本稿は、大枠においてL・ウィトゲンシュタインの議論を導きとしながら、「真理(truth)」という概念を構成する諸条件を検討することを通じて、「人間的自然(human nature)」とは何に存するのかについて、基本的な展望を開くことを目指すものである。

 

 第一章では、感覚や感情などの心的状態の特徴を分析するウィトゲンシュタインの議論と、その後のN・マルコムやD・デイヴィドソンらによる議論を参照することで、人間とその他の動物とを画する上で、真理と、それと表裏一体の概念である「信念(belief)」という概念がポイントとなることを明らかにする。

命題によって表現される内容を持つあらゆる心的状態(命題的態度)の中で、信念(「…と信じている」という心的状態)は最も基本的なものだと言える。そして、信念を持つことは、「信じていること」と「事実そうであること」との対比を理解していることを前提とする。この章では、人間以外の動物に対して信念を帰属させることは必要不可欠とは言えないということを論じ、また、「我々人間に対しても信念およびその他の命題的態度を帰属させることは必要不可欠ではない」と主張する消去主義の議論を批判したうえで、我々が如何にして信念と実在の対比を手にしているのかを解明することが当面の課題であることを確認する。

 

 第二章では、信念と実在の対比は如何にしてもたらされうるのかという問いに対してこれまで提示されてきた幾つかの代表的な解答を批判的に検討することによって、この問いが極めて根の深い難問であることを確認する。

 伝統的かつ一般的な見解においては、信念と実在の対比は次のように説明される。たとえば「上空で飛行機が飛んでいる」という信念は、実際に上空で飛行機が飛んでいるのを知覚することによって正当化されたり、あるいは、上空に何も飛んでいないのを視認することによって不当化されたりする、という具合である。しかし、知覚経験がそのように命題的内容を持つのであれば、その内容自体が偽である可能性が原理的に存在することになり、知覚経験それ自体が正当化を別に必要とすることになってしまう。他方、知覚経験が命題的内容を持たないのであれば、それはそもそも信念を正当化することも不当化することもできないことになってしまう。つまり、いずれにしても、信念と実在の対比はもたらされないのである。

それでは、この対比は如何にして可能なのだろうか。たとえば大森荘蔵は、心的一元論を実質的に純粋な実在論に一致する地点にまで純化させ、彼の言う「プラグマティズムに極度に汚染された整合説」によって信念と実在の対比の内実を説明しようとする。しかし、「生存に有利であること」を「正しいこと」に等置するプラグマティズム的な説明は、何が具体的に「正しいこと」であるのか、そのおおよその傾向性を――いわば「正しいこと」の外延の一つを――表すものに過ぎず、「正しい(間違っている)こと」と「正しい(間違っている)と私が信じていること」とを概念的に区別する規準を提供するものではない。

 また、J・マクダウェルやA・ノエ、門脇俊介らが提唱する概念主義は、知覚経験にあるユニークな特徴を与えることによって、知覚経験による信念の正当化をめぐる先のディレンマを解消しようと試みている。彼らによれば、特定の知覚経験は特定の信念を持つこととは独立だが、その信念を持つことに対して理由構成的な関係にある(合理的な権利付与をもたらす関係にある)という意味で、その信念を持つことと無関係ではないのだという。しかし概念主義は、知覚経験と信念の結びつきについて具体的に語り出した途端、知覚経験を「真と偽のコントラスト」という真理概念を必要としない感覚運動的技能として特徴付けるか、あるいは、知覚経験を再び信念の一種として特徴付けるか、そのどちらかに帰着している。それゆえ概念主義も、「信念と実在の対比がもたらされる可能性の条件を描き出す」という課題に答えることに失敗していると言わざるをえない。

 

 第三章では、デイヴィドソンが、「コミュニケーション一元論」とも呼ぶべき言語論を提示することによって、信念と実在の対比を可能にする最も基本的な条件を取り出すという課題に成功していることを明らかにする。同時に、その一元論が後期ウィトゲンシュタインの議論のエッセンスを抽出することによって成立しているという消息を確認することによって、ウィトゲンシュタインの前期と後期とを決定的に分かつものが何であるのかも明確にする。

デイヴィドソンは一九七〇年代以降、真理条件意味論や意思決定理論を構築する理論家としての立場から離れ、「言語」とは何か、「心」とは何かという、かつて自らが従事していたリサーチ・プログラムの背後にある根元的な問いに向かうようになる。そして、その過程で彼は、後期ウィトゲンシュタインの議論へと接近する。デイヴィドソンがとりわけ注目するのは、後期ウィトゲンシュタインの一つの核心を成す、いわゆる「私的言語批判」の議論である。デイヴィドソンはそこから、「自分自身によっては〈…であること〉と〈…であると信じていること〉とを区別することは決してできない」というポイントと、「信念と実在の対比は、人と人とのコミュニケーションのただ中においてはじめて成立する」というポイントを引き出すのである。そしてデイヴィドソンはこのポイントを、「最低限二人以上の人間が、自分たちの相互作用と自分たちが共有する世界との相互作用を同時に行う」という三角測量の比喩を用いて見事にパラフレーズしている。

ただし、デイヴィドソン自身の関心は、どの文化の中に生きる人間にも当てはまるような、心が出現するための最低限の可能性の条件を突きとめることにあり、彼の議論の枠内では「特定の文化の中で生きる」という人間的自然の重要な側面を捉えることはできない。とはいえ、個々の文化の特殊な有り様を考察することは、論理的帰結という一般性や必然性を重視する哲学の基本的な思考のあり方と緊張関係を生じさせる。(デイヴィドソンが、特定の文化の中で生きる人間の有り様を考察の対象から外したのは、まさにこの点によるものだと思われる。)その課題を探究する端緒は、論理の必然性と文化の特殊性(歴史性、偶然性)をめぐってぎりぎりの考察を続けるウィトゲンシュタイン自身の議論の中から得ることができるだろう。

 

 第四章では、デイヴィドソンの議論からはこぼれ落ちる人間的自然の重要な側面、すなわち、「特定の文化の中で生きる」という人間の有り様を探究するために、「正直」と「正確」という、真理概念と最も深く関連する徳をめぐって展開されるウィトゲンシュタインの議論を主題的に扱う。

 「正直」という徳に関しては、「嘘をつくこと」や「振りをすること」という実践を鍵にして人間的自然の在処を問うウィトゲンシュタインの議論を跡付ける。彼は、発生論的な構えから自然史としての人間的自然の生成を見ていく視点と、不確実性や未確定性を含んだ言語ゲームの実際の応答の現場を見ていく内在的な視点、この二つの視点を織り合わせることによって、「振りをすること」にまつわる実践を組み込みながら言語の習得と心の出現がパラレルに達成される様を描き取っている。彼によれば、言語を習得し、心を持つことは、「動物」から「人間」への転換を意味するのではなく、いわばその間のゆらぎにおいて特徴付けられる。我々は、単に「痛い!」と叫ぶ状態から「痛み」という概念を手にするまでに、「振りをする」「疑う」「信じる」といった実践が不断に組み込まれ、しなやかで気まぐれな概念(心的概念)と厳格な概念(知覚的概念)が相互に依存する、そうした多重的で複相的なゲームを行うようになるのである。なお、この節では最後に、我々がなぜそうした「役に立たない」ゲームを行うのかは、実用性や効率性といったものによっては捉えられず、気まぐれな人間との気まぐれなゲームを我々が切実に必要とする、というまさにその点に理由が求められることを確認する。

 また、「正確」という徳に関しては、「互いに置き換え可能な言葉の中からぴったりくる言葉を選び取る」という言語実践の内実を分析するウィトゲンシュタインの議論を追う。この種の実践は、ある言葉から別の言葉へと様々に連想を広げ、最終的に一つの言葉を選び取るという一連の実践のただ中において、普段は目立たなかったその言葉からそれと類似した様々な言葉へと連関が伸びていることに目を開く、という経験をすることである。ウィトゲンシュタインは、その経験を「言葉の〈表情〉あるいは〈魂〉を捉えること」として特徴付けている。それでは、言葉の表情(魂)を掴むという契機はどのような重要性を持つのだろうか。もし、言葉が効率的な情報伝達のためだけの道具として常に一定の仕方で機能するものであるなら、そのような契機は全く重要性を持たないだろう。しかし、「正直」という徳をめぐっても確認されたように、我々が切実に必要とする言語的コミュニケーションは、本質的にたどたどしく気まぐれなゲームであるという、実用性や効率性といったものによっては捉えられない特徴を持つ。つまり、我々のゲームにおいては、言葉がときに表情(魂)を持ち、コミュニケーションの主題となることが、決定的な重要性を持っているのである。

 

なお、本稿では結びに代えて、「哲学が抽象的な議論以上のものを含むならば、文化的な偶然性ないし歴史性へと向かわなければならない」というB・ウィリアムズの論点を踏まえ、人間的自然の探究は、真理という概念の更なる奥行きの探究も含めて、個別の文化の実相に更に分け入って続ける必要があることを確認する。