明治期歌舞伎と出版メディアの研究

矢内 賢二

明治十年代に活発な劇評活動を行った六二連は、梅素玄魚、高須高燕らの好劇家から成る観劇団体であり、雑誌『歌舞伎新報』への寄稿の他、独自に『俳優評判記』の刊行も行った。『俳優評判記』は明治十一年十一月から十九年二月までの間に二十七冊刊行されたが、いずれも黒表紙・横判という近世の評判記の標準的体裁を踏襲しており、当時刊行の途絶していた評判記を再興しようとする意図に基づいて発刊されたものであった。明治十年代前半には多くの新聞に劇評が掲載されるようになり、また六二連の『俳優評判記』に対抗すべく『新富座俳優評判記』(明治十四年十二月)が出版されるなど、明治十五年前後の出版メディアにおいては「劇場(しばゐ)繁昌の時節」(『俳優評判記』)というべき活況を呈するに至った。しかし二十年代初めまでの劇評は、観劇経験と知識に乏しい記者によって執筆されることが多く、その専門的知識や鑑賞眼の欠如と、写実・合理性の偏重は、六二連によって「明治見巧者」と批判された。これに対して六二連の評判記は批判的・対抗的立場を取りつつ従来の筆致による批評を継続し、自ずと劇評が新興・守旧に二分化されることとなった。このように、写実・合理偏重を特色とする新たなタイプの劇評と、芝居のいわゆる「約束事」を熟知し、旧来の評判記の筆致を継承する六二連とが対峙するという構図が明治十年代に形作られていき、六二連をはじめとする劇評の執筆者たちが「黒人」(玄人)として囲い込まれていくと同時に、彼らが経験的に有していた専門的知識が、後に三木竹二らによって部分的に言語化され記録されることにより「型」として収斂していくことになると考えられる。

六二連の評者らと新聞劇評記者らとの分立は、必ずしも有効な批評理論を形成するには至らなかったが、この間に、戯曲及び劇評の方法を自覚的に検討し記述するという方法により、両者を総合するような批評の構築を試みたのが、森鷗外実弟の三木竹二であった。竹二は評判記風の旧弊を打破しようとした近代劇評の祖として位置づけられるのが一般的であるが、劇評のほかに「型の記録」を積極的に推進したところに独自の意義があり、これを含め、竹二の著述活動については、戯曲の重視、批評の基準策定への意識、型の記録の推進、他の劇評への意識と言及、という特徴を挙げることができる。

戯曲を重視する態度は、歌舞伎の役の類型や技芸の身体伝承との間に、時には齟齬を来す可能性を蔵しているが、まさにその伝承が、演者・観客の双方において不安定・不確かなものになりつつあったからこそ、役者の身体の外部に、誰もが理解することのできる客観的根拠を求めようとしたものであった。その根拠となるものが、文字によって歴史的な同一性を保証された戯曲であり、また一方では、「型の記録」が、戯曲を批評の基盤に据えることによって捨象される表現の伝承や身体性・視覚性を担保する役割を担っていた。竹二は、型という概念を身体伝承とは切り離した意味で捉え、役者個々の身体の不在を前提に、普遍的な言語表現として記録にとどめようとしたのであり、技芸伝承といういわば内輪の身体的言語を、部外者にも理解・共有できるような形態に還元し解放していこうとする指向をもっていた。竹二が型の記録を通じて行ったことは、すでに存在した既定の「型」を記録に写し取ったのではなく、舞台の外部に「型」という枠組みを設けることによって、舞台を成り立たせる諸要素に輪郭を与えることであった。

一方、歌舞伎の興行においては時局を当て込んだ際物が上演されたが、新聞・雑誌という出版メディアによる報道が興行の成功に大いに効果を発揮した事例として、明治二十三年五月新富座で初演された竹柴其水作『皐月晴上野朝風』を挙げることができる。これは維新の上野戦争を題材とした作品であるが、戦争の場面の大掛かりな舞台効果が人気を博し、また彰義隊の二十三回忌を当て込んで盛んに宣伝が行われたことにより、興行的な成功を収めた。具体的には、出演俳優等の主催・列席による彰義隊士の法要の執行、元彰義隊士や遺族による出演俳優への情報提供や演技指導、また登場人物のモデルになった人物自身による観劇など、出演俳優と観客との間の交流が、本作の上演に合わせて盛んに行われるとともに、その詳細が新聞・雑誌に度々報じられた。本作の興行は、そうした舞台上演の外部における宣伝広報が大きな成功を収めた事例であり、出版メディアが作品に対して外的な側面から興行に関与した例として位置づけることができる。

明治二十七年七月に勃発した日清戦争については、歌舞伎に先駆けて壮士芝居の川上音二郎が劇化を実現し、観客の人気に投じて興行を成功させた。成功の大きな理由としては、火薬等の舞台効果を多用した戦闘場面の迫真性、そして現地での戦闘の模様等を再現するという報道性を挙げることができる。既に指摘されているように、川上一座の日清戦争劇を、国民国家としての近代日本が形成されていくプロセスの象徴として捉える視点は不可欠である。そこでは写実的な争闘場面、大量の火薬の使用といった一見単純な演劇的仕掛けが大きな役割を果たしたが、それらは明治二十年代前半の歌舞伎の戦争劇においてある程度胚胎していた要素であり、壮士芝居の日清戦争劇においては、特に様式性を排除した争闘場面において、演者にも観客にも自明の前提であった歌舞伎の既成の演技の体系を排除してみせた点に独自の意義があった。

歌舞伎の大劇場で日清戦争を劇化した作品としては竹柴其水作『会津土産明治組重』を挙げることができる。戦闘場面の迫真性のみが問題にされることが多かった日清戦争劇において、本作が時局を取り込みながら一幕の世話場を構成し、役者の演技を含めて好評を得たことは、歌舞伎の際物における劇作の方法がかろうじて生命を保っていたことの表れといえる。

一連の歌舞伎の日清戦争劇については一貫して戦争の場面の拙劣さが批判を受けたが、続く『海陸連勝日章旗』も同断であり、いずれの作品も、役者・観客の双方にとって、歌舞伎の時代物の立廻りの記憶とは絶縁した所に成立せざるを得なかったところに失敗の原因があった。ただし不評に終った本作の中でも、五代目尾上菊五郎は写実的でありながらあくまでも「芝居」、すなわち歌舞伎の範疇にとどまる演技を見せたと評価されており、戦争劇に見合った写実性を身体で表現するだけの技量を発揮しつつ、総体的に佳作の現れなかった歌舞伎の日清戦争物の中でわずかに健闘を示したと評価することができる。歌舞伎では、明治二十年代半ばまでに、旧来の立廻りの様式を離れた格闘場面や、火薬等を用いた戦闘場面が試みられ、『皐月晴上野朝風』のように視覚的な写実趣味と歌舞伎独自の様式性とが相俟った作品も現れたが、日清戦争物に至っては、劇作の面で『会津土産明治組重』が、また演技の面では『海陸連勝日章旗』において菊五郎がわずかに健闘を見せたに過ぎず、総体的には壮士芝居に対抗し得るだけの舞台を提示することができなかった。一方、日清戦争劇の失敗により、歌舞伎は保守的傾向を強めて新作の上演を避け、上演演目の固定化が見られるようになり、少なくとも興行面での活気という点においては「旧演劇の身代限」(饗庭篁村)と揶揄されるような停滞期を招いた。

明治三十年代は、新派の隆盛、翻訳劇の上演等により従来の歌舞伎観・演劇観が一段と相対化され動揺を見せた時期であったが、明治三十六年に九代目團十郎・五代目菊五郎が相次いで没するに至り、歌舞伎の伝承に対する危機感は頂点に達した。そこで歌舞伎の伝承を詳細に記録にとどめ、後代に残し伝えようという意図のもとに、三木竹二らによって型の記録が執筆され『歌舞伎』誌上に掲載されるようになる。これは歌舞伎の型を自覚的かつ総合的に紙上の記録としてとどめようとしたもので、芸能の視聴覚的要素を主に言語によって捕捉し資料化・資源化しようとした画期的な試みであったが、さらにそれが実演者ではなく芸能の受容者たる記者・評論家によって担われたところに特色があった。

まず明治前期において、同時代の歌舞伎の舞台を言語によって記述し描き出そうとする記述形式には、興行に直接用いられる台帳のほか、明治十二年創刊の『歌舞伎新報』に掲載された筋書があった。筋書は狂言作者から提供を受けた台帳に基づいて書かれたが、台帳の舞台書き・台詞・ト書きといった要素を大幅に簡略化し、一般の読者向けに読物化したものであった。また筋書では主に新作狂言の梗概を示すことに重点がおかれ、実際に上演された舞台よりも専ら台帳の記述に依拠して書かれたために、役者の技芸の様相については伝えるところが少なかった。しかし台帳とは異なり歌舞伎の舞台の様相を観客側の視点から描き出す視点を有していたところに特色がある。

その影響を受けつつ成立した型の記録は、舞台装置・衣裳・下座音楽等の演出から役者の所作の流れ・演技の段取り等に至るまでを詳細に筆記したものであり、舞台を構成する多様な要素を網羅的に記述することで、実際に上演された舞台の様相を紙上の記録にとどめようとするものであった。型の記録の具体的な記述方法については、その特色として、台帳および附帳の内容に依拠しつつそれを敷衍する構造をもつこと、身体表現である所作を言語によって記録するという独自の試みであったこと、実演者や製作者の視点ではなく観客側の視点に立つ記述であったこと、型を保存し伝承するという目的意識に基づいていたこと、を挙げることができる。

また型の記録の記述様式は、幕内の資料である附帳の活字化に始まり、特定の役者の談話形式を経て、観客の視点からの舞台面の客観的描写へと至る。これは鬘・衣裳・下座といった断片的かつ静的な情報から、役者の身体による演技という動的な情報へと記述の関心を移し、さらに歌舞伎の舞台全体を客観的に観察して型という概念によって捕捉するに至る過程を示している。ここからは、役者の身体と一体化し、他ならぬ役者自身の声によって語られていた型が、次第にその身体を離れ、観察者の手で言語によって記述されるべき対象と考えられるようになったことが見てとれる。言い換えればそれは歴史的伝承の結実としての型という概念が伝承者の外部において自立しつつある過程であった。

誌上において少なからぬ紙数を占め、また掲載記事が後に単行本としてまとめられ多数刊行されたことからも、型の記録は歌舞伎をめぐる様々なテクスト群の中で、台帳や劇評とは全く異なる独自の性質を有する形式として定着・発展したといえるが、後に型の記録は『演芸画報』等における「芝居見たまま」へと受け継がれた。「芝居見たまま」は読者に観劇を擬似体験させようとする娯楽的志向を有していたため、大正末頃には主観的・情緒的な表現を多用するエッセイ風の読物へと変質し、型を詳細かつ客観的に記録するという当初の性格を失っていったのである。

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