本論文は、14世紀のインドで、「新ニヤーヤ」と呼ばれる学術的・哲学的分析方法を駆使してひとの認識の本質を明らかにしようとした、ガンゲーシャという新ニヤーヤ学者の、言語認識に関する理論的考察を分析・検討するものである。

 新ニヤーヤ学派という伝統において、言葉は、世界を知るための認識手段(プラマーナ)のひとつとされる。ひとが身の回りの事物を知覚により認識し、また知覚できない事実を推理により認識するのと同じように、伝聞というかたちで、ひとは言葉を通して世界を知る。もちろん、あらゆる言葉が我々に真実を伝えるわけではない。特定の条件を満たした言葉だけが、知識の源として認められる。そのような言葉を、インドでは「プラマーナであるところの言葉(pramāṇa-śabda)」と呼ぶ。筆者はそれを「正しい言葉」と訳した。

 「正しい言葉」とは、ガンゲーシャによれば、事実と一致する認識をもたらす言葉である。或る言葉がそのような「正しい言葉」であると認められるには、ふたつの要件が満たされなければならない。まず、何よりも、その言葉から意味を理解できること。そして、その意味理解の内容が事実と一致すること。本論文は、ガンゲーシャの「正しい言葉」に関する議論を、このふたつの側面に分けて検討した。ひとつ目の要件についての彼の議論は、ひとがいかにして言葉(文)から意味理解を得るのか、或いは得るべきなのかという認知論的な視点から為される。一方、ふたつ目の要件については、或る言葉が事実を伝えていることをいかにして知ることができるかという、哲学的・認識論的な視点からの議論が展開される。

 これらの議論は、「情報」という概念を用いると、より鮮明にみえてくる。ふたつの側面に関する議論は、それぞれ、言語による情報獲得に関する議論と、獲得した情報の真偽判定或いは信頼性評価に関する議論に読み替えられる。

 本論文は、本編と補遺により構成される。本編は三つの部より成る。

 本編の第1部は序論であり、本論文の扱う問題と、本研究の依って立つ方法論を明らかにすることを主な目的としている。本論文は「新ニヤーヤ学派」の「正しい言葉」に関する議論を扱うが、第1章では「新ニヤーヤ」および「新ニヤーヤ学派」とは何か、「正しい言葉」とはどのような概念かを規定している。ガンゲーシャの考える「正しい言葉」は、「正しい認識」、つまり事実をそのまま捉える認識を、確実にもたらす言葉である。第2章では、第2部以降の考察を進めるために必要な、インド思想諸学派の意味論を概観している。第3章では先行研究のレビューを行い、それにもとづいて本研究の用いる方法を説明している。新ニヤーヤ学派の研究には、三つの大きな流れがある。ひとつは文献学的・思想史的研究、もうひとつは特定の文献の思想研究、そしてそれに加えて文献横断的な哲学的研究がある。本研究は第2の流れに属し、ガンゲーシャの『真理の如意宝珠』(Tattva-cintāmaṇi)という特定の文献の内容を検討するが、そのために文献学的・思想史的研究の方法論も導入する。すなわち、写本を用いてテキストを批判的に解読し、またそこで述べられていることを先行思想との比較にもとづいて解釈する。新ニヤーヤ学派の研究が進んでいる英米・インドでは文献学への関心が希薄なこともあり、ガンゲーシャの言語認識の理論がこのような方法で検討されることは、これまでなかったと言ってよい。第4章では、『真理の如意宝珠』全体のおおまかな構成と、そのうちの、言語理論が展開されている「言語部」の詳細な構成および内容便覧を提示している。

 第2部は、「正しい言葉」の認知論的側面、つまり言葉が意味理解を生み出す仕組み、或いはひとが文から意味を理解する認知機構を解明するガンゲーシャの議論を扱う。そのうち第5章では、まず、文意理解が成立するための要件と考えられている「期待」、「適合性」、「近接」という3要素、および多義語や比喩の意味理解に必要な「指向(意図)」についてのガンゲーシャの考えを分析している。ここでは自然言語処理で用いられる概念との比較も行い、構文解析、意味解析、文脈解析という技術的な概念と非常に近い発想がインドの言語認知理論に見出されることを示した。第6章では、上記の要件のうち「意図」がはらむ理論的問題を検討している。新ニヤーヤ学者たちは、我々がなぜ、オウムが口真似して喋る言葉から意味を理解できるのかということに深刻な理論的問題を見出した。オウムは何の意図ももたずに言葉を喋る(と考えられている)ため、そこには話し手の意図はない。話し手の意図を探ることは、文意理解において不可欠とされているが、そもそも話し手の意図に支配されない言葉からも意味を理解できてしまう。これをどう説明するか。ガンゲーシャは、「意図」を、話し手が作り出すものではなく、言葉がもつ意味に対する関係、すなわち「指向」として扱うことにより、この問題を回避している。第7章は「補充論」を扱う。部分が欠落した不完全な文、たとえば動詞を省略した「お茶(を淹れて)!」という文を聞いたとき、ひとはいかなる認知プロセスによって省略要素を補充し、全体としての文意を理解するのか。それを説明するのが補充論のテーマである。

 第3部は、「正しい言葉」に関する認識論的な問題を扱う。ガンゲーシャ以前のニヤーヤ学者たちは、言葉の正しさ(ここでは「事実を述べること」)の根拠を話し手の性質に求め、「信頼できる者の言葉は正しい」という考え方をしていた。ガンゲーシャはこの考え方を問題視し、言葉の認識論に大改革をもたらす。第8章では、その大改革の詳細を明らかにしている。ここでまた重要な役割を演じるのは、先ほども登場した喋るオウムである。オウムは、信頼できる話し手ではない。しかし、オウムが誰かの口真似をして「日本の首都は東京です」と喋るとき、それは事実を述べる、正しい言葉である。また同様に、雨が降っていると勘違いした嘘吐きが、ひとを騙そうとして「外は晴れているよ」と述べたけれども、外が実際に晴れていたとき、この言葉も信頼できる者の発言ではないが、正しい言葉である。ガンゲーシャは、ニヤーヤ学派の言葉の認識論を、これらの偶然事実と一致している言葉をも扱えるように改造する。そして、「その内容が他の情報により否定されないならば、その言葉は正しい」という理論を提案する。これは実質的に、「その内容が事実と一致するならば、その言葉は正しい」ということと同じことを意味している。ここで重要なのは、言葉の述べる内容が事実と一致するかどうかは、多くの場合、知覚等により実証するしか確かめようがないということである。インドの学者たちは、聖典の正しさを論証するため、内容の正しさを実証できない言葉について、そこから得られる認識が確実に正しいことを判定する方法を模索してきた。ガンゲーシャは、そんなことはそもそもできないと考えている。

 第9章では、上記のような認識論的議論を、情報学での議論、とくに情報工学においてなされているウェブ情報の信頼性を判定するための議論と比較している。さきほどのオウムの言葉の議論を、衒学的な、浮き世離れした議論と捉えることは適切でない。前世紀末、CGMと呼ばれるメディアが普及して以降、ウェブ上には発信者の分からない、あるいは発信者の信頼性を評価する手立てのない情報が溢れている。我々にはそういった、オウムの言葉に負けず劣らず得体の知れない情報の信頼性を適切に評価し、利用することが求められている。そのため、情報工学においても、情報の信頼性を、発信者の信頼性に依拠せずに判定するためのガイドラインが必要とされている。ガンゲーシャも、情報工学者も、解決しようとしている問題の本質は同じである。このような観点から、情報工学において提起されている情報の信頼性評価方法の有効性を、ガンゲーシャや他のニヤーヤ学者の考えに照らして検討している。

 以上が本論文の本編の概要である。補遺として附したのは、以上の考察の主たる資料とした『真理の如意宝珠』言語部第1章から第5章冒頭までの全体と、同書の真理論章からの抜粋とを和訳し、前者には解説を加えたものである。どちらも、日本語に翻訳されるのはこれが初めてである。また言語部第1章については、2本の写本との校合結果をアパラートスに示し、リセンション間でかなり読みが違うことを明らかにした。

 結論として、ガンゲーシャの言語情報理論の特徴は、言葉への話し手の関与をなるべく排除することにあると言える。言葉から情報を得るには、話し手が何を伝えようとしているかを理解する必要は必ずしもない。話し手が何を意図していようと、その言葉から得られる認識が正しいのであれば、その言葉は「正しい言葉」である。かつて、ニヤーヤ学派と対立するミーマーンサー学派は、聖典の絶対的な権威を確立するため、聖典の正しさは聖典本来のものであり、発信者の性質に依存しないと主張した。一方、人間を中心に世界と認識を分析するニヤーヤ学派は、そのような絶対主義を解体するため、聖典も、我々の言葉も、その正しさは等しく話し手の信頼性により決定されると主張した。ガンゲーシャの見解は、この方針に逆らうかのようにもみえるが、そう理解すべきではなく、むしろその人間中心の考えを突き詰めたところに生まれたものと言える。ガンゲーシャの理論に従えば、言葉の正しさは言葉のみによって決定されるが、その正しさを知るのは完全に聞き手の仕事とされる。情報の正しさは、個々人が自らの責任において考え、判断しなければならない。彼の理論には、このような、徹底した理性主義と個人主義が見出される。