本論文は、朝鮮朝後期を代表する在野の思想家である星湖李瀷(1681~1763、字は子新、星湖は号。以下、星湖と略す)の思想を解明するキーワードとして、星湖の著述に顕著に見られる強烈な道統意識と致疑・自得の追求という、相反する二つの要素の共存を想定し、こうした相容れないような二つの要素の調和を図るために打ち出されたと考えられる星湖の学問理念と学問方法、そして星湖の西学(ヨーロッパの学術)受容の事実に注目して分析を行い、朝鮮儒学史における最大の争点である「四端七情理気論弁」に対して星湖が提出した独創的な四端七情論は、16世紀末以降、中国を介して朝鮮に伝来したイエズス会系の漢訳霊魂論書、とりわけ霊魂論の専門書である『霊言蠡勺』の多大な影響のもとで形成されたことを論証したものである。その過程を章ごとに整理すれば次の通りである。

第1章では、強烈な道統意識と致疑・自得の追求が併存する星湖学の特徴の淵源を探るために、星湖の家系と生涯と著述、そして家系と不可分の関係にある党色について分析を行った。その結果、星湖の学問傾向は、党争に起因する仲兄の李潜の死を境に、強烈な道統意識にもとづいた「学朱期孔」へと移行したが、それと同時に、経学における自得の重視・博学による知識の拡大・経世への積極的な関心などをその特性とする、家学の伝統としての小北系南人の学問傾向も、学問に臨む基本姿勢としていわば通奏低音のように流れ続けており、このような学問的背景の二重構造こそ、星湖の学問の中で強烈な道統意識と致疑・自得の研究姿勢が、矛盾なく共存できる理由であることを確認した。

第2章では、星湖における強烈な道統意識と自得の追求という相容れない二つの要素が、実際の学問研究の過程においてどのように折り合いをつけ、接点を模索していたのかを解明するために、星湖の経書学習における学問理念と具体的な学問方法について分析を行った。分析の結果、星湖は朱子の解釈に対する「堅守」と、自身も納得できるいわゆる「自得」との調和を図るために、朱子注釈を経書解釈の標準として尊重しながらも、それを以てしても解決できない疑問に出遭った場合は、自身の見解を隠さず提示していることを確認した。あえて新しい解釈は下さない(不苟新)、あえて古い解釈は残さない(不苟留)、あえて用いるべき意見は捨てない(不苟棄)という星湖の経書学習における三原則はまさにその証である。なお星湖は、そうした学問理念を具現するための技術的な方法としては、「不苟新」・「不苟留」の実践として、精読と思索に並行してその結果をすかさず書き留める作業である「妙契疾書」を採用し、「不苟棄」の実践としては、自らの持つ疑問や新しく得た考えを朋師に質問、または討論の材料とする「麗沢の益」を採用していた。特に「麗沢の益」を得るために、「不恥下問」の実践として偏見や先入観のない、謙虚で寛容的な博学の研究態度が重視され、ひいてその態度は異端の西学の受容を可能にする発想へと発展したことを論証した。なお、星湖が『論語』のような経書の理解に直接西学書を活用していたことも確認することができた。

第3章では、以上のような星湖の学問理念ないし学問方法がもたらした結果としての西学に注目し、星湖が門人の慎後聃と行った「西学問答」と、その問答がきっかけとなって著述された慎後聃の『遯窩西学辨』を対象として分析を行い、星湖の西学受容はイエズス会の宣教方針、すなわち儒教との共存を図ったいわゆる「適応主義」が功を奏した結果であり、とりわけ星湖は、天文学の知識のほか、彼自身が西欧伝来の心性論としてみなしていた霊魂論に対して関心をもち、その研究に取り組んでいたことを明らかにした。なかでも星湖は、霊魂の種類(生魂・覚魂・霊魂)や機能(記憶・理性・欲求)に関して強い関心をもっていたことを確認した。星湖著述のいたるところには、霊魂論受容の痕跡が残っているが、もっとも顕著であるのは、霊魂論に特徴的な人間心の構成要素を感覚の部分と理性の部分に区分する思考法である。

第4章では、星湖の四端七情論と霊魂論の影響関係を解明するための準備作業として、星湖四端七情論の目的と特徴を抽出し、星湖四端七情論のもつ朝鮮性理学史における意味を考察した。いわゆる朝鮮儒学史における「四端七情理気論弁」において、退渓李滉は人間の善性の証明を目的とし、人間の道徳感情の根源を理に求める。すなわち退渓は、四端と七情を理と気に分属し、四端は理発、七情は気発と主張した。これに対して、心性論における論理的整合性を重んずる高峰奇大升と栗谷李珥は、具体事物における理気の「不相離」を強調する。すなわち性より発する人間の情は一つであり、四端は人間感情の全体を指す七情の中の「善一辺」にすぎず、四端理発・七情気発とすれば、理と気が完全に分離してしまい、「理気不相離」の原則に矛盾すると反論した。特に栗谷は退渓の理気互発説に対して、「発するのは気であり、発するゆえんは理である。気がなければ発せず、理がなければ発するところがない。(理気に)先後がなく、離合がなければ、互発ということはできない」と反論したが、天人を一貫した論理で説明しようとする栗谷にとって、「天地の化」はただちに「吾心の発」であり、天地の造化に理化と気化が両立しない以上、人間の心発にも理発と気発が両立するはずがなかった。退渓の流れを汲む星湖は、若い頃から四端七情理気論に関する研鑽を重ね、35歳頃にはそれまでの研究成果を集大成して『四七新編』を撰した。星湖に課せられた具体的な課題は、「理気不相離」と「理気互発」の調和、すなわち「理気不相離」の原則を承認したうえで、退渓の「四端理発、七情気発」を説明するところにあった。星湖は四端七情の理気分属を証明するために、感覚は七情、理性は四端と区別する説(公私の二情論)を案出し、人間存在における、身体全体に流行し感覚にかかわる大気と、心臓を本拠として流行し精神作用にかかわる小気とを区分し、四端は理が直接に発して起こる感情(理直発)であり、七情は形気すなわち身体の大気が先に発して起こる感情(形気発)という説を打ち出した。星湖によれば、人間の心の発動には「理直発」の四端と「形気発」の七情があり、両者はいずれも心の内部においては「理発気随」の過程を経て発出する。朝鮮性理学史における星湖四端七情論の意義は、「理気互発」と「理気不相離」の二原理を矛盾なく調和させたところにあるということができる。

第5章では、星湖受容の霊魂論知識と星湖四端七情論の特徴を本体論と心性論の領域に分けて比較分析し、星湖説の独創性が霊魂論にもとづくものであることを確認した。もう一度星湖が解決すべき性理学的課題を整理すれば、本体論においては「天人合一」の解決、つまり天との関係を切らずに、人間心の独自領域を確保することであり、心性論においては「理気不相離」を守りながら四七の理気互発を説明することであった。星湖はまず人間心の独自領域を確保するために、知覚をつかさどる心臓の有無をもって天と人間を区分しようとしたが、星湖の説く人間心の構造ないし在り方は、基本的に『天主実義』や『霊言蠡勺』の解説する三魂説(生魂・覚魂・霊魂)のそれと変わらない。すなわち星湖は、一般に「草木の心」・「人物の心」・「天地の心」などというけれども、その「心」の意味は実際同じでないと前置きしたうえで、植物には生長の心のみが、動物には生長の心と知覚の心が、人間には生長の心と知覚の心と理義の心があるとし、知覚によって生じた欲求のままに働きをする知覚の心が人心にあたり、天命によって主宰される理義の心が道心にあたると明言していた。なお星湖は、そこからさらに発想を進展させ、四端七情論へ発展的に適用する。天地の心と生長の心は同じであるという主張がそれである。天地の心(天地宇宙の理気・万物生成運用の理気)と人間における生長の心(生理的領域の理気・一身流行の理気)を同段階・同次元のものと考える意義は大きい。というのは、天地と人間、あるいは本体論と心性論を区分し、人間心の独自領域を確保しながらも、完全な分離ではなく両方をつなぐ方法として天地の心=生長の心という設定を用いていると考えられるからである。こうした発想は、星湖にとって「天人合一」の保持を意味するということができる。星湖は次の心性論的課題、すなわち「理気不相離」を守りながら四七の理気互発を説明する問題については、一身全体を流行する気(大気)と心臓を本拠に流行する気(小気)を想定し、人間心の精神性あるいは霊妙性を引き出そうとした。星湖は、霊妙性をもち、精神作用にかかわる心臓の中の「心気・心理」の存在を前提にして、理気不相離の原則に触れない四端理発、七情気発を説明しているが、この星湖四端七情論の根幹ともいえる「大気小気説」は、『霊言蠡勺』の解説する、天主から賦与される霊魂が身体全体から小さく、そして霊妙になりつつ心臓へと分かれていく霊魂の存在方式からの影響が顕著である。また、四端は理が直接発して起こる感情であり、七情は形気すなわち身体の大気が先に動いて起こる感情という説は、形而下の事物は五官を介して認識が成立するが、形而上の事物はそれ自体が理性の属性をもっているため、何も介さずそのまま認識が成立するという、霊魂の理性能力からの強い影響が認められる。