本論文は、柿本人麻呂や山部赤人などと同じ宮廷歌人といわれるにもかかわらず、極端に研究が少なかった田辺福麻呂についての、詳細で総合的な研究である。第一章では、巻六の都城讃歌と荒都歌とを、第二章では、巻九の挽歌について論じた。第三章は、福麻呂と密接な関係を持つ柿本人麻呂の石見相聞歌、福麻呂と用字に共通性を持つ巻十の七夕長歌について考察を行った。第四章では、『続日本紀』歌謡と万葉歌との関係、「久邇京讃歌」と中国思想「六合」との関係性を考えた。この2論を踏まえ、宮廷歌人とは、漢文に造詣が深い古代官僚田辺福麻呂のもう一面を照らし出したものであると結論づけた。以下に各章各節の概要を示す。

第一章第一節「寧楽故郷歌」では、まず従来ほとんど注意されることがなかった帝徳の讃美から平城京を提示する場所の提示部について論じた。当該部分の文構造と主体を定め、御子による皇統の継承を、中継ぎの天皇元明が希求すると文武即位宣命を取り入れて示していることを明らかにした。次に、遷都の理由を簡潔に示すことで作品の評価を低めている「新世の 事にしあれば」について、「新世」を詳細に検討し、支配と奉仕を越えた理想的な君臣調和が久邇新京での「新世」であり、人事の不在が「新世」ならざる平城京であると論じた。 第二節「久邇京讃歌」では、2組の長反歌からなる「久邇京讃歌」について、まず第一長反歌・第二長歌内部の詳しい表現と構造の分析を行った。次に第一長歌と第二長歌の対応や比較を行った。そこには、長歌どうしに精緻な対応関係があることを指摘した。これが人麻呂の石見相聞歌第一長歌と第二長歌の関係と類似することから、人麻呂の石見相聞歌の構造を福麻呂が摂取した可能性のあることを指摘した。

第三節「『久邇京讃歌』の構造の淵源」は、第二節で摂取の可能性を指摘した人麻呂の石見相聞歌の構造と「久邇京讃歌」の構造とを詳細に比較検証した。複数の類似点を指摘し、全体として、石見相聞歌の構造を援用している可能性が高いことを指摘した。次に漢詩文からの摂取についても論じた。第一長歌と第二長歌の山川・春秋の順を入れ替えるなど変化をつけた対構造の淵源を探り、謝霊運などの六朝漢詩文の対構造の取り込みにあること、さらに季や山川を入れ替えるなど複雑化した対は、初唐詩を取り入れた可能性を指摘した。

第四節「久邇荒墟歌」は、集中唯一「春日」を題詞含む。そこで、中国漢詩題での「春日」との比較を行った。加えて第二反歌が人事の無常と自然の不易を歌うことや、挽歌的表現「悲傷」が同じ題詞に示されることから、当該歌が大枠として荒墟の人事の無常と悲愁を誘う春の自然の不変とを対比構成した、都への哀惜を込めた挽歌であることを指摘した。続いて、久邇京時代が「徳沢流洽」という聖武即位の理念とそれを拡大した君臣和楽が末端の「われ」にまで及んだ、高度に君臣調和した新時代であることを明らかにした。久邇荒都の原因は、大宮人による君臣調和の壊乱にあると福麻呂は歌い、聖武の行動を捨象したものであることを論じた。

第五節「難波宮讃歌」では、その構造と表現を分析した。まず、4つの部分からなることを示し、次に各部分の表現を詳細に分析することから、人麻呂・車持千年の2名の宮廷歌人の詞章を交互に取り入れるなど周到細密に宮廷歌人の表現を取り入れていることを明らかにした。また、繰り返し用いられる〈視聴対〉が、六朝漢詩文の〈視聴対〉の発想を和歌に汲み入れたものである可能性を指摘した。さらに、当該歌の〈聴覚景〉の累積が、「見れど飽かぬかも」という強い規制力のある〈視覚景〉とのバランスをとるための叙法であった可能性を探った。

第二章第一節「足柄の行路死人歌」では、(1)関連が指摘される調使首の行路死人歌となぜ類同性を持つのか、(2)他の行路死人長歌と違い、死人の環境に関する叙述が少ないのはなぜかという2点の解明を中心に論じた。(1)は、調使氏が管理する伝承として行路死人歌があり、同じ行路死人歌を詠む能力を備えた福麻呂が、伝承していた資料を閲覧、もしくは記録している可能性が考えられた。(2)は、当該題詞が「過―」「見―」という二つの題詞を含み、「過―」の題詞に示される伝説化の要素として生前の描写が篤く語られている可能性を述べた。「見―」の題詞に示される行路死人歌の面からは、足柄は、「妻」との決定的な別れを意味する境界を意味することを指摘した。

第二節「菟原処女の墓を過ぎし時の歌」は、極端に研究が少ない作品である。今回は、その作品研究の糸口となる冒頭の類似が指摘される山部赤人の「真間の娘子の墓を過ぎし時」の歌と丁寧に比較することから、福麻呂が赤人歌から摂取したものだけではなく、排除したもの、そして福麻呂独自の表現までを射程に入れた。赤人の真間の手児名歌を想起しながら当該歌を読み進めることになることを確認する。当該歌は、赤人歌で述べられた東国の鄙なる語を排除し、福麻呂独自の表現として、男たちへの共感が述べられていることを明らかにした。

第三章第一節「柿本人麻呂の石見相聞歌の構造」では、人麻呂の石見相聞歌の構造について、「久邇京讃歌」をはじめとした田辺福麻呂歌へのフィードバックを鑑みて、できるだけ詳細に検討し論じた。石見相聞歌の構造は、有力な3説のうち「同時・並行の構図」をとることを確かめた。時空が戻るように表現された最終の第二長歌の第二反歌の検討により、振り切れぬ思いは再び妹に向かい、第一長反歌の時点に立ち戻っていく。めぐり戻る心理、心理の循環がそこには表現されている蓋然性が高いことを論じた。

第二節「小竹の葉はみ山もさやにさやぐとも」は、「久邇京讃歌」の第一長歌と第二長歌の連結部にあたる、「つなぎ」の反歌の前駆をなす、柿本人麻呂の石見相聞歌第一長歌の第二反歌を扱う。当該歌に見られる難訓「乱友」は、上代用例を詳細に検討することによって、「サヤグトモ」と訓む蓋然性の高さを指摘する。さらに「さやぐ」がネガティブな予兆として機能する措辞となることを確認し、そこから当該歌で人麻呂が形象化しようとしたものを探った。

第三節「石見相聞歌における『夏草』と『露霜』」では、石見相聞歌中に見られる「夏草」「露霜」について、被枕詞と連合表現となることによる歌中での機能を考察した。さらに、枕詞といえども、季を異にするように考えられるこの2つの表現が混在する意味を考えた。従来指摘がない、石見相聞歌と『文選』の李善注を含めた摂取の蓋然性の高さを指摘し、季に不統一を感ぜられる「夏草の」・「露霜の」という枕詞が、実際の季を反映した物ではなく、李善注を吸収することにより生みだされた、悲嘆の大きさと遠く離ればなれになる恋人同士の距離感を形象化するための機能を果たす役割となっていることを明らかにした。

第四節「万葉集巻十の七夕長歌は福麻呂の作か」では、田辺福麻呂と用字の関連が深いとされる5つの歌群の中から、巻十に収められた連続する七夕長反歌を研究対象とし、表現・発想・構成・句と句の組み合わせ方などの福麻呂歌の特徴と比較しながら、当該歌が福麻呂作か否かを論じた。表現の詳細な研覈により新しい句と句の組み合わせ、宮廷歌人歌の転用、田辺福麻呂歌集歌との発想の類同などから、これらは、田辺福麻呂の作であり、しかもそれぞれの長反歌どうしが、一対となる有機的な構造を持つ長反歌群である蓋然性が高いことを論じた。

第四章第一節「新しき年のはじめ―続日本紀歌謡と万葉歌―」では、『続日本紀』に残された「新しき年のはじめ…」という琴歌が、なぜ天平十四年饗宴時に歌われ、以降万葉集中に、「新しき年のはじめ」を同じくする歌が詠まれているかを論じた。橘諸兄政権下の『第二次歌?所』の存在を想定し、この歌謡がそこで生み出された可能性を探った。次に当該歌謡に見られる「新し」が、「聖武朝・久邇京・橘諸兄政権」を賞揚することばであることを導いた。最後に、万葉歌における「新しき年のはじめ」を持つ歌の詠み手の調査から、この詞章を用いるのは、当該歌謡の実演を目の当たりにしているか、知りうるものであったことを指摘した。

第二節「田辺福麻呂の『久邇京讃歌』と『六合』」は「久邇京讃歌」について、他の離宮讃歌や都城讃歌との比較を行い、より積極的に臣下のことばを聞き入れる主君の姿勢が表れていることを確認した。この表現と類似する内容の頻出から、『文選』「都賦」の摂取の影響を論じた。そのシンメトリックな調和的な対世界は、天地四方のみならず、四季までをも対応調和させる「六合」の理念の摂取がそこにある蓋然性が高いことを明らかにした。

第三節「和漢の双光―古代官僚田辺福麻呂と宮廷歌人田辺福麻呂―」 では、宮廷歌人の中で唯一示された天平二十年段階での福麻呂の職掌「造酒司令史」・本主橘諸兄・律令の規定の三者について詳細に考え、福麻呂の出仕の形態を推定した。そこから、大学寮での漢籍習得の可能性を指摘した。また大学寮で及第した官僚が、本章第一節で指摘した歌舞の収集機関「歌?所」の構成員でもあることを指摘した。つまり和漢の知は同じ人物に集積され、大学寮には漢籍資料が、歌?所には、先行する宮廷歌人の歌や他の万葉資料が収集されており、宮廷歌人田辺福麻呂という呼称は、大学寮で学んだ漢詩文の才である古代官僚福麻呂を、和歌の面から光を当てることによって浮かび上がる、一方の才を定義したものであったと結論づけた。