身体的諸機能を開発する装置としての詩―ポール・ヴァレリーにおける作品の位置づけと身体観

伊藤 亜紗

◎本論文の目的

 本論文の目的は、ヴァレリーは「作品」を通して何をしようとしたのかを明らかにすることである。これまでのヴァレリー研究は、詩作品を、純粋に文学的な内容分析の対象として扱うか、あるいは創造ないしエクリチュールの産物として制作学的な分析の対象として扱うか、おもにそのいずれかであった。とくに後者に関しては、『カイエ』の存在が、「未完成の作家」としてのヴァレリー、つまり作品そのものよりも創造のプロセスを重視する作家としてのヴァレリー像を助長したこととも関係している。とはいえ、ヴァレリーはかならずしも「創造にとじこもる」タイプの作家であったわけではない。ヴァレリーは創造の先にある作品の流通やその社会的なあり方についても十分自覚的であった。ヴァレリーが作品そのものを重視しないのは、創造のプロセスを重視したからというより、むしろその「装置」としての側面、すなわちそれがいかに読者に働きかけ、装置の制作者である詩人の意図を達成するか、という点に関心があったからに他ならない。本論では、詩作品を、創造やエクリチュールの産物としてとらえるのではなく、むしろヴァレリーにならって読者に作用する「装置」としてとらえ、ヴァレリーが、作品を通して何をしようとしたのか、どのような作用を読者におよぼそうとしたのか、この点を明らかにするものである。

 

◎方法

 上の問いに答えるために、本論は、ヴァレリーの「芸術論」と「身体論」を接続させ、それらの関係を明らかにする、という方法をとる。結論を先取りしていえば、ヴァレリーにとって「装置」としての詩作品が読者におよぼすべき作用は、「身体の諸機能を開発すること」である。いかにして、詩は人間の諸機能を開発することが可能なのか。これを明らかにするためには、一方でヴァレリーの芸術論、具体的には作品と受容者(読者)および作品の関係を明らかにしつつ、他方で詩によってその機能を開発することが可能であるような身体とはどのようなものなのか、その身体論を明らかにすることが必要である。本論の第1部は芸術論を分析し、第3部は身体論を分析する。第2部は時間論に充てられるが、これは詩がまさに時間的に身体に働きかけるがゆえに、また身体のあり方が時間のあり方と密接に関わるものであるために、芸術と身体を接続する際の橋渡しとして時間概念の分析が要請されるからである。

 

◎内容

 以下、第1部から第3部までの要点をかいつまんで説明する。

 第1部では、まず第1章で「装置」としての作品の位置づけを明らかにしたうえで、後半の第2章では作品を装置化するうえでの「仕掛け」を具体的に分析する。

 ヴァレリーは芸術作品の流通をめぐって、あえて伝統的な「作者」や「受容者」といった言葉を避けつつ、「生産者」—「作品」—「消費者」という3項図式を提示する。なぜ芸術の領域に市場経済の用語を持ち込まねばならないのか。それは、作品の流通においても、商品一般の流通においてと同じように、「生産者と消費者は本質的に切り離された二つの体系」だからである。ヴァレリーにとって作品は、生産者=作者から消費者=受容者への「伝達」を成立させるようなコミュニケーションの媒介項ではありえない。作品とはむしろ、作者と受容者を媒介することによって結びつきを間接化するものである。読者=消費者に求められるのは、「伝達」の芸術が前提とするような「信じやすさ」ではない。伝達の構図を誘発する「描写」は避けねばならない。ヴァレリーが読者=消費者に要求するのは、むしろ積極的な活動、行為である。ヴァレリーにとって散文は「身体の破棄」を要求するが、詩は、「私たちの運動機能のより豊かな領域において展開され、それは私たちに完全な行動により近い参加を要求する」のである。もっとも、行為といってもそれは作品に誘発されたものであり、完全に能動的なものではない。しかしこのような特殊な次元にある行為を通じて、ヴァレリーにとっての詩の目的、すなわち「身体の各能力の諸価値を開拓し、組織し、組み立てること」は達成されるのである。作品とは、そのような開拓や組織を誘発するための「装置」にほかならない。この装置は、語りのモード、特定の代名詞の使用、修辞、といったさまざまなレベルで仕掛けをもつ。

 

 第2部では、まず、それじたいは認識することのできない時間が構造化されたものとしての「現在」の位置づけを確認する。そのうえで、主体と世界のずれが意味を持つ場合としての「持続」と、逆に「一致」が意味を持つ場合としての「リズム」を分析する。持続とリズムは対極的な時間の二つのあり方だが、詩はその両方をあわせ持つのであり、ここに「拘束しつつ行為させる」という装置としての秘密がある。

 ヴァレリーの時間論にとって重要な意味を持つのは「予期」である。予期は、現在を中心とし過去と未来の両方向へとのびるベクトルを作り出す契機である。ただし、それはたんに「起こりそうなことを予測する」ことではない。起こりそうな出来事を予測することは必ず、その出来事の生起に対して身構えること、反応を準備することを伴っており、この身体的な構えが、私たちの世界との出会い方を、つまり感性のあり方を左右するのである。もっとも、こうした予期の存在は私たちにとって常に意識されているわけではない。それが意識されるのは、むしろ「不意打ち」のような、予期がはずれる場合である。いずれにせよ、私たちが覚醒しているかぎり確かに存在し、しかも刻一刻と変化するこの「予期」が、主体と世界の出会い方を決定している。「現在」とは、この出会い方に他ならない。

 主体と世界のずれが意味をもつ場合は「持続」であり、その典型例は、私たちが「注意」の状態にあるときである。「注意」においてずれが意味を持つのは、私たちが注意の対象と無関係だからではなく、むしろ分離不可能な体制がととのえられているからである。両者が分離できないために、対象についての認識の変化が、ただちに私たちの側の行為に向けた構えの修正と結びつくのである。注意がつづくあいだ、身体的な修正はたえず起こっている。ヴァレリーにとって、注意とは身体的な要素の「固定」ではない。それは限定された要素のあいだにおける結びつきの変化、すなわち「変化の可逆性」なのである。持続とは、たえずずれを発見していくことにほかならない。

 一方、主体と世界の一致が意味を持つ場合は「リズム」である。リズムとは、「変化を含んだ規則」であるが、ここで主体の行為は、「等しいあいだをおいて間隙を産出する」という規則に関わるものであるために、法則化している。私たちがある列を聞きながら強拍のタイミングを正しく予期し、間隙を挿入することができたとき、その列はリズムがあると感じられるのである。それは、あたかも私たち自身がリズムの列そのものを生み出しているかのような、知覚と産出の一致である。このように行為のシステムの確立をうながすがゆえに、リズムは、私たちにとって強制力として働く。実際の音が消えたあとも、リズムの「方向」が私たちに残りつづけるゆえんである。これは確かに強制力であるが、だからこそ労働や生を容易くする要因ともなりうる。

 

第3部では、ヴァレリーの身体観を、生理学という視点から整理する。ヴァレリーにとって詩とは、ひとつの生理学の実践なのである。

 ヴァレリーは詩が読者に与えるべき体験について、「補色の知覚」という目の性質に由来する現象を事例にしばしば語った。これは、たとえば青い色面をしばらく見つめていると、やがて青の補色である黄色が見え始め、黄色が減衰するとまた青が復活し、と対をなす補色が交互にあらわれる現象である。この黄色は、現実世界に対象を持たない感覚、つまり「主観的」な感覚である。「主観的」な感覚は、飛蚊症や空耳もその一種として語られることが示すように、病理的な傾向をもつ感覚である。にもかかわらずヴァレリーがそれに注目するのは、それが、感覚器官の産出力という、私たちの日常的で散文的な生の流れにおいては抑圧されている機能——そこでは感覚器官はもっぱら受動的な器官とされている——の知覚そのものに他ならないからである。日常的で散文的な生、つまり「うまくいっている状態」においては、予期によって身体の諸機能は相互に連動させられるが、この連動は個々の器官の機能の部分的な抑圧のうえに成立しているのである。しかし私たちが失敗や抵抗にあい、身体が拘束されるようなとき、たしかになめらかな連動は破綻してしまうが、そうした失調においてこそ、個々の機能の可能性は十全に解放される。それは目的から離れた機能の暴走ではあるが、私たち自身さえ知らなかった私たちの隠れた可能性との出会いである。装置としての詩が読者の身体を拘束することによって関わるのは、まさにこの隠された機能との出会いである。批判的な距離をとってみるなら、「機能」という言葉が、私たちの働きのこれ以上分解不可能な最小単位を指し示すと同時に、この「私たちが確かに持っていながら発見していない可能性」を指し示すためにこそ用いられる一種のレトリックであることに気づくだろう。隠された機能の探求という点において、詩と生理学は軌を一にするのである。

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