌取神〕」の表現である、と主張する。この変化を明らかにするために、本章では20年代前後の豊の日本とのかかわりに注目し、豊が自然美を重視する立場から画家の「感興」と重視する立場へと変化した過程をたどった。

 次いで第二章では、1920年代中頃の豊の芸術論の特徴を、とりわけ「気韻生動」という概念が初めて提起される過程に即して、明らかにした。1921年に東京での遊学を終え中郷に戻った後、豊は白馬湖の春暉中学で教鞭をとりながら、日本を介して西洋の近現代美学と現代芸術の研究に従事した。「芸術の創作と鑑賞」(1924)において、彼は「感覚美」によって「高遠な思想感情」が喚起される、と述べている。豊のいう画家の「高遠な思想感情」には表現主義のカンディンスキーの抽象芸術論から影響が見られる。

 続いて、第三章では豊がカンディンスキーの抽象芸術論を東洋の芸術論と比較することをとおして形成した現代的な「気韻生動」概念を考察した。「中国美術の現代芸術上の勝利」(1930)において、豊は日本の学者によるカンディンスキーの「精神的なもの」と「気韻生動」との比較研究を踏まえて、カンディンスキーの純粋絵画と中国の伝統書道について独自の比較研究を行なっている。1927- 1930年の豊によるカンディンスキーの抽象芸術論と中国画論についての研究を考察するのが本章の課題であり、エディから園、そして豊にいたるというカンディンスキー受容の系譜を明らかにした。

 第一節では、園によるカンディンスキー研究の前提として、アメリカにおいてカンディンスキーと東洋芸術がいかに関係づけられたのか、この点に注目した。アメリカにおけるカンディンスキーの紹介者であるエディは、日本美術のコレクターのヘンリー・ブイ(Henry Pike Bowie, 1848-1920)によって解釈された東洋の「生動」論に基づいて、東洋芸術のうちに固有の抽象傾向を見出し、それがカンディンスキーの主張する「魂の感情」と類似していることを、他の研究者に先立って主張した。カンディンスキーと東洋芸術との類似性をめぐる議論は、エディに由来する。

 第二節では、園によるカンディンスキー受容を考察した。園は、ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer, 1788-1860)の観念論美学における「純粋観照」の状態と中国画論の概念である「気韻生動」との間に類似性を見出す。一方、リップス(Theodor Lipps, 1851-1914)の感情移入説は気韻生動説より低次なものだと園は主張する。園によれば、リップスのいう「感情移入」は私的な「身体の感情」にとどまるがゆえに、とうてい創造的衝動の根底にはなりえない。むしろ、芸術を可能にする創造的衝動とは自己を対象へ移入することによって甦った「絶対精神」であり、それは東洋芸術においては「気韻生動」として自覚されている。このように考える園は、カンディンスキーの「精神的なもの」を重視する芸術論を東洋的な「気韻生動」説によってとらえるにいたった。

 第三節では、豊の「気韻生動論」を扱った。まず感情移入説に対して、豊は園と異なる見方を示している。すなわち、豊は「感情移入」を、リップスの理論に依拠する園のように私的な「身体の感情」を対象へ「移入」することとはみなさず、むしろ観念論美学、特にショーペンハウアーの美学にいう純粋観照の状態において自己が対象の中に「没入」することによって、対象の精神となる「気韻生動」を感じ取ることであると考える。さらに、豊は自身が関心を持つ東洋的な見方に即して中国の伝統書道について論じる際に、カンディンスキーの抽象芸術論を援用する。豊によれば、書道の要諦は純粋絵画のそれと同じく、自然物の姿を借りず、単に諸々の線の構成をとおして「神気」を感じ取ることにある。こうした主張に基づいて、豊は中国美術における「自然観照」が西洋現代芸術に対して先行しているという点から、中国美術が「勝利」を収めた、と主張することになった。

 その上で第四章では、豊が現代的な「気韻生動」概念を用いて、中国伝統の文人画に関して、従来の立場とはいかに異なる見方を提示したのか、謝赫の「六法」をいかに解釈したのかを検討した。「中国画の特色:画中有詩」(1927)などにおいて、豊は題材の意義の有無によって「文学的絵画」と「純粋的絵画」とを区別するが、「純粋的絵画」は「眼の芸術」と規定される限りで、カンディンスキー流の純粋芸術と西洋近代の模倣を行う芸術ジャンルならびにその極限としての印象主義の芸術との両立を図るものといえる。また、豊は、題材の意義を持たず、「画面」を重視する絵画の特徴として「形象、色彩、位置、神気」に言及しているが、それらは、それぞれ「六法」の第三法である「応物象形」、第四法の「随類賦彩」、第五法の「経営位置」、第一法の「気韻生動」にあたると考えられる。さらに豊は、伊勢専一郎(1891-1948)の「詩趣」概念をも踏まえつつ、「専門画家」ではない王維の文人画こそが、こうした「純粋的絵画」を特徴づけると考え、文人画を文学的に解釈する従来の立場を批判する。ここにも明らかに、豊がカンディンスキーの「純粋絵画」観から受け継いだ芸術観を見て取ることができる。

 最後に第五章では、理論的に構成される「純粋的絵画」が絵画創作の実践において、どのように実現されるのかを検討した。「絵画改良論」(1942)において、豊は中国画の写生を「客観の主観化、現実の個性化」と規定することで、「写生」と「写意」を両立させる。ここに豊の最終的な立場が認められる。

 本論文は、カンディンスキーの抽象芸術論と気韻生動論に注目し、それらを最初に結びつけたエディから園、そして豊にいたる系譜を検討し、豊の現代的な「気韻生動」概念がカンディンスキーとの関わりにおいて形成されていく過程を明らかにした。豊が提唱した異彩を放つ東洋的意識は、西洋芸術の受容により写実絵画が主流となっていた20世紀20、30年代の中国ではより大きな潮流とならなかったが、グローバリゼーションとローカライゼーションの交叉する今日において、伝統文化の再評価と伝承、アイデンティティの認識といった課題はますます大きな意味合いを獲得している。東西の理論の交渉のうちに自らの芸術論を打ち立てた豊の理論的軌跡は、こうした課題に答える一つの手がかりを与えてくれるように思われる。