本論文は中国宋代(960~1279)における学校、おもに地方における官学を対象とする研究であるが、これを教育史の文脈から理解するのではなく、地域における儀礼・祭祀の行われた空間として理解し、士人層や地域社会との関わりを論ずるものである。前近代中国における学校の歴史を振り返れば、宋代は地方学校が急速に普及し、官立学校である官学と私立学校である書院のどちらもが大いに発展を遂げた時期に相当する。

 宋代におけるこの普及は、強く政策的に推し進められたもので、同時期に進められた科挙制度の確立と密接に関わっていた。北宋中期から北宋末にかけて断続的に科挙との融合が図られ、北宋末には科挙を廃止して仕官経路を学校経由に一本化することが目指されたが、結果としてこの過激な改革は頓挫してしまう。その後南宋時期には、学校と科挙制度の結び付きは弱まるものの、それにもかかわらず官学は北宋期以上に普及を続けていくのである。

 このような事実を反映して従来の宋代学校研究は、教育史として語られるか、さもなければ科挙史の中に位置づけられることがほとんどであった。これらはどちらも学校を教育機関と捉え、学校で何を学習し、試験を通じて社会とどのような関わりがあったかに注目したものと言える。

しかしながら中国前近代の学校は単なる教育機関にとどまらない面も存在した。そもそも学校は経書に典拠を持ち、その世界観をもとに設計されたものである。また唐代以降、学校は孔子廟と並置されるのが一般的で、廟と学の分かち難い関係が構築されていたが、この「廟学制度」は清代まで一貫して存在したのである。そうであれば宋代のような急速に学校が普及した時期にあって、儒教における礼教施設としての面がどのような意味を持ち、どのような変化を伴ったのかは重要な問題のはずであるが、これは従来ほとんど顧みられてこなかった。

このような観点から宋代の学校を見直すと、当初全国的に展開していく学校は、一様に孔子とその弟子のみを祀っていたが、時代とともに徐々に多様な対象を祀る空間へと変化していったことが浮かび上がってきた。しかもそれは地域社会に受容されていく過程とともに、地域固有の対象を祀る傾向が強くなっていくのである。

以上を踏まえて本論文は、学校内に祀られる祭祀対象(先賢祠)と、その祭祀を正当化した理論構築に注目し、士人層や地域社会との関わりのほか、王安石系の学問から朱子学へと主流が移っていく思想史上の位置づけを意識しつつ、儀礼・祭祀空間としての宋代地方学校がどのように変容していったのか、その変遷を論じたものである。

第一章では北宋前半期に焦点を当て、主に孔子廟が学校へと切り替わっていく様子を、実際に行われた修建事業の分布をもとに連続的に描き、以下のことを明らかにした。唐末五代の戦乱を経て宋初には地方学校はほぼ途絶していたため、宋王朝は地方における孔子廟の再建から礼教施設の普及に着手したが、特に三代真宗朝の頃には、中央の国学に置かれたものと同様の形式を持つ孔子廟を地方に展開しようとし、また釈奠時には国学と同様に孔子廟で講学を行うよう奨励した。しかし四代仁宗朝の頃から、理念的に釈奠は孔子廟ではなく学校で行う儀礼として改めて定義されるようになり、また孔子廟は学校に包摂されるべきものと認識が変化していった。重要なのは、この時期までの地方学校は孔子廟との区別が曖昧な上、中央の国学をモデルに作っているため、学校内に孔子とその弟子たちが祀られるに過ぎなかった点で、つまり設備のみならず儀礼・祭祀の面で、中央と地方で相似する体系の構築が目指されたと言える。

第二章から第五章までは、このように画一的に作られた地方学校が、祭祀の面において地方独自の要素を内包していく様子を描いた。第二章では、学校内に祀られた先賢祠としては初期のものに相当する文翁の事例に注目して論じた。漢代の文翁は成都で学校を作ったことで有名であり、北宋期に興学の機運が高まると再評価されたが、当初文翁に関する語られ方は地方性を含むものではなかった。ところが実際に興学が進められる中、文翁は成都府学に祀られ、さらにそれに関わる言説が成都の士人たちに再生産されることによって、成都府学の象徴的存在となっていった。これは地域に学校が受容され定着していく過程と軌を一にしており、文翁の顕彰を通じて学校内に地域の歴史と伝統が創造され、可視化された事例と言える。さらに福建における常袞祠の事例などを通じて、各地に文翁言説に対抗する動きがあったことを示し、総じて北宋中期から南宋初期にかけて、学校内の先賢祭祀が地域性を帯びてくる様子を明らかにした。

第三章では地方官の着任儀礼と学校との関わりを論じた。地方官は着任した際に当地の代表的な祠廟に拝謁する慣習があったが、その際に書き残す祝文について、現存する宋代に書かれたものを網羅的に収集し、着任儀礼の全体像をほぼ明らかにした。その結果、北宋の後半から南宋の初期にかけて、孔子廟が他の諸廟よりも重視すべき卓越した存在と認識されるようになっていき、謁廟儀礼が徐々に定着し制度化されたことが明らかになった。さらに南宋中期以降の傾向では、着任儀礼の対象として地域固有の先賢が多く含まれるようになってくること、着任儀礼には地方官が対象の施設を視察し、継続的に維持管理を行う目的が含まれていたことも明らかになった。孔子廟への拝謁は実質的に学校に赴くことであるから、これは学校の適切な維持管理にもつながったし、また地方官は着任時に学校の先賢祠を通じてその土地の歴史と伝統に接し、これを尊重したのである。

第四章は、なぜ宋代になって学校の中に先賢を祀るようになったのかという観点から、そもそも学校に先賢を祀ることが当時どのように正当化されたのかを論じた。南宋中期に興った朱子学は、先賢として祀るにふさわしい条件とは何かを初めて具体的に議論したものと言える。朱子学は様々な祭祀・儀礼に関して、礼学上の根拠を厳しく問い直すことで儀礼体系全体の理論を構築しようとしたが、その流れの中で先賢祠も経書にもとづいて理解することが試みられたのである。そこでまず北宋末に新たに示された学校、および先賢祭祀に関する経学上の理解を唐代との比較から整理した上で、南宋中期以降の転換を位置づけた。特に朱子学の系譜に連なる魏了翁は、当時全国に急速に広がりつつあった周敦頤祠に疑問を抱き、経書や史書を博捜してこれを批判する理論を構築した。先賢はその土地ゆかりの人物を祀るのが礼に適った正しいあり方であり、理由なく全国で通祀してはならないというのがその結論であった。この背景には、各地域固有の先賢祠と全国で通祀される先賢祠の両方がともに急増していたという事情があり、これら一連の議論は多様化する先賢祠について礼学的根拠を与えていくものでもあった。明代には先賢は「郷賢」や「名宦」などに截然と区分されるようになるが、この概念分化はこのような過程により起こったということも明らかになった。

第五章では南宋後半期、魏了翁以降の時期を対象として、最終的に学校が多様な先賢祠を包摂するようになった転換点と、その理由を明らかにした。魏了翁は先賢祭祀の理論をさらに進め、特に先賢の子孫がそれを行う場合、すなわち祖先祭祀と重なり合った時に最も古礼に適う理想的なやり方になると論じた。このような考え方は当時の士人層の要請とも合致していたのである。先賢の祭祀を絶やさないためにはその子孫を保護し、経済的な支援を与える必要があると考えられるようになり、これによって子孫が自らの祖先を先賢として祀るよう要望することも現れてくる。この際に永く子孫を保護し先賢祭祀を維持する方策として、学外から学内に先賢祠を移すことが行われたのである。すなわち学校は単に過去にその土地と関わった先賢を顕彰するというだけでなく、その土地に住み続ける子孫にとっては一族を公的に保護する場としても機能したことが明らかになった。

以上の検証と考察を経て、本論文で明らかになったことをまとめれば以下のようになる。宋代の学校は単なる教育機関にはとどまらず、地域社会における士人コミュニティを形成する重要な場であり、その中で儀礼・祭祀空間としての役割が大きな意味を持ったのである。当初中央の国学と相似をなす儀礼・祭祀施設として構想された地方官学は、徐々に地域にゆかりのある人物が祀られるようになっていき、一定の儒教的な価値観にもとづくものとは言え、地域固有の歴史と伝統がそこに創造され可視化されていき、また地域士人層によって再生産されていった。すなわち学校は地域の歴史と伝統を蓄積する場として北宋から南宋へと、宋代をかけて徐々に成熟していき、士人層にとって地域観や地域的帰属意識を涵養する場となっていったと言える。

またこれらの検討から、宋代という時代は、儒教的価値にもとづきながら価値観の統一が進められた時期とみなすことができ、それゆえに地域意識の先鋭化や地域的競争心の表面化が起こったのだと考えられる。宋代が地域意識の形成期に当たるとすれば、この成果は続く元・明の社会に対する理解を深めることにもつながるであろう。