イスラム勢力と対峙していた時期の、中世のイベリア半島諸国における国制、特に統治構造については、我が国にあってもまた欧米にあっても、積極的な分析対象となってこなかった。この事実は一つには、王権の下でイスラム勢力に対する戦闘や征服が断続的に行われていたという状況から、中世のこの地域に関しては、単純に王権が征服王権として他の西欧諸国に比べて強力な権力を保持したという見解が根強く、研究者たちに、中世のイベリア半島諸国の統治構造に関してそれ以上の分析を行おうという意志が生じにくかったためであると考えられる。また一つには、キリスト教スペインにおいて、統一的な制度の形成、発展が、レコンキスタがほぼ終了した中世後期まで進展しなかったためであると考えられる。そして何よりも、スペインが近世以降、西欧内部にあって後進的国家であったため、近代国家に至る発展のモデルケースと見なされず、スペインの国制に注意を払うという意識が特に外国人研究者において希薄であったためであると考えられる。

この結果、中世のイベリア半島について、外国人研究者の関心の中心は統治構造ではなく社会や文化などに向かい、中世のイベリア半島諸国における統治構造の研究は、長い間、専らスペイン人研究者の手に委ねられてきた。しかし、実際にはイベリア半島は地中海世界で唯一、中世を通じて領域的に統一された国家を形成しつつ近世に至った地域であり、この地域の諸国の統治構造の解明は、地中海世界の政治的特徴を把握する上で極めて重要である。本論文では、中世イベリア半島におけるカスティーリャやポルトガルと並ぶ国家であり、15世紀末にはカスティーリャと同君連合を形成してスペイン王国の母体となった、アラゴン連合王国における統治構造の形成過程とその特色を明らかにすることを図った。

この国家については、地中海貿易や異文化交流といった経済的側面、また社会的・文化的側面が重視される傾向が強く、その統治構造に関する研究は少ない。しかし、実際にはアラゴン連合王国は、イベリア半島東部、またシチリア島、サルデーニャ島やナポリ王国などイタリア南部を支配し、時にラングドックやプロヴァンスなどの南フランス、さらにギリシアの一部や北アフリカも勢力下に置いて、中世盛期以降の西地中海で政治的にも支配的な影響力を行使した国家である。同王国の統治構造を解明することは、イベリア半島諸国の統治構造についての理解を深める上で、また中世の地中海世界全体の政治面での特徴に対する見通しを得る上でも、極めて重要である。

本論文では、アラゴン連合王国を形成した諸地域の中で、特に同王国の中核地域であったカタルーニャ、当時のバルセロナ伯領に焦点を置き、中世盛期までにそこで、イスラム勢力に対する征服活動、またその後の征服地における植民の中で、どのようなプロセスで、どのような性質を有する統治構造が形成されたのかを解明し、あわせてその統治構造の下で、社会がどのような発展過程や特徴を有するに至ったのかを合わせて解明することを図った。その際、同じ中世イベリア半島の国家であり、アラゴン連合王国に比べ、より中央集権的な国家を形成して近世に至ったとされる、カスティーリャとの比較を念頭に置いた。

バルセロナ伯領内でイスラム勢力に対する征服活動、またそれに続く植民が遂行されたのは主として12世紀であり、このため、本論文では主として12世紀のバルセロナ伯領のフロンテーラ(辺境)を対象として、上記の問題についての分析を行った。

 

近年までの研究において、カスティーリャ王国などに比べ貴族権力が強く、権力の拡散傾向が見られたバルセロナ伯領では、イスラム勢力からの征服地にあっても、しばしば騎士修道会などの教会領主が伯に対して自立的な所領を形成し、伯が建設した自治的な都市をも圧倒して割拠し、入植者に対しても強固な領主的支配を行ったと考えられていた。

しかしながら、バルセロナ伯の文書や、司教座や騎士修道会などのフロンテーラの諸教会の文書、またローマ教皇の文書や入植許可状群など、同時代史料に基づき、バルセロナ伯領における征服や植民の過程を分析した結果、この見解は必ずしも正しくないことが明らかとなった。歴代のバルセロナ伯は、教会領主の台頭をただ傍観し、放置していたのではなく、フロンテーラの防衛や植民上の必要から、むしろ意図的に教会領主に所領を与え、権限を規制しつつ当該地域の差配を委ね、彼らを統治において利用しようと図っていたのである。結果として、13世紀初頭には伯権力が意図した以上に教会領主の権力が強化されるに至ったが、これは南フランスでの戦争などに由来する伯の財政難や外交上の問題、さらにローマ教会の介入といった事象の影響によるものであった。

また、教会領主は入植者に対し、必ずしも強権的な支配を行っていたわけではなかった。同時代文書はしばしば入植活動の難航を示しており、教会領主との土地保有契約における入植者の経済的負担は、その状況を反映した限定的なものであった。入植者の中には、低い経済的負担の中で、土地の集積などを通じて社会的上昇を果たす者も存在していた。教会領主は、土地を手放す入植者の扶養や入植活動の指揮、入植者の経済活動への投資などの活動を担っており、むしろ入植者と協調してフロンテーラの社会の発展に努めていた。

このような社会の発展には、カスティーリャの場合と異なり、イスラム教徒住民もその構成要素として関わっていた。従来の研究では、キリスト教徒による征服後、速やかに排斥されたと考えられていたイスラム教徒も、実際には排斥されたのは征服直後の時期、また都市の中心部に限られ、征服後数十年を経ると、キリスト教社会の中で、農村部の労働力として重要な役割を果たすようになっていったことが明らかとなった。

 

これらのフロンテーラにおける諸事象からは、以下のような事柄が、バルセロナ伯領、ひいてはアラゴン連合王国が有した、中世盛期以降の国制の特徴として認識される。

第一に、バルセロナ伯領ではイスラム勢力の強さによる征服活動の遅れ、根強いローマ文化の伝統の影響など地中海地域特有の要素のため、俗人貴族が王権に対して自立的な存在として成長し、彼らを通じた統治が困難となっていたが、さらにフロンテーラでの教会領主を通じた統治の試みも、教会領主が伯に対する自立的傾向を強め、不調に終わった。このため、バルセロナ伯は13世紀頃から、成長する都市共同体により依拠した形での統治を図るようになり、結果として、中世後期には俗人貴族・教会・都市のそれぞれが強い政治的影響力を持つようになった。すなわち、バルセロナ伯領では、君主の指導下での征服や植民を通じて分権的傾向が加速されるという、逆説的な状況が生じたのである。

第二に、バルセロナ伯領は地政学的位置から、ローマ教会の介入を強く受け、南仏の政治的問題に巻き込まれ、かつイベリア半島ではイスラム勢力やカスティーリャと抗争するなど、頻繁に外交的問題を抱える傾向を有していた。それにより君主権力は内政に専念できず、かつ財政に問題を抱えがちとなり、結果として中間権力に対する統制力も低下した。すなわち、この地域では、君主権力が一見華やかな対外進出策を取ることも多かったが、それはしばしば国際情勢に巻き込まれてのものであり、必ずしも明確な政治的方針や国内の安定・充実を背景としたものではなかった。実際にはバルセロナ伯(アラゴン連合王国国王)は、国内での限定された支配力の中で工夫や無理を重ねて対外進出を行っており、国内での支配力はかえって対外進出の陰で低下していく場合も存在していたのである。

第三に、バルセロナ伯領では、教会領主と入植者、キリスト教徒とイスラム教徒といった本来敵対的な勢力の間でも、王権と領主、入植者など複数の勢力間のバランス関係や、また経済的要因により、激しい闘争を経ずに次第に協力と並存が可能となっていくことが多かった。カタルーニャの諸都市は、地中海交易が活発化する13世紀頃から、余り激しい政治的闘争を経ずに自治的な権限を獲得、強化していくが、その背景にもこのような地域的特徴が存在したと考えられる。

中世後期には、この地域でも他の西欧の多くの地域と同様、俗人貴族の没落や聖職者の政治的発言力の低下が見られるが、それらの事象はフランスやイングランドにおけるように王権の強化につながることがなく、むしろ都市を政治的に強化し、アラゴン連合王国、特にカタルーニャは、あたかも諸都市の連合体のような様相を呈するに至っている。このようにアラゴン連合王国で中央集権化が進展しなかった背景としては、地中海貿易による都市の繁栄などの要素と共に、上記のような、征服活動や植民が展開された時期に、集権化の中核となるべき君主権力の強化に失敗したことが指摘できる。

本論文を通じて認識されたこれらの特徴は、アラゴン連合王国にとどまらず、地中海世界全体の政治的特徴や社会発展、異文化並存を考える上で、重要な示唆を与えるものとなると考えられる。