本論文は、長野県信濃町の野尻湖における市民参加型発掘調査の事例分析を通じて、発
掘調査の持つ社会教育的な意義の検証を行い、教育行政としての埋蔵文化財行政の望まし
い方向性を提示することを目的とする。
序章では、筆者自身の経験をふまえた問題意識を基礎として、今日の埋蔵文化財行政の
課題を取り上げる。文化財保護行政、埋蔵文化財行政は、法制度上、組織上において教育
行政を構成している。そのため教育行政の観点から埋蔵文化財行政は、執り行われるべき
ものである。しかし、この行政発掘は遺跡を「処理」することが中心になっており、その
システム上、市民が直接関与することは難しい。同時に、行政が市民を「オシエソダテル」
教導型の社会教育システムに基づいていることから、埋蔵文化財行政は、人々の主体的・
能動的な学びが社会を創るような、今日的な社会教育や生涯学習の場を創出しえていない。
その要因として、(1)行政システム上の発掘調査の問題、(2)専門性という障壁、(3)調査成果
を還元する上での問題、の3 つの問題が存在していることを示した。
第Ⅰ章では、序章での問題意識を踏まえつつ、直接的に誰もが参加可能な発掘調査の在
り方が、今日まで継続されず、1970 年代までに消失していった背景を探っている。その背
景には、経済発展に伴う開発事業の急速な増大とそれに対応するための記録保存を目的と
した発掘調査の一部を各地の大学の考古学研究会や在野研究者が下請けするようになった
ことにある。やがて、この発掘調査に携わってきた人々の一部は、埋蔵文化財行政の担い
手として文化財保護行政のシステムに組み込まれていく。この過程で市民参加型発掘調査
が成立し難くなっていった。
もちろん、こうした外部からの圧力によって、考古学や地質学の専門家と市民の自由な
参加によって行われる発掘調査が減少していったのは事実である。だが、同時に市民が自
由に参加し、学び、研究するためのシステムを多くの市民参加型発掘調査は、構築・発展
させることができなかった。これにより、専門家と市民による発掘調査の機会は失われて
いったのである。
第Ⅱ章では、こうした市民参加型発掘調査が衰退する状況に対して、地学団体研究会(地
団研)が各地で立ち上げたフィールドワークについて述べている。このフィールドワーク
に参加した調査者は、職業的研究者だけで独占されてきた<知>を遺跡地に還元しようと
する思想を持ち続けてきた。それは「僻地方針」というスローガンに象徴されてきた。し
かし、当初、この運動方針は地団研内部で矛盾や対立を孕むものだったためにやがて頓挫
することになる。「僻地方針」が頓挫した要因の一つは、あくまで調査者が創出した<知>
を遺跡地の人々に教示するに過ぎなかったことにある。それは、専門家が市民を「オシエ
ソダテル」ような旧来型の社会教育像とも重なるものだった。この経験はやがて学びや<
知>を創出する主体とは誰で、それはいかなるシステムの中で成立しうるかという、野尻
湖発掘における問いの基礎となっていった。
第Ⅲ章では、野尻湖発掘を成立させた、もう一つの系譜を検証している。この系譜は、
長野県を中心とするフィールドワーク史であった。近代の長野県では、教員の職能団体で
ある信濃教育会や信濃教育会のメンバーが中心となって結成された信濃博物学会において、
教員の自主的な研究活動とそれに伴う児童・生徒への実物教育が連動して行なわれていた。
また、信濃教育会をはじめとする、長野県内の教育会では、中央の研究者を招請し、フィ
ールドワークのノウハウや研究の手法を教員らが吸収していった。このことが、戦後に至
ってもアマチュア研究者によるローカルな<知>の形成に寄与することになった。そして
彼らが野尻湖発掘に参加することで、野尻湖発掘に非アカデミックな<知>をもたらすこ
とになった。
第Ⅳ章では、第Ⅱ章で示した科学運動の系譜と第Ⅲ章で示した非アカデミックなフィー
ルドワークの系譜とが重なり合って開始された野尻湖発掘の初期から、今日までの状況を
分析している。
野尻湖発掘の初期は、地団研メンバーが野尻湖発掘以前に実施した花泉遺跡の発掘調査
のように、調査者が調査成果を遺跡地に一方的に還元しようとするものではなく、「大衆」
と「ともに」発掘調査し、共同的な<知>を形成しようとするものだった。そして、同時
に遺跡地に博物館を設立して、発掘調査によって収集した資料を遺跡地の地元に返還する
という調査者の意図があった。しかし、調査者の意図に反して、参加者が帰属するコミュ
ニティの枠を超えて、全体として学術的な成果を上げるまでには至らなかった(第Ⅳ章第1
節)。
その後、野尻湖発掘は8 年間の休止期間に入った。この間、展覧会などのメディアを通
じて、日本列島における旧石器文化のイメージが日本社会の中に浸透するとともに、誰も
が学術発掘に参加できるという野尻湖発掘の存在が知れ渡ることになる。そのため、再開
した第5 次発掘以降、野尻湖発掘史上最も多くの参加者を得て、学術発掘が実施された。
その過程で、大勢の参加者が学術発掘に参加できる環境を整え、また発見至上主義から脱
するため、調査体制や調査手法の改革が行なわれた。このことで、年齢や専門性の点で幅
を持つ参加者による集団的かつ段階的な学びが可能となった(第Ⅳ章第2 節)。
やがて、野尻湖発掘は集団的な学びの上で、発掘調査に基づく<知>を創出するだけで
なく、昆虫化石研究が開拓されていったように、非アカデミックな市民的<知>を学術発
掘の場に持ちこみ、より豊かな<知>を創出するようになっていく。また、ナウマンゾウ
の足跡化石のような、新たな調査対象を前に、野尻湖発掘で蓄積してきた<知>を再編成
して、新たな<知>の創出を図っていった(第Ⅳ章第3 節)。
第Ⅴ章では、野尻湖発掘の成果を収蔵・展示し、教育や研究の場として設立された野尻
湖博物館(現野尻湖ナウマンゾウ博物館)を取り上げている。野尻湖発掘当初から遺跡地
の人々自身が独自に調査し、地域を変革する主体となることを調査団関係者が望んできた。
この思想の下、野尻湖博物館の建設過程では、地元住民や地元自治体、発掘調査団の3 者
によって議論が重ねられていった。この過程で発掘調査や博物館活動に直接的・積極的に
関わりを持たない遺跡地の人々を巻き込み、遺跡地の人々自身が野尻湖発掘や博物館の活
動を支える土壌ができていった。すなわち学術発掘によって新たな地域文化が生まれたの
である。
終章では、野尻湖発掘の分析から得られた知見を整理した上で、(1)~(3)の問題に言及し
た。(1)については、市民の自由な文化的活動を保障するためには、行政の直営事業ではな
く、行政から独立した組織によって運営することが望ましい。(2)については、調査組織に
集団的・段階的学習システムが構築されていることで、発掘調査への市民の直接的な関わ
りが可能であること、また、反対に市民的な<知>がフィールドワークに持ち込まれるこ
とで、そこで生まれる<知>の幅が拡大する可能性をもっていることが明らかになった。(3)
については、職業的研究者だけでなく、展示や叙述といった活動にまで誰もが関与可能で
あることが明らかになった。そして、これらの課題解決の先に、直接的・積極的な関わり
を持たない人々さえも巻き込みながら、発掘調査は地域文化を醸成する可能性が明らかに
なった。
このように発掘調査という場が参加者個人の学びを支援するだけでなく、社会を創造す
る機能を持っていることを明らかにした上で、さらにその成立要因を分析した。その結果、
第一に人的ネットワークが存在したこと、第二に専門家の意識が変化したことが、市民参
加型発掘調査の継続性を担保してきたことが明らかになった。
第一の人的ネットワークでは、初期の野尻湖発掘では学校のクラブ活動単位での参加が
主流であったが、1970 年代中頃以降、子どもを介してその保護者である親や祖父母が野尻
湖発掘に参加する形態や親や祖父母を介して、その子どもや孫が参加する形態が主流とな
っていく。このことで、大人同士や子ども同士のつながり、ひいては地域社会とのつなが
りが生まれた。こうして構築された人的なネットワークを介して、さらに野尻湖発掘の担
い手が再生産されていった。
第二については、当初「僻地方針」のような運動論的な背景の中で、考古学や地質学の
専門家が「大衆」に正しい科学的知識を与えることが中心となってきた。しかし、専門家
が自分達の成果を「大衆」に押し付けることで軋轢を生むことになった。この反省から発
掘調査に関わってきた人々は、「大衆」と「ともに学ぶ」という新たなスローガンを打ち出
し、野尻湖発掘を立ち上げていった。やがて、1970 年代以降、子どもから大人までの、主
体的・能動的な非職業的研究者による発掘調査を前にする中で、野尻湖発掘を主導してき
た専門家の意識もまた理念としてだけでなく、「ともに学」ぼうとする意識に変わっていっ
た。同時に、考古学や地質学研究における専門性だけでなく、組織経営する上での専門性
が市民参加型発掘調査の参加者に必要であることが認識されていった。
翻って、今日の文化財保護行政、埋蔵文化財保護行政の社会教育的意義を問い直す上で、
人的ネットワークの構築や専門家(専門職員)の意識改革が必要であることが明らかとな
った。