熊本県球磨方言の動詞と助詞の研究

小野 綾子

本稿は、球磨方言、すなわち、熊本県人吉・球磨地方で話されている方言の記述的な研究である。その構成は、本編に加えて、資料編(その1)<テキスト>と資料編(その2)<語彙>から成る。

本研究は2004年から人吉・球磨地方で行ってきた現地調査に基づいている。

本研究で用いた資料の中心は、全部で501分6秒の録音資料である(この録音資料は現地の方言研究者、前田一洋が1979年から2004年にかけて録音したものを含む)。この録音資料の内容は、一人語りや対話などのテキストである。このテキストを文字化したものを、主に文法の観点から分析した。テキストに現れる各語を形態素に分けて、形態素ごとにグロスを付け、さらに、文ごとに、場合によっては、文のいくつかのまとまりに、共通語訳を付けた。適宜、文化的背景や調査の状況などのコメントも加えた。また、本研究では、文字化したテキストに加えて、エリシテーションで得た資料も用いた。

資料編(その1)<テキスト>には、文字化したテキストの一つを掲載した。このテキストの長さは51分であり、文字化したテキストの約10分の1にあたる。

資料編(その2)<語彙>は、前半と後半からなる。前半には文字化したテキストに出てきた語彙の全てを載せた。その際、語彙の分類は筆者が提案した分類を用いた。後半には、『全国方言一覧辞典』(1988)の語彙の全てについて、対応する球磨方言の言葉を掲載した。

本編は、第1章 導入、第2章 動詞、第3章 助詞、第4章 結語の四つの章から成る。

「第1章 導入」では、本研究の概略と目的、日本語の諸方言の分類における球磨方言の位置づけ、球磨方言の先行研究、社会的・文化的背景、この地域における方言についての意識、音素の概略、語彙の概略、品詞、本研究で用いた資料およびその文字化の手順、本研究に協力してくれた話者について述べる。

球磨方言に限らず、日本語の文法を理解するのに、最も中心的な部分、最も重要な役割を果たす部分は動詞と助詞であると言えよう。本研究は、分析の対象を動詞と助詞にする。

「第2章 動詞」では、動詞の形態的側面、すなわち、動詞の派生と活用について述べる。特に、活用を詳細に記述する。球磨方言の研究では、動詞の形態の記述は殆ど無かった。本研究は、日本語の共通語に関する従来の研究を参考にして、球磨方言の動詞の記述に相応しい方法を工夫したものを用いた。

まず、動詞を以下のように分類した。

(a) 動詞の分類1:子音動詞、母音動詞、特殊動詞。

子音動詞は語根が子音で終わるものである。語根末の子音によって、10グループに分けることができる。-sグループ(例はsas-u「指す」)、-mグループ(例はhum-u「(靴を)履く」)、-bグループ(例はasob-u「遊ぶ」)などである。

母音動詞は語根が母音で終わるものである。語根末の母音によって、5グループに分けることができる。/e/グループ(例はkorae-r-u「我慢する」)、/u/グループ(例はagu-r-u「あげる」)などである。

特殊動詞は、子音動詞としての活用と母音動詞としての活用の両方を持っている。現段階で三つ見つかっている。例えば、「寝る」を表す動詞は、子音動詞として活用する場合(ner-u)と母音動詞として活用する場合(ne-ru)がある。特殊動詞の存在は、極めて興味深いものである。筆者の知る限りでは、共通語では報告されていない。

更に、(a)の分類とは別に、動詞を以下のようにも分類する。

(b) 動詞の分類2:単独動詞、複合動詞。

単独動詞は一つの動詞語根から成るものである。たとえば、sas-u「(指を)指す」、hum-u「(靴を)履く」、asob-u「遊ぶ」などである。複合動詞は大部分の場合、二つの動詞語根を含む。二つの語根をつなぎ接辞が結びつける。二番目の動詞語根には、丁寧を表すもの(例えば、sas-i-mos-u「(指を)指します」のmos-u)、可能を表すもの(例えば、sas-i-kir-u「(指を)指せます」のkir-u)、主語が発話者であることを表すもの(例えば、sas-i-jor-u「(発話者が指を)指す」のjor-u)、主語が発話者以外の第三者であることを表すもの(例えば、sas-i-jar-u「(発話者以外の第三者が指を)指す」のjar-u)、尊敬を表すもの(例えば、sas-i-nar-u「(指を)お指しになる」のnar-u)がある。球磨方言の動詞の中には、動詞としての単独用法がなくて、複合動詞の二番目以降の要素としてだけ用いる動詞がある。これを複合形成動詞と呼ぶことにする。

動詞の活用の形については、まず、以下のように分類する。

(c) 活用形の分類1:基本形シリーズと派生形シリーズ。

派生形シリーズは動詞の語根に派生接尾辞を付けて形成する。以下のシリーズがある。たとえば、動詞sas-u「(指を)指す」の言い切り形で非過去の例をそれぞれ挙げると、使役シリーズ(sas-as-e-r-u)、受け身シリーズ(sas-ar-e-r-u)、可能シリーズ(sas-e-r-u)、否定シリーズ(sas-e-N)、丁寧シリーズ(sas-e-mos-u)、願望シリーズ(規則的な形はsas-o-gotar-uではあるが、発話の際、sas-o-got-aの方をよく使う)。基本形シリーズは派生接尾辞を付けない形である。

更に、(c)の分類とは別に、動詞の活用の形を以下のようにも分類する。

(d) 活用形の分類2:言い切り形と非言い切り形。

言い切り形は文の終止に用いる形である。以下の形がある。例として、sas-u「(指を)指す」では、過去形(sas-a-N)、非過去形(sas-u)、意志形(sas-oo)、推量形(sas-u-doo)、命令形(sas-e)、禁止形(sas-u-na)、否定意志形(sas-u-mja)、否定推量形(sas-u-mjaa)がある。非言い切り形は、文を終止しないで、文を続ける形である。以下の形がある。連用形(sas-i)、テ形(sas-i-te)、否定形(sas-a-zu)、同時進行形(sas-u-kaQtosju)、逆接同時進行形(sas-u-i-doN)、条件形(sas-e-ba)、逆接形(sas-u-to-na-i-doN)。

次に、動詞の活用形を示す。子音動詞の10グループの一つずつに、下記の形を挙げる。

(e) 基本形シリーズ:(e-1) 言い切り形、(e-2) 非言い切り形。

(f) 派生形シリーズの一つずつに:(f-1) 言い切り形、(f-2) 非言い切り形。

同様に、母音動詞の5グループの一つずつについても、これらの形を挙げる。特殊動詞も、例を一つ選び、同様にこれらの形を挙げる。更に、複合動詞についても、同様に行う。

興味深いことに、活用の詳細は子音動詞であるか、母音動詞であるか、特殊動詞であるかによって、異なる。例えば、過去形(言い切り形)は、子音動詞の中で、語根が-sで終わるもの(例えば、tas-i-ta「足した」)や、語根が-bで終わるもの(例えば、asoN-da「遊んだ」)には、一つしか無いが、語根が-mで終わるものには、二つある(例えば、joN-da、jo-o-da「(本などを)読んだ」)。テ形(非言い切り形)は、子音動詞の中で、語根が-sで終わるものには一つしか無い(例えば、tas-i-te「足して」)が、-mで終わるものには二つある。(例えば、joN-de、jo-o-de「(本などを)読んで」)。

更に、活用の詳細は基本形シリーズであるか、派生形シリーズであるか、どの派生形シリーズであるかによっても異なる。例えば、子音動詞の中で、語根が-kで終わるものには、受け身シリーズと可能シリーズは無い。母音動詞の中で、語根が-uで終わるものには使役シリーズが無い。

動詞の活用について、組織的に、かつ、精密に考察した結果、上記のような興味深い事実が見つかった。

派生形シリーズのいくつかは組み合わせが可能である。現在の段階で見つかっている組み合わせを列挙する。組み合わせのそれぞれについて、例をあげる。これらの組み合わせの中には、共通語で訳すのが難しいものもある。例えば、語根-使役-受け身(例は、tor-as-e-r-ar-e-r-u「(写真を)撮らせられる、即ち、写真を撮ることを要求される」)と、語根-受け身-使役(例は、tor-ar-e-s-as-u「(写真を)撮られさせる、即ち、写真に写ることを要求される」)である。

次に、動詞の活用の例文を挙げる。主に、基本形シリーズの言い切り形と非言い切り形の例文である。

第2章の最後に、形容詞の活用を簡単に示した。

「第3章 助詞」では、まず、助詞の分類が極めて困難であることを述べる。次に、助詞を仮に終助詞、接続助詞、格助詞、副助詞に分類し、分類の基準を述べる。それぞれの例を挙げると、終助詞には、=tai(断定を表す)、=do(同意を表す)、=nja(疑問を表す)などがある。接続助詞には、=baN(条件を表す)、=deNga(逆説を表す)、=tjari(同時進行を表す)などがある。格助詞には、=i(帰着を表す)、=ja(並列を表す)、=o(対象を表す)などがある。副助詞には、=koso(限定を表す)、=jara (並列を表す)、=mo(追加を表す)などがある。次に、それぞれの助詞の例文を文字化したテキストから挙げる。更に、助詞が先行する語と融合する現象について述べる。融合する例として、格助詞との融合(例えば、kokiはkoko=i「ここに」)、副助詞との融合(例えば、tokjaはtoki=ja「時は」)を挙げた。

「第4章 結語」では、本研究を概観し、本研究の意義と今後の展望を述べた。

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