東北アジア先史文化動態研究

古澤 義久

本研究は、韓半島を中心とする東北アジアの新石器時代から青銅器時代前期にかけての文化動態を明らかにすることを目的としている。これまでの研究により東北アジア先史文化を理解する上での基礎的な枠組みは、おおむね明らかになってきている。しかし、依然、国家や言語の障壁に阻まれ、東北アジア全体に及ぶ検討は少ないといえる。また、特に、極東平底土器が終焉し、次の青銅器時代の文化への移行期がどのような様相であったかという検討がほとんどなされていないことも大きな問題であった。

そこで、上記の問題点を克服し、所期の目的を達成するために、次のとおり研究を遂行した。第Ⅰ部では東北アジアの土器の編年と地域性について検討し、Ⅰ段階~Ⅷ段階の8つの段階に区分した。この時期区分に従い、青銅刀、磨盤・磨棒、磨製石庖丁、紡錘車、偶像・動物形製品、岩画といった遺物・遺構の変遷と地域性を明らかにし、それぞれの文化動態について考察した。第Ⅱ部では、該期の日韓交流の様相について考察した。

 以上の研究の結果、磨製石庖丁、紡錘車、偶像・動物形土製品、岩画と、土器の相関関係をみると、土器によって区分される最小単位の領域内では、それぞれ固有の地域性を持っていることが判明した。同じ土器文化内で異なる型式の道具が使用されるということは二・三の例を除いて存在しない。このことから、新石器時代から青銅器時代にかけての東北アジアでは、土器にみられる地域性は、生活全般に及ぶ文化複合体の地域性をおおむね示していることがわかる。

 Ⅰ段階の土器文化と偶像・動物形製品の地域性は連動しており、土器と精神文化遺物との相関関係は強いものとみられる。生業関係では、遼西地域では無穿孔石刀がみられ、他地域よりやや農耕が発達していたようである。また、土製算盤珠形紡錘車もみられる。そして、この段階に遼西地域、吉長地区、遼東地域、鴨緑江下流域、そして韓半島中西部まで磨盤・磨棒の組成は広く分布している。注目されるのは、磨盤・磨棒の組成は平底土器文化内において豆満江流域など分布しない地域がみられる一方、韓半島丸底土器文化の一部には既に分布している点である。このようにみると土器文化は生業より、むしろ精神文化との関連が強い分布を示しているようにも考えられる。

Ⅱ段階では遼西地域と遼東地域における土器文化の差が大きくなる。遼東では後窪上層類型が広く拡がり鴨緑江下流域まで分布を広げ斉一性が高くなる。紡錘車は土器文化の差異と呼応するように遼西ではほとんど用いられなくなり、遼東半島を除外した遼東地域では算盤珠形が用いられる。この土製算盤珠形は韓半島中部でもみられるようになる。また、形態は異なるが、南沿海州でも紡錘車がみられる。紡錘車は出土例が少ないので、判断が困難である部分もあるが、初現期磨盤・磨棒の動きと算盤珠形土製紡錘車は遼西地域を起源とし、比較的早い段階から豆満江流域等を除外する東北アジア各地にみられ、連動した動きを示す可能性が高い。この動きは極東平底土器や韓半島丸底土器の分布を越え、また、極東平底土器内での地域性を越え、東北アジア各地にみられることから環黄海の基層的な文化要素である可能性もある。

韓半島東海岸まで丸底土器が分布する展開がみられ、韓半島南部では、基本的に隆起文土器を継承した瀛仙洞式がみられる。この瀛仙洞式土器は基本的に、韓半島丸底土器文化(弓山文化)とは独立した土器文化であるが、錦江下流域では接触がみられ、瀛仙洞式期の終末期には折衷土器が製作され、徐々に弓山文化の影響が強くなる。これと連動して、磨盤・磨棒が韓半島南部に受容され始める。このような韓半島南部において韓半島中西部からの文化的影響が及ぶ動きの中、西唐津式は瀛仙洞式から一部の文様を選択的に受容する。この西唐津式が瀛仙洞式から一部文様を選択的に受容するという事象は東北アジア全体の交流のあり方からみると極めて異質であるものと判断せざるをえない。土器の文様のような精神文化的な属性を受容する場合、多くの場合、生産道具にも影響を及ぼすほどの強い文化的影響がみられるのが常であるためである。

豆満江流域等では、遼東地域とはほとんど関係性がない土器文化が広がる。磨盤・磨棒の受容は認められないが、紡錘車自体は使用されるようになる。ただし、形態が土製算盤珠形を主とする遼東地域のものとは異なる点で、やはり独自性が強い。偶像・動物形製品においても遼東地域とは差異が大きい。

 Ⅲ段階以降、Ⅶ段階までさまざまな先史文化動態が観察されるが、最も大きな変化はⅧ段階にみられる。

 Ⅷ段階に至ると多くの地域で深鉢(甕)と壺の組成、磨製石庖丁、石製紡錘車を備える「青銅器時代化」がみられる。この青銅器時代化への発展過程は、豆満江流域等と韓半島中・南部では異なる点がある。韓半島中・南部では深鉢・甕の組成、磨製石庖丁、石製紡錘車の組成はⅧ段階にほぼ同時に達成される。また、土器の連続性も南京2期とコマ形土器文化期の一部の器種の連続性を除外すると、総体的には継承要素は少ない。韓半島中・南部では青銅器時代化は生業道具の多くの部分に及ぶような組成として変革していったものと想定される。

一方、豆満江流域等では大型の貯蔵用甕は早くもⅣ段階・Ⅴ段階頃にはみられ、磨製石庖丁はⅦ段階、石製紡錘車はⅧ段階にみられる。また、南沿海州ではⅧ段階に至っても精製紡錘車が受容されることはなかった。豆満江流域等では新石器時代から青銅器時代への土器の変化は連続的であることも勘案すると青銅器時代化は徐々に進行し、Ⅷ段階に至り一応の完成をみたということがいえる。

 この差異と顕著な相関関係を示すのが、精神文化を表象する偶像・動物形製品の動向である。比較的急激に組成として青銅器時代化が進行した韓半島南部では、以前の時期にわずかに残っていた偶像・動物形製品は消滅し、遼東地域と同様に、土製品に依存しない精神文化を持つようになる。一方、豆満江流域等では、青銅器時代化が進行すると、盛んに独自の偶像・動物形製品が製作されるようになる。

 このことから韓半島中・南部と豆満江流域等では、青銅器時代化にあたって、受容する集団が異なる判断をしたものと推察され、豆満江流域等では韓半島中・南部と比較すると全生業中で占める農耕の比率が比較的低かったのではないかと考えられる。反対に韓半島中・南部では、より農耕化が徹底されたため、精神文化に至るまで遼東地域との共通性が高まったのだと筆者は判断する。

 このような韓半島中・南部青銅器時代化の前段階としてこれまで、遼東地域においては極東平底土器が終焉し、石器組成も大きく変わる時期として小珠山上層期を大きな画期と捉える見解が示されてきた。しかし、その大きな変革を遼東半島の周辺地域はそのまま受容したのではなく、在地化の過程を経ながら受容・独自発展してきた点が重要な点である。鴨緑江下流域の独自発展した土器文化が遼東半島東部へ流入する動きも看取できる。遼東山地部では、遼東半島とは区分される独自の領域が形成され、韓半島中南部の刻目突帯文土器文化が成立する母胎となったのである。一方、韓半島中・南部側では、韓半島南部の水佳里Ⅲ式土器が様式的に南京2期併行期の韓半島中部に様式的な影響を及ぼすという別の動きがあり、それまで堅持されてきた韓半島中部と南部における土器文化上の境界が崩壊し始める過程をみせる。このような、遼東山地部を中心とした独自の文化圏形成と韓半島中部における不安定な状況という二つの様相こそが、韓半島中・南部に強力な青銅器時代化をもたらした要因であったと提起したい。

このように東北アジアの先史文化は非常に動的な動きをみせているが、韓半島南部と西北九州の関係は、相互に異系統土器が搬入され、交流自体は絶えず存在していたにもかかわらず、Ⅱ段階の瀛仙洞式―西唐津式の関係を除外すると、土器の様式に影響を与えることはなく、また、生産道具、精神文化関係道具においても全く共通することはなかった。その原因は、韓半島からの渡航集団の主要最終目的地は独自の土器様式を保持することのない対馬島であったこと、生業形態の差異、そして精神文化上の交流がほとんど存在しなかったことという3点が考えられる。

従来の研究では、華北の高文化が周辺地域に拡散するという図式が多く適用されてきた。本研究でも確認されたとおり基本的にこのような流れは確認される。しかし、必ずしも膠東半島→遼東半島→韓半島という一方向で展開しているのではないということも同時に示した。即ち、各小地域があるときは核地域となり、あるときは周辺地域となるという非常に動的な展開をみせており、それぞれの小地域における自律的な動きこそが重要であるということが本研究により明確となった。

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