我々の視覚は,網膜における光信号の受容から始まる.網膜では錐体と桿体という視細胞が光を電気信号に変換する.だが,大脳皮質に伝達される情報は電気信号に変換された明るさの情報そのものではない.我々の生活する太陽光の下では,光強度の変化の幅は視細胞が対応できる範囲を優に超えているため,明るさの情報がそのまま脳に伝わると,すぐに情報が飽和してしまう.そのため,網膜においてまず近傍の細胞間で時空間における輝度の差分,すなわちコントラストが検出され,その情報が脳に送られている.網膜におけるコントラスト検出器には,2つのタイプがあることが知られている.一方が輝度の時空間的な増分を検出するオン中心型細胞,もう一方が輝度の減分を検出するオフ中心型細胞である.この輝度の増分(オン)と減分(オフ)のことを,輝度極性と呼ぶ.これらの情報が大脳皮質に伝達されると,第一次視覚野(V1)においてオン中心型,オフ中心型細胞の出力が統合され,特定の方位や運動方向を好んで応答する,すなわち方位や運動方向に選択性を持つ単純型細胞と呼ばれる検出器の受容野が構成される.単純型細胞は,周囲よりも明るいか暗いかのどちらかの輝度極性に選択的に応答する(輝度極性選択性).さらにV1の次の段階で,単純型細胞から出力された明暗の極性情報が統合され,特定の方位や運動方向を,輝度の増分・減分にかかわらず周囲との絶対的な輝度差があれば検出する,輝度極性に非選択的な複雑型細胞と呼ばれる検出器の受容野が構成される.

これまでの研究では,我々のコントラスト知覚がこの周囲との絶対的な明るさの差分を検出する,輝度極性に非選択的なメカニズムによって決められると考えられてきた.コントラスト知覚だけでなく,運動や方位,奥行き,輪郭,テクスチャなど,ほとんどの視覚属性の知覚が極性に非選択的なメカニズムによって担われており,輝度の増減の極性に選択的なメカニズムはその単なる前処理にすぎない,という見方が一般的であった.

だが,絶対値のコントラストが同じでも,明暗の極性が違う画像は全く異なる印象を我々に与える.ネガポジ反転画像を例にとって考えてみよう.これは元の画像と絶対値のコントラストが等しいにも関わらず,対象の認識の容易さや画像の質,奥行き,画像の持つ意味など,様々な点で全く異なるように感じられる.多くの視覚属性の知覚が絶対的な明るさの差分(コントラスト)を検出するメカニズムによって成立しているのであれば,ネガポジ反転画像から受ける印象は元画像とほとんど同じはずである.このような問題を考えると,明暗の極性に選択的なメカニズムがいくつかの視知覚に貢献している可能性が考えられる.

そこで本研究では,輝度極性に選択的なメカニズムが,極性非選択的なメカニズムの単なる前処理ではなく,視知覚におけるいくつかの側面に直接的に関わっている可能性を検討した.

第2章では,コントラスト対比現象を用いて見かけのコントラストが中心領域と周辺領域のコントラストの極性の組み合わせに依存するか,すなわち極性に選択的なメカニズムが見かけのコントラスト知覚に貢献しているかを検討した.コントラスト対比現象とは,高コントラストのテクスチャに囲まれると,周辺領域が無い場合に比べ,中心領域のテクスチャの見かけのコントラストが低下する現象のことであり,人間の視覚系におけるコントラスト知覚の理解に有益な現象である.コントラスト対比もまた,これまで極性に非選択的なメカニズムの空間的な相互作用によって生じると考えられてきた.高密度のテクスチャを用いてコントラスト対比の極性選択性を検討した過去の研究(Solomon, Sperling, & Chubb, 1993)においても,対比効果は中心領域と周辺領域の極性の組み合わせに依存しない,すなわちコントラスト対比は極性に選択的ではないと結論付けられている.だが,本研究において低密度のテクスチャを用いて中心領域の見かけのコントラストを心理物理学的手法により測定した結果,中心領域と周辺領域が同極性の場合には見かけのコントラストが著しく低下するのに対し,逆極性の場合には全く抑制が起こらない,すなわち輝度極性選択性があることがわかった.これは,コントラスト知覚において輝度極性に選択的なメカニズムの空間的相互作用が重要であることを示している.続く実験で,コントラスト対比の極性選択性は,要素の密度が高いテクスチャにおいては現れないことを確認した.これは,高密度のテクスチャを用いてコントラスト対比が極性に選択的でないと結論付けた過去の研究 (Solomon et al., 1993) との矛盾を解消するものであった.さらに,中心領域と周辺領域でテクスチャ要素の方位成分が異なる刺激を用いてコントラスト抑制効果を測定した結果,順応刺激とテスト刺激の方位差が大きい場合にも大きなコントラスト抑制が見られたことから,極性選択的な対比効果が強い方位選択性を持たないことが示された.

第3章では,コントラスト対比と同様の密度の低い刺激を用いて,コントラスト順応が順応刺激とテスト刺激のコントラストの極性の組み合わせに依存するかを検討した.コントラスト順応とは,一般的には高コントラストのテクスチャをしばらく提示すると,順応を行わない場合と比べ,その後に提示したテクスチャの見かけのコントラストが低下する現象のことである.コントラスト順応は,これまで極性に非選択的なメカニズムの時間的な相互作用によって生じると考えられてきた.順応後に提示されたテクスチャの見かけのコントラストを測定すると,順応刺激とテスト刺激の極性が同じ場合にコントラスト抑制効果が大きいという極性選択性が見出された.また,順応刺激がオフの場合の方が抑制が強いという極性非対称性も観察された.これらの結果は,順応による見かけのコントラストの低減もまた,主に極性に選択的なメカニズム間の時間的に相互作用によって担われているということ,またコントラスト知覚に関わるメカニズムがオン・コントラストよりもオフ・コントラストに対してより大きく応答を変化させることを示している.また,極性選択的な順応効果が方位選択性をあまり持たないことも示された.

第4章では,自然画像のコントラストの正値(オン)と負値(オフ)を独立に操作することで,ぼけの知覚が振幅スペクトルだけではなく,明暗の極性に影響されるかを検討した.現在の理論では,ぼけの知覚は画像中の高空間周波数成分のパワー,または振幅のみで決定されると想定されており,明暗の極性はほとんど考慮されてこなかった.だが,画像の高空間周波数成分のうち,振幅の正値(オン成分)または負値(オフ成分)のみを低減させた画像を用いて,それぞれの画像の見かけのぼけを測定した結果,振幅スペクトルが同じ場合でもオフ成分を低減した画像の方がオン成分を低減した画像よりもぼけの印象が強くなることが明らかになった.自然画像だけでなく,陰影などの3次元形状情報を持たない人工画像を用いた場合でも,同様の結果であった.これは,ぼけの知覚において高空間周波数帯のオフ信号がオン信号よりも重要であることを示している.第3章で見出されたコントラスト知覚におけるオフの優位性は,自然画像を用いた画像のぼけの判断においても表出したと言える.

これらの一連の実験によって,本研究では,これまで輝度極性に非選択的なメカニズムの前処理にすぎず,直接的には視知覚に貢献していないと考えられることが多かった極性に選択的なメカニズムが,少なくともコントラストやぼけの知覚という,いくつかの視知覚の側面に直接的に貢献していることを示すことができた.