本論文は、殷代青銅器の製作方法および鋳造関係遺物・遺構の分布状況から、殷代の中原地域および一部長江流域を含む範囲内での青銅器生産の構造を復元することを目的とする。

 青銅器は殷代を代表する物質文化である。殷代青銅器の考古学的研究は、1928 ~1937 年に行われた殷墟遺跡の発掘調査で大量の青銅器が出土したことに始まる。1949 年の新中国成立後は発掘調査件数の増大に伴い、青銅器に対する年代観が徐々に確立されていく。また、調査対象地域が中国全土に広まったことで、地方では中原とは異なる形態や組合せ、出土状況をもつ青銅器が散見されるようになる。このような状況を受け、中国の学界では、青銅器の各特徴に基づき、中原を中心として、北京以北・漢中盆地・華中地域・四川盆地・贛江流域などの各文化区を設定し、殷およびその並行期における青銅器文化全体の枠組みを捉えることができるようになった。そして現在、これは日中両学界で広く受け入れられたモデルとなっている。このように、中原地域出土の青銅器群(一部長江流域も含む)は、それ以外の地域で出土する青銅器と比べれば、確かにひとつの青銅器群として認識できる。また、中原地域を基盤とした夏殷周の各王朝の存在がほぼ自明のものとされるが故に、現在、殷王朝とそこから各地に分配された青銅器という構図が一般的な理解となっている。しかし、その実態はどこまで明らかになっただろうか。これに対して、筆者はあくまで青銅器の分布から全体的なモデルを示したに過ぎないのではないかと考えている。青銅器の生産遺跡に眼を向ければ、殷都鄭州商城・殷墟遺跡以外でも少数ながら青銅器鋳造に関わる遺物・遺構の検出されていることに気付く。また、中原からの搬入品とされる青銅器の中にも、実物資料を詳細に観察すれば、都出土の青銅器との違いの指摘できるものが含まれることに気付く。青銅器研究ではその生産段階を踏まえた上で分布、すなわち流通の状況を考察するべきである。なぜならば、流通とは生産によって立つものだからである。以上のような殷代青銅器研究の現状を踏まえ、本論文では、青銅器研究の出発点と考えられる生産の実態について再検討を行った。

第一章では、先行研究の整理を行い、本論文における研究の方針を示した。筆者は殷代における青銅器生産の実態を異なる三つのレベルにおける分業の積み重ねと考える。すなわち、①工程分業、②工房あるいは工房区内における用途・器種別分業、③複数の遺跡あるいは遺跡群間での分業である。また、各レベルでの分業のあり方を検討する方法として、①青銅器そのものからの検討、②青銅器製作工房の立地やその内部での各種鋳型の分布状況からの検討、以上二つの方法を用いることにした。第二章から第五章では個別研究を行い、第六章でそれらを踏まえて殷代における青銅器生産のあり方を総括した。

第二章「鄭州商城における青銅器製作」では、青銅爵を例に、殷前期の都鄭州商城での青銅器生産のあり方を検討した。従来一器種として認識されていた爵が器形・紋様・鋳型構造から三系統に分けられること、そのうち一系統の紋様・鋳型構造が二里頭期の青銅器に類似し、かつこれは殷前期までしか見られないこと、また他の二系統はこれとは異なる器形・紋様をもち、殷中期に至ってひとつの器形に集約しつつ殷後期に継承されたことから、殷成立期には二里頭からの技術あるいは製作者の流入があり、それと並行する形で殷的要素をもつ青銅器が製作され、殷の青銅爵が確立したと考えた。一方、鄭州商城内の青銅器製作工房での鋳型の分布状況からは、長期間に渡って一定の地点で青銅器の生産が行われているものの、この三系統が工房内部や工房間で空間を異にして生産されるような状況ではなかったこと、また用途・器種による製作地点の違いや工房の違いも認められないことを示した。

第三章「盤龍城遺跡出土青銅器の製作系統」では、殷前期の長江中流域に位置する盤龍城出土青銅礼器に対して、器形・紋様・製作方法からの検討を行い、従来言われていたような都鄭州からの搬入品ではなく、少なくともその一部が在地生産されていた可能性を示した。また、黄河中流域から長江中流域にかけての一帯で出土した当該期の鋳造関係遺物・遺構を集成し、いくつかの遺跡で青銅礼器范の出土例があったことから、都以外の黄河中流域の遺跡で青銅礼器が生産されただけでなく、盤龍城遺跡での礼器生産の可能性もまた十分に想定できると考えた。従来、青銅礼器の生産は都鄭州以外で想定されることはほぼなかったが、青銅器そのものの詳細な観察、また従来見過ごされていた零細な資料を集成することで、都以外における生産という新たな可能性を提示した。  第四章「殷墟青銅器の字体と工房」では、殷後期の都殷墟遺跡における青銅器生産について考察した。墓から一括出土した同銘青銅器群を材料に、青銅器の製作工程のうち、青銅器から読み取れる鋳型の外形・紋様・銘文という各製作工程に着目した。とりわけ、従来の検討とは異なる視点として、銘文もまた製作されたモノとして捉えたことが挙げられる。施銘工程と施紋工程の相違を検討、これに加えて銘文の字体差、各器種が個別生産か複数生産かという点から、工程分業のあり方を器種ごとに復元した。そして、これを器物の用途・器種ごとに比較することで、爵・觚―両器種以外の容器類―武器類という用途・器種別生産のあったことを明らかにした。また時間軸に沿って見ると、施銘は殷墟 2 期後半に始まるが、施銘工程を含めた分業の確立は 2 期末、その後簡略化しながらも、基本的に殷墟 4 期まで継承されたことが明らかになった。これを殷墟遺跡内の青銅器製作工房で出土した鋳型の分布状況から見てみると、殷墟後半期の幾つかの工房・工房区では用途・器種別生産が確認できた。しかし一方で、その形態は用途・器種別の複数の工房を抱える工房区や、主に車馬器だけを製作する工房が単独で存在するなど、決してひとつの形をとらないことも分かった。また、殷墟初期段階から続く工房では、後半期になっても当初以来の用途・器種によらない生産のあり方を維持したことも分かった。つまり殷墟遺跡における青銅器生産とは、地点によって、様々な形態が並存していたのが実情であった。

第五章「殷墟青銅武器とその銘文に関する考察」では、第四章で資料数の限られていた武器およびその銘文に関して、コレクション資料も交えて改めて検討した。武器銘では紋様のようにシンメトリーであることを重視すること、また武器の銘文・紋様間での線の施し方、緑松石の象嵌という装飾性などに共通性が見られることから、施銘と施紋が同一の工程として行われ、容器生産とは工程分業のあり方が異なることを再確認した。

以上の各論に基づき、第六章では殷代の青銅器生産の実態を述べた。殷前期には遺跡間分業が複数のレベルで行われていたことが明らかになった。すなわち、都鄭州における鄭州系青銅器の生産、黄河中流域における鄭州系青銅器の在地生産、長江流域における非鄭州系青銅器の生産という三つの生産の重なり合いとして理解できる。そして、鄭州では特定の二地点で継続的な生産が行われるものの、各地点や工房内部において用途・器種によって空間を異にするわけではないこと、また都以外の黄河中流域や長江流域での製作器種が都と変わらないことから、これらの各生産地点はいずれも同レベルの生産を行う緩やかな関係性であったと理解した。それに比べ、殷後期になると、施銘工程の導入およびその確立、用途・器種別生産など、都殷墟遺跡では生産の組織化が進んだ。しかし一方で、殷墟内の生産遺跡の検討からは、一口に用途・器種別分業と言っても、複数の工房によって構成される工房区を形成する場合、単独の製品で独立した工房をもつ場合、また殷墟成立時以来用途・器種によらない生産を行なった工房も並存したという多彩な生産形態の存在したことが分かった。また、殷墟外で青銅礼器生産が確認されたのは一地点に限られる。殷前期に比較的緩やかな関係性を保ちながら各地で展開した青銅器生産は、殷後期に至って都殷墟遺跡にほぼ集約化されたものと理解できる。とはいえ、その殷墟遺跡の中での生産の実態に目を向けると、生産工程・工房内でのシステムが確立していく様相は見られるものの、工房間での分業の様相はそれぞれ異なり、やはり全体としての統制は比較的緩やかなものであった可能性が高い。つまり、殷の青銅器生産とは、決して従来考えられていたような殷王朝による一元的なものではなかったのである。本論文では、以上のようなあり方を殷代前・後期における青銅器の生産体制として理解した。

殷代における青銅器生産の実態が、以上のようなものであるとすると、青銅器そのものの性格についても再考の余地があろう。すなわち、従来青銅器とは、集落集合体である殷の王と諸族長を結びつける紐帯として理解されてきたが、都以外でも生産されていたのであれば、それ以外の役割もまた考える必要があろう。都、特に殷墟内部における生産についても、それぞれに異なる性質・役割をもつ各工房は都を構成する各集落に付随するものであるため、青銅器生産という面から殷墟遺跡の集落間構造を再考する必要もあろう。とはいえ、これらは青銅器生産だけから言えるものではなく、本論文での成果を手掛かりに今後解決していくべき課題であると考える。