日本古代における田制と財政の研究

小倉 真紀子

 本稿では、日本古代律令制下に実施された田制を、従来のように全田地国有化の実現及び私的土地所有の制約という点を強調して見るのではなく、当時の中央政権が国家の統治を維持するために採用した制度として理解すべきと捉える視点から、国家財政に資した公田に焦点を当てて田制の特質を考察すると共に、公田の経営方法、並びに公田からの収穫物を基に形成された官司運営の財源である公廨の実態を検証した。

 第一章「公田に見る律令田制の特質」では、大宝・養老両田令で公田に関するどのような規定が設けられたのか、という問題の検証を通じて、律令田制における公田の位置付けを明らかにすると共に、そこから指摘し得る律令田制の特徴を論じた。第二章「賃租制・地子制の構造とその展開」では、第一章の所論を踏まえ、田令において公田の経営方法として採用された賃租の仕組みを解明した。第三章「律令制下の官司財政と公廨」では、稲を基礎とする経済構造を前提として財政制度を形成していった当時の国家において、その統治機構である官司はどのように運営されていたのか、という点について考察した。

 本稿で明らかにした事柄は、以下のとおりである。

 ①公田並びにその経営方法として採用された賃租に関する大宝田令の条文は、次のように復元される。唐の田令に対応する条文がない公田条のような規定も存在するが、それも含めて、条文は概ね唐制を参考にして案出されたものである。

  (公田条)凡諸国公田価。皆国司販売送太政官。供公廨料。以充雑用

  (養老田令宅地条相当条文)凡売買地。皆経所部官司。申牒。然後聴之。

  (養老田令賃租条相当条文)凡売買田者。各限一年

  (荒廃条)凡公私田。荒廃三年以上。有能借佃者。経官司。判借之。雖隔越亦聴。私田三年還主。公田六年還官。其私田雖廃三年。主欲自佃先尽其主。限満之日。所借人口分未足者。公田即聴口分。私田不合。其官人於所部界内。有荒地。願佃者。任聴営種。替解日還官収授。

 ②田令公田条の「随郷土估価賃租」、宅地条の「宅地」、賃租条の「賃租」と園の賃租・売買関係規定は、養老令において新たに盛り込まれた文言である。これらは、大宝令施行後に、制度の運用上詳細な規定が望まれる部分について付加ないし修正された。

 ③養老田令公田条の「郷土估価」とは、公田から徴収した地子稲を太政官に送るに当たって、軽貨に換えるために行われる地子交易で用いられる取引価格のことであり、具体的には各国で設定されていた估価である。しかしながら、太政官の収入となる地子物の量が価格の高下によって左右されるために、延喜14年(914)に至って主要な物品については太政官符で交易価格が固定的に定められた。

 ④日本田令に規定された公田は、班田後の剰余田である乗田のみを指した田地である。田令に定められた地目の中で、公田は口分田との互換性を有する唯一の田地であり、後に実社会で口分田が公田と称されるようになった理由も、口分田が本質的には公田に包摂されるものであった点に求められる。口分田は、律令では位田・職田等と同様に私田として扱われたが、他の地目への転用が想定されていなかった位田・職田等に比して、口分田の田主が持つ占有権は相対的に小さかったと見ることができる。

 ⑤律令制施行以前に存在した屯倉・田荘の田地は、それらを所持していた諸氏族が新しい官制機構に組み込まれるのにしたがって、官位に付随して支給される品田・位田や職田として引き続き彼等の占有に帰した。特に、郡司に任用された国造の田荘は、旧来の地縁を保つべく郡司職田として彼等に班給され、中央政権は彼等が有する共同体統制力を利用して地方支配の実現・継続を図った。日本の律令田制は、表面的には唐の田制を多分に模しつつも、内実は大化前代の政治・社会体制を発展的に継承した中央政権の統治様式に適合するよう作成されたものであった。

 ⑥唐の法制史料では、田地の租価そのものは「価」「租価」等と称され、「地子」はその代替物も含む官人・官司の所得を指す語として用いられた。このような「地子」「価」の用法は、日本で律令を制定する際に踏襲され、公田を管掌する太政官の収入が「地子」、国司が公田から収取する賃租価が「価」と捉えられた。太政官の収入となる公田地子は、公田の賃租価に基づく所得ではあるが、不足分を補填する代替物も含むため、国家財政上では賃租価それ自体からは切り離された収入項目として認識された。その一方で、賃租経営される田地において収穫後に支払われる租価が一般に「地子」と呼ばれるようになった。こちらの語義は、公田地子が租価の徴収後である秋以降に太政官へ送進されることから転じて生まれた。

 ⑦輸租田が賃租経営される場合、賃方式では、買田者は標準穫稲量の5分の1に相当する対価を耕作前に支払った。このうち段別1斗5升の穀(穎稲では約2束)が田租として国府に納入され、残りが価直として田主の収入になった。収穫後に対価を支払う租方式では、買田者は賃方式で支払う対価(標準穫稲量の5分の1)に田租を加えた稲を負担し、田租は国府に納入され、残りが田主の収入になった。田主の収入となる価直には、賃方式では田租として割かれる分の稲が含まれることになり、それが利息と認識された。租方式では、不作の場合でも賃田の価直(標準穫稲量の5分の1から田租分を差し引いた、田主の純所得となる額)に相当する稲は備償の対象とされ買田者に支払い義務が生じたため、買田者にとっては価直に租分(利息)が加わる租方式よりも賃方式の方が有利であった。したがって、租方式は、耕作前に賃価を支払えない買田者に対して、支払い時期を収穫後に延ばし便宜を図った経営方法であったといえる。

 ⑧輸地子田が賃方式で経営される場合、買田者は標準穫稲量の5分の1に相当する対価を耕作前に支払った。この対価は田租が差し引かれることなく全て価直として扱われ、地子として田地管掌者(公田では太政官)の収入になった。不輸租であるため、租方式でも買田者は賃方式と同じ対価のみを支払い、それが地子となった。賃租は、直営の佃方式に比べて田主の収益が少ない経営法であったが、耕作者の負担が軽かった点が全国的な規模で不特定多数存在する公田には適していた。だが、国司・郡司を介する間接的な経営に依拠した公田では、次第に地子の太政官への送進が滞るようになった。

 ⑨公田経営と地子調達が円滑に機能するには、班田収授制の確立が必要であり、公田地子を太政官に送りその公廨料に充てる、という養老田令公田条に則した制度は、これとほぼ同文の天平8年(736)太政官奏によって初めて本格的に実施された。この数年後である天平15年(743)には、新規開墾田の永続的な私有を認めた墾田永年私財法が施行され、また、同16年(744)には在京諸司の公廨銭、同17年(745)には諸国の公廨稲が設置された。墾田に関する処置、及び官司における公廨の設置・運用は、唐では制度化されていたが、日本では律令の制定・施行と同時には採用されなかった。令の制定時には、まだこれらの制度が稼動する社会的な素地がなかったためである。律令田制が日本の社会に合った形で定着し、それと密接に関わる財政運用の方式が整えられていったのが天平年間であった。

 従来、養老田令公田条の「郷土估価」は、各地域でその土地の慣行に基づき設定されている賃租価と考えられてきた。このような見解に従うと、公田の経営は、田令制定の当初、中央政権が主導する方式によってではなく、各地域の集落共同体における慣行を尊重した方式に依拠するよう想定されていた、ということになる。だが、「郷土估価」とは、中央から派遣される国司が時価に基づいて設定・管理した物品の取引価格であり、また、公田の賃租価は、一律に穫稲量の5分の1と定められた。つまり、田令に規定された公田の経営方法は、中央政権によって規格化されたものだったといえる。

 各地域に存続した集落共同体の長たる郡司には、旧来の地縁を保たせるべく、彼等が経済的拠点として活用していた耕地を職田として与え、そこでは郡司の政治的影響力が及ぶ地域領民を動員した直営方式の経営がなされた。このような為政者の配慮は、中央政権の傘下に入った彼等に対する恩恵のようにも映るが、郡司は、中央政権が組織する地方行政機構の官として編成されているとはいえ、律令の制定・施行後に制度化された公廨の配分には全く与っていない、という点には注意を要する。公廨の配分により経済的な利益を被ったのは、いずれの官司においても史生以上の官人であり、地方行政の場においては、土着の住人ではなく中央から派遣される人々であった。

 これらの事柄を踏まえると、田租の賦課、田地の収公、公田の経営、特定の支配者層に対する品位田・職田の支給、等々の規定を打ち立てた田令に基づく田制は、律令の導入によって国家統治の推進を図った中央の政権掌握者(天皇及び天皇を頂点として組織される支配階層)が彼等の経済的な基盤を保持し、また、国家財政に資する産業(稲作)の根幹を押さえようとした耕地管理制度であったと見ることができる。そして、そのような志向は、財政の運用においても多分に反映されていたといえる。

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