東アジア絵画における陶淵明像―韓国と日本の近世を中心に―

宣 承慧

本研究では、東アジア絵画の理想郷の原点を中国の詩人陶淵明(三七二~四二七)に求め、日本と韓国の絵画における、陶淵明の詩文と関連記録に由来する画題の受容と変容を考察する。研究の対象は、精神的な自由に満たされた自我の理想郷としての陶淵明図、儒仏道の区別を乗り越えた三教合一の理想郷としての虎渓三笑図、悠々自適な隠逸の理想郷としての帰去来図、社会の理想郷としての桃花源図である。本研究ではこうした中国絵画の陶淵明像が韓国と日本の近世絵画に受容され、変容される様相の比較研究を試みる。

 

第一章の「中国絵画における陶淵明像」では、理想郷への憧れを表わした典拠に基づく三つの主題、即ち自我の理想郷としての陶淵明図、隠逸の理想郷としての帰去来図、社会の理想郷としての桃花源図を考察する。

中国の陶淵明図は単なる詩人の肖像画ではなく、精神の自由を求める自我の理想郷として解釈できる。陶淵明図の系譜は、肖像画形式の陶淵明図、一代記形式の陶淵明図、故事形式の陶淵明図の三つの系統に分類される。肖像画形式の陶淵明図には、採菊東籬図、五柳先生図、撫松盤桓図がある。一代記形式の陶淵明図は陶淵明の一生を描いたものである。故事形式の陶淵明図には虎溪三笑図と白蓮社図がある。

中国の帰去来図は、陶淵明の「帰去来辞」と「帰園田居」を典拠として、個人と社会の間の葛藤から離れ、田園生活へ回帰する隠逸の理想郷である。帰去来図の系譜は「帰去来辞」の全ての場面を描写した叙述的形式と、一部分を選んだ選択的形式の二つの類型に分類される。

中国の桃花源図は、「桃花源記」を典拠とする。その社会の理想郷は、現実的な政治上の平和に、不死を夢見る欲望が混ざり合わさった現実と理想の二重性を持っている。桃花源図の系譜は叙述的形式、選択的形式、象徴的形式の三つの類型に分類される。

 

第二章の「韓国絵画における陶淵明像」では、儒学的な理想郷を基本に、陶淵明図を儒学者の象徴として、帰去来図を儒学者の帰郷と配流の在り方として、桃花源図を儒学者の理想郷として解釈した。高麗時代に朱子学が受容されると、陶淵明を権力者に対して妥協しない隠逸の宗として追従する儒学者が現れ、陶淵明関連の画題が鑑賞された。朝鮮前期には、国家統治理念としての朱子学が定着する中、両班官僚が忠節之士という儒学的な価値を表現する為の芸術的媒体として陶淵明像を流布した。朝鮮中期には、両班官僚らは亡国となった明に対しても壬辰倭乱(文禄・慶長の役)の折の恩義を感じ続け、明代様式を基本として桃花源図を変容した。朝鮮後期には平和な時代が続き庶民文化が築かれる中、陶淵明像が世俗化の方向に多様化された。

韓国の陶淵明図では、虎渓三笑図が高麗末期から朝鮮前期にかけて盛行を極めた。虎渓三笑図は、高麗末の李穡と元天錫の詩文から、十四世紀には韓国に受容されたことが確認できる。朝鮮前期には、安平大君が趙孟頫所蔵の李公麟筆虎渓三笑図を入手し、模本が制作されるほど重視された。しかし朝鮮中期以降、虎渓三笑図は、儒学的価値観が強固になるにつれて急速に衰退していった。韓国の採菊東籬図は、儒学的価値観を極めて如実に示すものであった。高麗末の申晏は、忠義の臣として高麗と朝鮮の二つの王朝に仕えないという精神を表わし、採菊東籬図を見て忠誠の念を固めたという。朝鮮前期の徐居正は、人物画帖の陶淵明図を鑑賞して、忠節の象徴である菊と、東晋を倒した劉裕の象徴である黄色い花の劉寄奴を対比させた。朝鮮中期の採菊東籬図は、明との義理を守り清と和解しないという大義名分を宣揚するために老論派によって用いられ、陶淵明の不仕二君の慷慨之士のイメージが強調された。宋時烈は、明末清初の画家の孟英光が金尚憲に贈った淵明採菊図に朱子学的価値を付与した。朝鮮後期には採菊東籬図に菊花以外の多くのモティーフを加える融合的な形式になり、忠節を強調するのではなく、世の中で隠逸生活を楽しむことを表すように世俗化された。

韓国の帰去来図は、朝鮮時代には政治的な配流が多く行われたため、儒学者の帰郷と配流の在り方として理解された。高麗時代には、帰去来図が受容され、ここでの帰郷は主に政治から身を遠ざけることとして受け入れられた。朝鮮前期には帰去来図が本格的に流布され、伝姜希顔筆〈山水図〉のように帰去来図が中国の明との外交に携わった朝廷の学者を中心に流行した。朝鮮中期の帰去来図は、「士林」と「山林」という地方で活躍した儒学者によって、理想的な帰郷と配流の在り方を示すものとして最も宣揚された。故人の生涯を記す「行状」には、故人が書帰去来辞や帰去来図を鑑賞したことがわざわざ書き記された。朝鮮後期の帰去来図は、選択的形式が多く制作される中で多様な解釈による変容が生じた。王室画院画家の金得臣は、両班官僚の呉光運が所蔵した明の文徴明の帰去来図を変容した。王室画院画家で風俗画にも優れた金弘道は、叙述的形式の帰去来図の〈農人告余以春及〉の図像を変容し、農村で過ごす平和な日々という象徴性を見出した。

韓国の桃花源図は、両班官僚の政治的な理想郷を象徴するものであった。高麗時代には武臣政権を秦の虐政に譬え、桃花源図を平和の地として受容することが行われた。この儒学的な価値観は、安平大君が現実を改革する理想を託した安堅筆〈夢遊桃源図〉を生み出す基礎となった。〈夢遊桃源図〉に対する朝廷の学者らの解釈は、儒学的な原則から安平大君が朝鮮第六代の国王の端宗を支えることを望む立場、首陽大君を支え現実の改革を図る立場、権力闘争から逃れることにより安平大君の長寿を祈る立場に分かれた。朝鮮中期の桃花源図は、明の没落にもかかわらず、明の画帖の模本や仇英本の桃源図を画帖に合わせて模写した選択的形式の桃花源図が制作された。朝鮮後期の桃花源図には、日常生活そのものが理想社会であるという世俗化の傾向が表れた。十九世紀における朝鮮の桃花源図に対する見方は、実学の歴史意識から理解しようとする解釈や、道教的原型を追求したりする慕華思想など多様な展開を見せた。

 

第三章の「日本絵画における陶淵明像」では、三教合一の理想が表された室町水墨画、典型によって理想郷が定型化された狩野派絵画、理想郷の受容層を商人や農民まで拡大した南画という三面から陶淵明像を分析する。陶淵明像は、室町時代に三教合一という普遍的主題を基本として受容されながら、安土桃山時代と江戸時代を経て、狩野派と南画の画家、そのパトロンの社会的な階層が追求した理想郷によって柔軟に変容された。この多様な階層は寛容性を持ち、他の理想郷に関与せず多層的な理想郷の共存を認めた。

室町水墨画の陶淵明像は、五山文学の隆盛と禅宗の儒仏道合一の傾向の中で、虎渓三笑図が最も豊富に変容された。文清は白描画風の虎渓三笑図を受容した。室町水墨画の採菊東籬図は、伝周文筆〈陶淵明賞菊図〉のように儒学的な価値観を見せるものもあった。 室町水墨画の帰去来図は、禅僧の漢詩から、李公麟本の叙述的な図像が受容されたことが確認できる。室町水墨画の桃花源図には岳翁筆〈武陵桃源図〉があるが、まだ本格的な受容と変容は現れなかった。

狩野派の陶淵明像は、模本と縮図によって典型化された。狩野派の虎渓三笑図は、室町時代の図像を踏まえ、狩野派の典型を作り上げたものである。これは色彩や文様を施して装飾性を強調した、新しい典型であった。さらにこうした狩野派の虎渓三笑図は、曾我蕭白によって奇想的に転換された。狩野派の陶淵明図は、一代記形式の陶淵明図、採菊東籬図、四愛図に分類できた。一代記形式の陶淵明図は、〈陶淵明像伝〉を典型として使った。採菊東籬図は、〈陶淵明像伝〉と『芥子園画伝』の図像を典型として用いた。狩野派は、採菊東籬図を文人の花の趣味を表わす四愛図で積極的に活用した。四愛図の流行は、中国と韓国ではあまり見られない日本の特徴であった。狩野派の帰去来図は、叙述的形式の帰去来図と蘇軾の詩文を選択し、典型を作り上げたものである。狩野派の桃花源図があまり多くないのは、壮大な理想郷を典型で示すことが難しかったからである。

南画においては、桃花源図の変容によって多様な理想郷が表された。池大雅は明末清初の画冊からインスピレーションをうけ、桃花源図を制作した。与謝蕪村は豊かで詩的な想像力を発揮して、独創的な抒情性を加味し、中国と韓国では見られない桃花源図を完成させた。呉春は桃源の老人に焦点を合わせることにより、桃花源図を長寿の楽園として解釈した。谷文晁と関東南画家は、最も中国絵画に近い青緑彩色で仙境としての桃花源図を描き出した。富岡鉄斎は近代化の中で復古への憧れともに仙境としての桃花源図を見直した。

 

本研究の意義は、韓国と日本の絵画における陶淵明像が、中国文化に対する憧憬の中で積極的に受容されながらも、韓国と日本の政治的、または文化的環境に沿って、その主題と表現を変容させていった過程を追跡したことにある。韓国では、陶淵明像は儒学的な価値観から解釈される傾向が強かった。日本では、各々の画家のパトロンの社会的な階層が追求した理想郷によって陶淵明像を柔軟に変容させた。本研究は、このように韓国と日本の外来文化を受容する方式の例を提示することで、更に中国・韓国・日本の文化の共通点と差異に対する事例研究を構築する点に、その価値があると言えるだろう。

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