本論文は主に昭和初期日本において、共産党の影響を受けた社会運動の内部で「権威」がどのように形成・確立されていったかという問題を、プロレタリア文化運動を対象として考察する。戦前期日本共産党がわずかな期間を除いては地下潜行的活動を展開する「見えない」党だった状況の中、当該期日本左翼運動の合法面つまり「見える」部分を広く担っていた文化運動関係者が、地下の見えない党を権威として受け入れていく過程を分析すると共に、戦後その関係者の多くが党中枢に関与することになる戦前期文化運動における党の権威の形成過程から戦後党運動に繋がる特質などを視野に入れた分析を行った。

 論文は六つの章から構成されている。第一章「プロレタリア文化運動の萌芽と同時期の思想状況」では、1921(大正10)年のプロレタリア文芸雑誌『種蒔く人』創刊から、1924(大正13)年の『文芸戦線』創刊と同誌を中心とした活動高揚期までを対象に検討した。

当該期の文芸系知識人は社会運動への参画意識を強く持ち、左翼運動における自らの有用性を示すことを目的に運動論を展開していった。だが当時の文化運動は、左翼運動総体と同じく社会主義的意識を持つレベルの雑誌同人集団に過ぎなかった。

また運動理論面を見ると1920年代前半は、ロシア革命の原動力となった新しい社会主義「ボルシェビズム」の実態が、社会主義者の雑誌論稿などで徐々に日本に伝播し出した時期でもある。それらはまだ明治期以来の社会主義者たちによる「紹介」、そして運動に役立たせることを目的とした「伝道」の段階に留まっていたことを指摘した。

こうした状況が変化するのは、社会主義理論雑誌『マルクス主義』に福本和夫が登場した1924年末であるが、第二章「運動理論の大転換と文化運動組織の再編」では、その時期から1927(昭和2)年前半までを対象に検討した。福本和夫の理論の特質としては、彼の説く「分離・結合」という運動理論が、現実の事件によりその確かさを証明されると同時に、マルクス・レーニンの原典に基づく「マルクス・レーニンによって担保」された理論という点が挙げられる。また社会運動組織化の時代を迎え、これまでの「紹介」でなく強い「目的」を提示し、人々を牽引するには福本の理論は極めて有用であった。

加えてこの時期レーニン・スターリン文献が日本へ到来し始める。それは福本の権威を強化するのみならず、社会運動における知的源泉が「革命の祖国」ロシアへと向かう潮流を生み、日本の革命主導理論はマルクス主義からマルクス・レーニン主義へと移行し始めていった。

こうした思想状況の中で文化運動も組織化の時代を迎え、同時に学生中心の若い構成員が増加する。そして彼らが福本の影響を強く受けていたことから文化運動に「目的意識」と「権威主義」が持ち込まれ、単なる運動参加でなく政治運動への没入が志向されていく。

第三章「文化運動組織の「分離・結合」とその背景」では1927年中盤から翌1928(昭和3)年初頭までを対象に検討した。当該期の文化運動では二度の組織分裂が起こるが、そこではそれに関係した人々が「党の存在」を感じ取り、当時の最先端理論で武装することで権威に担保されたという意識を持ちながら組織分裂を引き起こした点が共通している。だがその分裂に際し「党指導」に値する強い働きかけは存在しなかった。

理論面に話を移すと、この時期の一大事件がコミンテルンから下された「二七年テーゼ」である。同テーゼに関しては旧来問題視されて来たその受容自体よりも、権威の観点から見れば受容以前の日本で福本理論という外的権威に担保された理論に基づく他律的な運動が展開されていたことこそが、テーゼ受け入れを不可避なものにした点が問題となる。

またテーゼ受容と共に日本の社会運動における知的源泉がドイツを中心とするヨーロッパから完全にロシアへ移行したことも大きい。そしてこの知の変遷期に二七年テーゼ梗概の初訳出などで左翼論壇に登場したロシア知の保持者、蔵原惟人が当該期以降、ロシアの最先端理論の訳出・適用を積極的に行い、運動の中で権威を勝ち得たことを指摘した。

第四章「文化運動組織の発展と権威構造の形成」では1928年3月の文化運動統一組織「ナップ」の誕生から、1930(昭和5)年上半期までを対象に考察する。

ナップ結成後半年間の「芸術大衆化論争」は、三・一五事件後の急速な組織合同に伴う意見刷り合わせのため必要不可避だったが、現実運動局面からの要請により問題先送りの形で終止符が打たれる。

翌1929(昭和4)年のナップの実践活動の進展と客観的情勢成熟の判断は、文化運動の方針転換を齎し、見えない党を自発的に権威化する方向へ向かう。そしてこの方針転換を主導した蔵原惟人が情勢に応じて外来理論を選び取り、適用する運動スタイルを体得したことが以後の運動に大きな影響を与えていく。

その後1929~30年にかけての運動進展に伴い、再度の大衆化論争が発生する。そこでは文化運動の「立ち遅れ」を強調した上で運動の「原則性」の浸透、組織運動のラディカルな方向への変容が起こるが、この論争の過程などを通し「模範的共産主義者」としての振る舞いを蔵原惟人が見せ続けたことが原則性の希求傾向と蔵原の権威化を更に加速させたことを指摘した。

このように地下の党を権威として活動を展開していった文化運動と日本共産党の本格的接触は1929年に始まるが、そこから1931(昭和6)年までを対象に検討したのが第五章「一九三〇年前後の党運動と文化運動」である。

党運動との接触はまず「模範的共産主義者」蔵原惟人らを媒介に始まる。そのことは一般党員に蔵原を通して党の姿を見せることに繋がり、党の権威に加え党運動の体現者としての彼の権威が更に強固なものとなっていく。

だが1930年下半期その蔵原不在の中、党運動史上初めて一からの中央部再建を余儀なくされた状況で、質量共に大きな勢力となっていた文化運動が、党再建を担う諸団体の綱引きの場となる(「戦旗社」独立事件)。この際問題となるのが、現実には存在しない「党の権威」が有形無形の形で行使され、既に党を権威としていた文化運動がそれを拒否出来なかったことである。

翌1931年に蔵原惟人が日本の運動の場に復帰し、彼により文化運動の方針転換が提起される。この方針転換については旧来考えられていた「党指導」の産物ではなく、文化人の側が党の権威を組織運営のため自発的に利用し、文化人が党員となり文化運動を直接「指導」することで、運動停滞状況の打破を目指し、所謂「蔵原路線」と呼ばれる新方針採用に至ったというのが適切であると指摘した。

上記の方針転換に従い文化運動横断的統一組織「コップ」が設立された1931年末から1934(昭和9)年初頭の組織的文化運動の終焉までについて考察したのが第六章「コップ結成後の文化運動の進展と衰退」である。

設立当初のコップ傘下団体新雑誌では、これまでの運動経験を踏まえ「大衆化」の試みが多様な形で試みられた。

しかし1932(昭和7)年3月以降の文化運動への相次ぐ検挙で指導者蔵原らを失い運動は停滞、残された党員文化人(宮本顕治・小林多喜二ら)は立ち遅れ意識の強調に代表される蔵原路線の墨守的態度に終始していく。こうした状況に対する党員文化人とプロレタリア作家の相克や、作家内での「文学への回帰」意識の発生等を経て、財政難や治安維持法改正問題などに伴い1934年初頭に文化運動は組織的活動を休止することになる。

また同時期党員文化人宮本顕治が党中央に引き上げられるが、そこで見た党中央の現実と政治的蹉跌経験の中で宮本は、状況に合わせて理論を切り替える蔵原のやり方の重要性及び、そうした理論切り替えを有効に機能させるため、「一枚岩の前衛党」で適切な指導者が権力を安定して保持し続けることの重要性を体得した。そしてこの宮本の「政治的覚醒」が彼を蔵原の一フォロワーから指導的性質を備えた存在へと変化させ、戦後の「政治家 宮本顕治」に繋がる原型を形作ったことを指摘した。

「おわりに」の前半ではこれまでの論を踏まえて、戦後の党運動・文化運動を対象に概括的に検討した。

これまでの章で述べた蔵原の理論的生産性と、権威によって文化運動を統御し状況に合わせて運動を変容させるスタイルを受け継いだ宮本は、戦後それを「党運動」という政治領域に持ち込んだ。そして「五〇年問題」解決後の党中央掌握過程で宮本は、状況に応じた理論的切り替えを行い、それを可能にし得る理論的人材を育成しながら「自主独立」路線を確立すると共に、革命集団、言わば「政社」の延長線上の存在であった日本共産党を民主主義社会の活動に堪え得る「政党」へと変容させた。

更にこうした運動の影で、理論切り替えの出来る組織権力を保持した宮本は自らの理論・運動の一貫した「確からしさ」を遡及的に確立させる言説を成していく。それにより戦前の党運動がある種「神話化」していったことこそが「党指導」意識を左翼運動の領域に浸透させた大きな要因の一つであることを指摘した。

 次いで同章後半では結語として、戦前期文化運動の生成・発展過程における「見えない」党を権威とする構造の形成と、その媒介となる「模範的共産主義者」が状況に合わせた理論切り替え・運動指導を適切に行うことを理想とする特異な運動のあり方が、文化運動という特異な場から生成されたことの意義を述べる。

 更にこうした運動のあり方に基づく宮本体制の確立と、それによる日本共産党の「政党化」にこそ、戦前期と戦後期の共産党運動の連続性はあり、そうした意味でも共産党運動における権威の確立過程及び、その生成物である「模範的共産主義者による理論の切り替え」という運動スタイルを研究する意義があることを強調した。