本論文は、第一部「歌語の中世」、第二部「式子内親王論」、第三部「表現と人生の交叉」、第四部「近世への階梯」の四部から成り、平安時代末期から室町時代へと到る和歌の史的変容のさまを、新たな表現の模索や歌人の伝記、家集の編纂意図や和歌を取り巻く環境の変質といった観点から考究することを通じて明らかにするものである。

 第一部「歌語の中世」では、主に歌語の変遷という視点から、中世和歌史がいかに幕を開けたか、その機微を探った。

 第一章「歌語「こひぢ」考―六条御息所は「恋路」にまどうか―」では、歌語「こひぢ」が、王朝和歌においては「泥」の意で用いられ、「恋」との掛詞として詠まれるのに対して、『堀河百首』のころから、恋を旅の道のりにたとえた抽象語「恋路」の用例が増え始め、逆に「泥」の意が殆ど見られなくなっていくことを、具体的に和歌を示しつつ明らかにした。これは、平安朝から中世にかけて、恋歌が実際の相手とのやりとりではなく、設定された題のもとで詠まれるようになったことと軌を一にしている。このように、第一章では、歌語一つの変遷の内に、王朝和歌が中世和歌へと移り変わる、その動態を取り押さえようとした。

 第二章「きりぎりす詠の変遷」では、きりぎりすの〈本意〉が形成されていく過程を、通時的に明らかにする。『万葉集』から平安時代のきりぎりすは、秋の到来を告げ、人々に悲しみを喚起させる虫に過ぎなかったが、院政期に入り、きりぎりすの用例が増加し出すとともに、その詠みぶりには顕著な変質が認められるようになる。すなわち、寝所で鳴く虫、晩秋に鳴く虫というイメージの形成と定着、「蓬」との組み合わせなどであり、やがてこれがきりぎりすの〈本意〉として定着していくが、その転機となったのが新古今時代である。こうしたきりぎりすの詠みぶりは、その後の歌人たちにも継承されていくこととなるが、近世和歌をも視野に入れた上で、新古今時代を和歌史の頂点と見なし、それを守ろうとする意識がいかに形成されていったか、その成り立ちにも言及した。

 第二部「式子内親王論」は、式子内親王の伝記に関する三つの論考を収める。『新古今集』を代表する歌人式子内親王は、草庵をモチーフにした佳唱や忍ぶ恋の絶唱で名高く、その詠風は自閉的で、隠遁思想や不遇意識が色濃いとされる。式子内親王が残した歌の殆どが百首歌であり、日常の中で詠まれた歌は少ない。にも関わらず、和歌が彼女の実人生と直接に結びつけられ、式子内親王に関しては不幸で孤独な女性というイメージが繰り返し描き出されてきた。式子内親王の場合、その人生には未詳の部分が多いとされ、それが必要以上に彼女の「作られた歌人像」を強固なものにしてきた面もある。だが、式子内親王の伝記には、検討すべき資料がまだ多く残されている。第二部の諸論は、式子内親王に関する未検討の資料を俎上にのぼせることで、そうした伝記的な空白を埋め、和歌の読み取りとは別の視点から新たな人物像を提示するものである。

 第一章「式子内親王伝記考―呼称・後見・出家時期―」では、従来の伝記研究で取り上げられることの多い問題点を副題に示した三つの視点から考察した。例えば、しばしば使用される「萱斎院」が同時代に使用例が見いだされず、後代、鵜鷺系偽書において見られる問題のある呼称であることなどを新たな資料を提示しつつ指摘した。また、東山御文庫蔵『平治元年十月記』に注目することで、従来は十分に説明されてこなかった「後見」吉田経房と式子内親王との関わりについて論じた。すなわち、吉田経房の邸宅である「四条亭」と式子内親王の四条東洞院の卜定所とは同一である可能性があり、式子内親王と経房との関わりは、岳父平範家以来のものであったと考えられるのである。更に、晩年の式子内親王については、『吉部秘訓抄』所収『吉記』建久三年(一一九二)の記事に注目することで、その出家時期をより明確にした。

 第二章「若年の式子内親王」では、従来ほとんど注目されてこなかった式子内親王の生母高倉三位成子及び若年の彼女を取り巻いていた女房歌人たちに焦点をあて、埋もれていた詠作類を新たに掘り起こす。また、三条実房及び大炊御門頼実にも注目することで、若年期の式子内親王が六条藤家に近い関係にあったことを明らかにする。

 一方、中年期以降の式子内親王を取り巻く環境を柳原家本『玉葉』に注目することで浮き彫りにしようとしたのが第三章「晩年の式子内親王」であり、表現からその歌人の実人生を再現するような研究のあり方に自ずと限界があることを論じる。例えば式子内親王は春宮を猶子とすることによって得られる世俗的な利益にも強い関心を持っており、ここからは式子内親王の最晩年が、その和歌から想像されてきたような孤独なものではなかったことが明らかになる。

 第三部「表現と人生の交叉」は、中世を代表する歌人、藤原俊成、式子内親王、西行に関する論からなる。第二部では和歌の表現と歌人の実人生を一旦切り離して、それぞれ個別に研究が深められるべきことの要を述べたが、表現と歌人の人生との安直な結びつきを排除しつつ、表現そのものが実際の人間関係を超越し、あるいは表現の中に生きる存在としての自己を演出する、そうした表現と実人生とが融解する瞬間に目を凝らしたのが第三部の諸論である。表現研究と伝記研究とをいかに統合していくべきか、その方途を探った。

 第一章「藤原俊成と式子内親王―建久四年(一一九三)美福門院加賀哀傷歌群をめぐって―」では、一般に師弟関係の枠組の中で捉えられることの多い俊成と式子内親王との関係に、新たな視点から、具体的には俊成の妻美福門院加賀を哀悼する贈答歌群の分析を通じて再検討を加える。この贈答歌群における俊成の「源氏取」についてはすでに研究があるが、式子内親王の側から捉える試みはなされていなかった。式子内親王の返歌は、俊成歌の言葉を織り込みながら、それを漢籍に取材した表現へと巧みに転換させることで、俊成の源氏取をずらしたものであった。式子内親王の表現は、時に師とされる俊成の表現に素直に寄り添うことを拒もうとさえするのであり、そこでは、文学の表現の中だけに息づく新たな人間関係の構築が目指されているのである。第二章「西行『残集』論―追憶の歌集―」及び第三章「西行『残集』の成立をめぐって―巻頭消息から―」は、西行の家集『残集』がいかなる意図に基づいて編纂されたものであるのか、『聞書集』を編んでなおその編纂に西行をかりたてたものが何であったのか、といった問題を、問わず語りという形式、過ぎ去った時間の美化、巻頭消息などといった視点から明らかにする。『残集』においては、過ぎ去った日々の思い出に浸りきろうとする語り手すなわち西行の姿が彷彿とするような家集の編纂が目指されているのである。

 第四部「近世への階梯」には、室町時代の和歌に関する論を収める。従来最も研究が手薄であった室町和歌を、公宴御会、飲食と和歌といった視点から明らかにし、中世和歌の全円を描こうとする。

 第一章「和歌史の岐路に立つ天皇―後柏原天皇と御会の時代―」では、勅撰集を失った時代の和歌について公宴御会の整備と歌人への影響といった視点から総合的に論じ、後柏原天皇が和歌史に占める意義を明らかにする。後柏原天皇代は、勅撰集の長い歴史が終わりを告げる一方、近世まで長く継続する公宴御会が整備され、和歌が勅撰集の時代から公宴御会の時代へ、すなわち中世から近世へと大きく動いていく転機となった、和歌史の中でも注目すべき時代である。にも関わらず、室町和歌は和歌史における空白の時代とさえ評されて久しい。本章では、和歌会作法への関心の高まり、御会集成という歌集ジャンルの隆盛、歌道家の立場の変化などの問題にも説き及び、様々な誤解の多い後柏原天皇と御会の時代に関して根本からの見直しを迫る。第二章「愉悦としての和歌―室町歌会新考―」では、没個性で類型的と評される室町和歌だが、実はそれこそが歌会の歌に相応しい形であったことを明らかにした。この時代は、朝飯会などの飲食の会が多く持たれ、人々が集まって楽しむ鞠や将棋があり、和歌もそうした集団の遊びの一つとして行われていた。和歌は人々の親交の具として機能したのであり、そこでは連帯を表徴するものとして、和歌の表現上でも、個性よりも周囲との調和が重んじられたのである。

 付篇「後水尾院の古今伝授について」は、中世和歌と近世和歌を繋ぐとされる古今伝授(御所伝授)の和歌史的意義を論じ、中世和歌の終焉を、近世和歌から照射することで明らかにしようとするものである。

 以上、第四部では、和歌表現がそれをとりまく社会情勢の変化や制度の変質などと密接に関わりつつ、その姿を変えていくさまを確かめ、それが近世和歌への道を開く端緒ともなることを明らかにした。

 結「「我」の在り処―中世和歌から近世和歌へ―」では、西行、式子内親王といった歌人にそくして和歌における「我」を辿り、時代が中世から近世へと移り変わる中で、「我」が天皇という場を統べる存在に変質するさまを論じた。