現代の日本においても有名な「兎と亀」などの話を私たちは通常「イソップ童話」ないし「イソップ寓話」と呼び、子供の頃から学校ないし家庭で読んだ経験を持っている。「兎と亀」は、兎と亀が競争し、こつこつ歩みを進めた亀が兎に勝利する話だが、この話を通じて、「着実に努力を続けること」、「才能に驕って怠けることのないように」など、亀または兎の立場に基づいて、人間に適用される教訓を導き出すことができる。本研究は、古代ギリシアに淵源を有し、近現代の日本にまで普及するいわゆる「イソップ寓話」の成立および受容の在り方を、古典古代の諸文献における用例の分析、重要な資料の写本伝承の分析、さらに近代日本における受容の一側面の考察を通じて、文献学的かつ総合的に考察する試みである。

これら「イソップ寓話」は、古代ギリシアの「イソップの話」に由来する。古代において、イソップの名が附される話は、ギリシア語ではλόγοςやμῦθοςとして示される。一方、「イソップの話」に関する学問的考察は、アリストテレスや紀元後1世紀の修辞学者テオンによって行われているが、本論文はテオンが『修辞学初等教程』Progymnasmataで示す議論が重要であると考える。テオンは、「イソップの話」をμῦθοςとし、一般性を持った見解の読み取りが可能で、かつそれを示す文言をいわば表題として附すことのできるものであると説明する。本論では、テオンが示すμῦθοςの概念を「イソップ寓話」の基点として採用する。

本論第1章から第4章は、古典古代において、紀元後2世紀頃までに現われる「イソップの話」について、時系列に沿って検討する。テオンもまた古典期以来の「イソップの話」の展開の上にあるが、テオンの議論はそれらを包括的に扱うものの、それまでの「イソップの話」の在り方や認識の変質については十分意識してはいない。ここでは、各時期の「イソップの話」の在り方を確認し、テオンに集約されていく「イソップの話」の枠組みについて考察する。

「イソップ」の名前に言及して話を示す例は、アリストファネスとプラトンに残っている。彼らの用例では、「イソップの話」は一種の昔話である。また、両者には、「イソップの話」を類型化する意識も見られ、「動物の話」「縁起譚」などの特徴がイソップと個々の話を結びつける条件と考えられている。

「イソップの話」の拡大は、アリストテレスの議論に見られる。アリストテレスは『弁論術』において、「過去に模した喩え話」λόγοςとして「イソップの話」を説明する。ここでは、「イソップ」の名は機能の表明であり、アリストテレスの議論により、既存の話や新規の話を含め、「イソップの話」として識別される話が拡大する可能性が開かれる。イソップとの関連や動物といった条件ではなく、文脈における機能性によって個々の話が評価され、「イソップの話」として分類されるのである。

 紀元後1世紀のテオンの議論はこの時期までの「イソップの話」の流れを受けたものであるが、その議論はそれまでの「イソップの話」をめぐる議論と決定的に異なる。テオンは個々の「イソップの話」を全体としてμῦθοςと総称し、そのμῦθοςが「イソップの話」全体の概念を規定ものとなる。すなわち、「イソップの話」はμῦθοςを構成する一部でありながら、全体を表す枠組みともなる。したがって、テオンは個々の話を独立した話として一方で評価するとともに、それがμῦθοςとして解釈可能かどうかを問題とする。その点で、いかなる話もμῦθοςとして解釈されうる限り、「イソップの話」となりうるのである。それにより、アリストテレスのλόγοςもそれ以前から存在する話もまた、μῦθοςとして読み直し可能となる。

 この時期に注目される現象は、テオンも含め、イソップが「イソップの話」の始祖ではないとする見解が示されることである。イソップに先行する作家としてヘシオドスの名が挙げられるが、この見解自体、紀元後1世紀後半に登場する。テオンのようなμῦθος認識が形成されたことで、それに適合する話が遡及的に見出され、同じ枠組みに位置付けられたと考えられる。

 ところで、後世への「イソップの話」の展開は、おもに「イソップ集」を媒介として行われる。テオンの示すμῦθος論だけではなく、後世に残る「イソップの話」の供給源として、イソップ集の検討が不可欠となる。そこで、第5章と第6章は、イソップ集の問題を扱う。

 現存する初期のイソップ集であるファエドルス集とバブリオス集は、紀元後2世紀前後のものであるが、両者が示す「イソップの話」に関する認識はそれぞれ独自のものであり、テオンなどとも異なる。両者は各自の認識と判断に基づいて話を集めているため、両者の集成には一方のみに含まれる話も多い。しかし、両者の集成は後世においてはイソップ集として、すなわち同種のものとして受容される。「イソップの話」という共通の枠組みに収まるものと認識されるために、両者の各々の意図はイソップの名の下に隠れてしまう。その一方で、話の素材としては、彼らの話が加わることによって後世に伝わる「イソップの話」の範囲が拡張することになる。

 バブリオス集の主要写本として用いられる、紀元10世紀頃のアトス写本の在り方は、バブリオス集が「イソップの話」として読み替えられたいきさつをよく示している。紀元3世紀以降のバブリオス集受容のプロセスを観察すると、アトス写本が「イソップの話」としてバブリオス集を読み替えたのではなく、むしろアトス写本はそれまでのバブリオス集受容の流れを反映したものであることが判る。ここでは、素材としての「イソップの話」と、それを扱うテオン以来のμῦθος論が交錯する状況を垣間見ることができる。

アトス写本は、古代から中世への展開の在り方を示してくれると同時に、バブリオス集再建のための主要写本として用いられる点で、近代以降にも影響を及ぼしてくる。私達が現在目にするバブリオス集はアトス写本に基づいて校訂されており、この写本の影響を考慮してバブリオス集自体を評価する必要があると思われる。

 最後に、第7章ではここまでの議論とは異なり、「イソップの話」の展開の行きついた先として日本近代のイソップ集に注目する。そして、そこに含まれる話を検討することで、「イソップ寓話」展開の一つの事例を検討する。具体的には、明治初期刊行の渡部温『通俗伊蘇普物語』と「犬とその影」の話が題材である。

 渡部本は英語版イソップ集を原本とするが、その英語本を通じて同時代の西洋における古典研究の恩恵を受け、さらに近世以降の要素も含めて、渡部版独自の話が構成される。渡部本人は「翻訳者」を名乗るが、単純な翻訳を行ったわけでは決してない。渡部が用いた英語本も同様だが、一つの集成の一つの話をそのまま利用するのではなく、種々のバージョンをふまえて、同時代の読者に向けて編者が再構成した話が提示される。素材としては古代ギリシアまで遡ることが可能である一方、古典として固定化されるわけではなく、新旧の話が併存し、あるいは同等の対象として読まれる。「イソップ」の名が古典を指向するものであるのに対し、「寓話」としては各時代の読者を向いたものであったといえる。

 このように、「イソップ寓話」は古典作品の中では恐らく最も私たちには身近なものでありながら、その成立事情も展開形態も決して単純明快なものではなく、多様で複雑きわまるものである。本研究は決してその全貌を明らかにしたものとはいえないが、少なくとも「イソップ寓話」について一つの視点を提供する試みである。