幕末・明治期の漢文学の研究

合山 林太郎

本研究は、幕末期から明治三十年代までの漢文学の沿革・動向を明らかにし、それが、近世以降の漢文学史や幕末・明治の文学史の中で、どう位置づけられるのかについて考察したものである。

幕末・明治期には、多数の職業的漢詩人が活躍し、漢詩は、主要な詩歌の一つとして親しまれた。こうした漢詩の世界は、時代の流れとは無関係な文雅の世界として存在したのではない。漢詩壇は、清代の詩の積極的摂取などによって、江戸後期のそれとは異なる詩風を切り拓いた。漢詩という形式についても、西洋からの知識の流入や、明治期の文化・社会構造の変化の中で、議論が起こり、変革が試みられている。本論では、多岐にわたる漢詩文の動きの中でも、こうした当代と密接な関わりを持つものに焦点を当てて考察した。

第一部では、明治期の東京詩壇の中心にいた、森春濤とその子槐南、及びその一派について、詩の表現の特質やその詩歌史の中での位置づけ、中国詩の受容の具体相を明らかにした。

第一章では、春濤・槐南が、大沼枕山とその一派の詠物詩に言及していること、とくに槐南が、枕山一派の詠物への過度の関心を批判していることを指摘し、進取と反俗といった、現実社会への姿勢の相違という点で言及されることの多い両派の懸隔は、詩をめぐる感性の違いとしても理解できることを述べた。

第二章では、春濤の遊仙詩の制作および神仙詩関係の表現の多用について論じた。春濤が、知識を多く要する神仙世界の表象を、積極的に自身の詩に取り入れたことは、彼が表現に腐心する型の詩人であったことを物語っている。同じ幕末期の詩人河野鉄兜や菊池渓琴も、時事に触れる、あるいは、亡児を悼むなどの内容を持つ、変化に富んだ遊仙詩を作っている。春濤の詩風形成には、彼らとのつながりも無視できないであろう。

第三章では、春濤一派が盛んに制作した艶体詩について、佳人薄命の表象を用いていること、「情禅」や「美人禅」など、仏教的な言葉によって女性や男女関係を表していることなどの特徴を確認した。また、こうした艶体詩の表象が、明治十年代の青年層に好まれただけではなく、女性を神秘的、幻想的に描くという点で、後代の明治文学にも影響を与えていることを指摘した。

第四章では、森槐南と国分青厓という明治十年代に台頭した新世代の漢詩人について、擬古的な表現や悲憤慷慨調を重視するなど、共通する要素が見いだし得ることを確認した。彼らはともに江戸後期の詩風に反発している。前代とは異なる詩の方向性を明瞭に打ち出したという点で、彼らの活動は、他の詩歌における革新の動きと共通性を持っている。ただ、槐南、青厓の新詩風の追求は、漢詩の伝統の枠内にとどまるものであり、明治の新たな言語環境に対応したものではなく、同じ明治中期に起こった俳句や和歌の革新とは同質とは言えない。

第五章では、明治十年代における槐南の中国詩の学習の様相を、槐南蔵書への自筆書入れなど具体的な資料の分析を通して、再現した。槐南はこの時期、清初の詩人の詩集を多く閲読している。その関心は、明末史を題材とした作品や、詩における諷刺の機能に注がれており、艶体詩の制作に没頭していた少年期と比較すると、政治性、社会性が増したと言い得る。ただ、彼は同時に、詩人は表現の巧拙によって評価されるべきであるとも考えており、倫理性の点からのみ批評されることに反対している。

なお、槐南は、清・王漁洋の『漁洋山人精華録訓纂』への書入れにおいて、漁洋の詩中に先行作品との詩句の類似を複数見つけ、漁洋に踏襲癖があると難じている。父春濤が信奉していた漁洋に批判意識を持つようになったことは、槐南の詩学の水準の向上を物語っている。

第二部では、漢詩壇から離れ、より広い範囲において、すなわち、当時、漢詩漢文の主要な愛好者であった儒学者や学生なども対象として、漢文学と時代との関わりを考察した。

第一章では、幕末期に制作された「論」の形式による漢文の歴史人物批評、すなわち史論に表れた言説の特徴を明らかにした。この時期の史論には、義の重視など、儒学的価値観により歴史人物を批評するものが多く見られる一方で、斎藤竹堂の作品のように、歴史を題材に才略の必要性を説くものも存在する。とくに、大槻磐渓をはじめ、多くの儒学徒によって、大事に際して性急に命を捨てず、慎重であることの重要性が、楠木正成や正行への批判という形で語られており、この時期の漢文が、合理性や戦略性を重視する思潮を醸成していたことが判るのである。

第二章では、明治初期の代表的な文人結社旧雨社について、阪谷朗廬の「旧雨社記」を手がかりに、社での風流文事が、官僚としての世俗的営為と近接するものであったこと、また、漢学の伝統の固守だけではなく、新来の西洋の知識への関心といった性質も社の中に存在したことを指摘した。明治初年の多様な価値観の葛藤を表し得る柔軟性を、朗廬の漢文は持っていたと言える。

第三章では、若年期における森鷗外の、近世日本人の漢詩文集への書入れから、明治十年代における青年層の近世漢文学の受容のあり方を探った。鷗外は、漢詩文作品から、学問の大切さや刻苦精励の重要性などの人生訓や教訓を読み取り、また、それを、歴史知識や語彙を獲得するための知識源と見なしており、当時の若者が学習の一部として漢詩文を読解する様が見て取れる。

第四章では、明治十年代から二十年代にかけて起こった、漢詩改良論と称される、漢詩を時代に対応した形に改めようという動きを追った。長詩形を豊富に持つことから、西洋の詩歌を翻訳・移入するための手段としても期待された漢詩は、しだいに、俗語化が容易ではない、日本に起源を持つ文芸ではなく国民文学とは言えない、などの批判を受けるようになり、変革の可能性のある詩歌形式とはみなされなくなる。ただ、こうした過程で行われた議論からは、訓読という漢詩の制作・享受の方法が持つ限界や、詩歌の近代化とナショナリズムの関連性など、多様な問題が浮かび上がる。

第五章では、明治二十年代以降、新聞雑誌に掲載された時事批評漢詩の消長を論じた。国分青厓「評林」、野口寧斎「韻語陽秋」に代表される時事批評漢詩は、政治的事件から社会風俗、当代の小説まで様々な明治の事象を扱っており、明治という時代と向きあう中で生まれた新たな漢詩のかたちであった。明治二十年代の新聞雑誌には、類似の時事批評漢詩欄が多く生まれ、高い人気を誇ったが、連載のための多作に起因する作品の質の低下や、明治期の複雑な事象を漢詩で詠うことの難しさなど、新たな問題を抱えることとなる。

第六章では、『しがらみ草紙』に掲載された「詩月旦」という小説批評漢詩欄の詳細を論じ、森鷗外周辺にまで時事批評漢詩の流行が波及していたことを指摘した。

第三部では、明治中期の漢詩人野口寧斎の漢詩、時事批評漢詩、小説批評、狂詩にわたる多様な文芸活動と、寧斎を起点に広がるネットワークを明らかにした。

第一章では、寧斎の前半生について、漢詩人としての足跡と、小説批評家としての活動という二方面から論じた。

漢詩人としての寧斎は、明治初期の文人官僚であった父松陽が森春濤の詩会の主要人物であったことが大きく影響している。父と春濤との交流により、寧斎は槐南に指導を受けるようになり、明治中期以降の詩壇の中心人物へと成長する。寧斎の詩には、明治期の英雄的人物を顕彰する叙事詩など、社会性、倫理性を色濃く帯びたものが多い。

小説批評家としての寧斎は、巌谷小波とのつながりによって生まれている。小波が寧斎を硯友社同人に引き合わせ、批評家として文壇に登場する契機を作った。寧斎は、『小説神髄』の主張を強く意識し、芸術として小説を考えることの重要性をしばしば説いている。しかし、その芸術小説の実質的な理解は、小説の効用として諷刺や勧善懲悪などを積極的に認める、倫理色の強いものであった。寧斎の『舞姫』評には、こうした寧斎の小説観が投影されており、草創期の近代小説理解のあり方を示すという意味で、一定の評価がなされるべきである。

第二章では、寧斎の後半生について詳述した。寧斎は、日清・日露の両戦争において、国威発揚のための漢詩を制作し、乃木希典をはじめ、軍人の間で支持を得た。また、巌谷小波、岸上質軒らと時事批評漢詩や狂詩を媒介としたネットワークを築いた。社会において積極的に自身の貢献できる場所を見つけようとする漢詩人の姿を、寧斎に見ることができる。

 

幕末・明治期の漢文学は、様々な次元で同じ時期の他ジャンルの文芸に影響を与えている。また、漢詩人を起点に、小説家や出版関係者、軍人をも含んだ交友関係が生まれている。漢文学は、幕末・明治期の文学の動向とそれが持つ多様な問題を鮮明に映し出す存在として評価し得るのである。

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