マルクスに倣って貨幣を貨幣たらしめているものが交換可能性を無限に与え合う価値形態にあると仮定すれば、なぜ貨幣が流通するのかという問いに対する答えは、交換可能性を与え合う貨幣が複数存在する中で、人々がどの貨幣を選択的に用いるかという問題に集約されている。そこで、貨幣の多様性が顕著に見られる維新期の日本を対象に、交換可能性の適用範囲に関わる貨幣特性が、流動性選好とどのような因果関係を持つかを歴史具体的に取り上げた。

維新期の社会経済状況に照らしてこの問題を考えた場合、日本史学的課題は次の三つに整理できる。第一に、従来正金・正銀が担っていた①地域間決済通貨としての機能、②兌換準備貨幣としての機能は、どの貨幣に移行したのか、第二に、銀目廃止により銀建貨幣が廃止されたが、諸商人はどのように貨幣の移行を為しえたか、第三に、藩札はどのような意味で地域経済にとって有用であったか、である。

 

第一章「太政官札の流通経路と地域間決済通貨」では、太政官札の流通経路を検討し、高額紙幣・全国通用といった貨幣特性と、隔地間交易との結び付きを見た。太政官札は、高額紙幣故に日常生活で用いるには不便であった。また戊辰戦争の最中に維新政府の手で発行されたということもあって、政府の信用もいまだ低く、その不流通性がこれまでの研究では強調されてきたが、藩域に縛られず持ち運びに便利で高額な太政官札は、地域間決済通貨として北前船などの隔地間交易を行う地方商人に幅広く受領されていた。明治2年の末にはすでに、政府の手から、そして三都から離れた地域にあっても太政官札が流通する経路は確立し、従来正金などが担っていた地域間決済通貨としての機能を代位した。

第二章「高知の銀券発行と銀目廃止」では、銀目廃止令に基づく銀目手形書き換えの課程と、大坂両替商・銭屋佐兵衛家による高知藩銀券発行への関与の仕方を考察した。慶応3年5月に出された銀目廃止は、秤量貨幣の使用を停止し、銀建貨幣を金建に交換することを定めたもので、幕末から維新期にかけて銀相場が暴落する中での銀目廃止は、保蔵貨幣・債権の評価損を生じさせる可能性があった。そのような状況下で、銭屋佐兵衛家は大名貸しに特化した形態を取りながら、高知藩を中心に貸付を拡大し、藩との交渉を通じて銀相場下落の影響を最小限にとどめる形で相場を確定したことを明らかにした。

 第三章「日田の紙幣流通と掛屋」では、日田掛屋・千原家における紙幣流通を検討し、正金と藩札との兌換関係が維新期にどう変化したかを考察した。万延二分金増鋳と太政官札発行によって飛躍的に貨幣供給量の増加した維新期であったが、会計基立金の募集や正金金札引換政策の影響もあり、正金は都市部に吸い上げられ、代わりに太政官札が地方に散布された。また、小額貨幣の鋳造は遅れたため、地方では小額貨幣不足に悩まされた。維新期には、高額紙幣の太政官札を死蔵させず、小額貨幣需要にいかに対応するかが地方的課題であったと言える。太政官札を準備金とした藩札の発行はそうした課題に応えるものであり、その意味でも太政官札は従来正金が担っていた機能を代位したと言える。また、日田掛屋は領外から流入する諸藩札と太政官札との両替を行い、藩札の安定的流通を保証した。

 第四章「上田の地域通貨流出と贋金」では、上田藩の地域通貨流通と贋金流通との関係性を検討した。明治2年頃、上田では贋金の流通が横行し、正金一般に対する不信と正金回収につながっていた。そのため、高額貨幣流通では太政官札が、中額~小額貨幣流通では地域通貨が、贋金回収と小額貨幣不足に伴う貨幣需要を一時的に補った。具体的には、信州諸藩県連合による発行という性格を帯びた信濃全国札は藩際交易に用いられ、金札正金引き換え政策への対応から、太政官札との交換により市場に投下された。他方、贋金の流入による正金不信への対応として上田藩が発行した上田藩札は、藩内での小額貨幣決済を媒介した。これらの地域通貨の準備金となった官省札が、明治3年以降に貨幣価値を安定させた結果、諸貨幣を区別なく金建表示で帳簿上に記載することが可能になった。ただし、贋金流通の損失は結果的に補填できず、上田界隈における農民騒擾につながった。

 第五章「名古屋の通商政策と地域通貨」では、通商司政策に関わる事例研究として、名古屋通商会社を分析した。維新期名古屋の通商政策は、一貫して伊藤次郎左衛門ら在地資本と地域行政主体の主導の下で展開された。名古屋通商会社が明治維新政府=通商司の掲げる海外交易促進政策をとらず、地域通貨を利用してむしろ地域内流通の促進に傾注したことは、通商司政策による全国的金融流通網形成の失敗を象徴するものであった。理念的には地域的利害を顧みなかったところに、実態的にはその運営を地域の旧特権商人層に完全に委ねざるを得なかったところに、通商司政策の限界があったと言えよう。名古屋通商会社社中の人的構成や親睦講運営などは近世期との連続性を示唆している。また、名古屋藩による金札預り手形の発行は太政官札を準備金とした地域通貨発行の一例である。

 第六章「西播の他領藩札流入と会所」では、維新期西播地方の実情に照らして、他領藩札が小額貨幣として地域の経済活動に果たした役割を導出した。播州は小藩・飛地が錯綜し、各種藩札が大量に発生していたため、藩札の相場差を利用して利鞘を稼ぐ「姦商」的活動が盛んに行われた。そこで、諸藩は、諸藩札間に相場を立てず自由に通用させる政策を一時的に採用し、藩札の安定的流通を図るとともに、他領藩札の流入を促して小額貨幣需要に応じた。その意味で、他領藩札流入を地域への弾力的貨幣供給の一形態と評価した。

 第七章「群馬・埼玉の藩札融通政策」では、群馬・埼玉両県の事例から政府・地方行政主体双方の藩札回収政策を見るとともに、藩札融通政策と藩札価格の上昇、そして未発行藩札の流出について指摘した。日用取引において藩札が全く流通しない地域にあっても、旧藩領域と取引を行う隔地商人にとっては藩札の交換可能性は損なわれなかった。また、明治5年価格比較表相場と実際の買い上げ相場との差益獲得という新県の政策意図から、明治5・6年の藩札買い上げが行なわれたことも確認した。

 

太政官札は中央政権が発行した初の全国紙幣であり、地域間決済通貨という貨幣特性を示し、隔地間取引を行う商人に広く用いられた。商人にとって、高額で、持ち運びに便利な、全国で通用することを政府が明言した紙幣を利用することは、安定した収益性を予測させる行為であった。これは、正金・正銀が担っていた地域間決済通貨としての機能が太政官札によって代位されたことを示している。また、全国的に見られた金札預り手形や太政官札を準備金とした藩札の存在は、地域通貨の準備金としての機能までも太政官札が代位したことを意味する。上記二点から、太政官札発行とその流通により幕府鋳貨(正金・正銀)から維新政府紙幣への移行が前提されたと見做すことができる。

銀目廃止においては、銀相場が幕末から維新期にかけて大幅に下落していた中で銀目廃止が決行されたため、貨幣保有者は銀安の状態で銀目貨幣を代替貨幣に切り替える危険性を帯びていた。そうした状況でも、大坂両替商は交渉を繰り返すことで価格を銀高に設定し、収益の最大化に努めた。移行の成功は、交換可能性が適用される範囲内において交渉の余地があったためであり、このことは交渉の能力がない領民に相場差損が転嫁した事実と整合的である。

 最後に、藩札の流通は、地域の経済活動をどのように貨幣が媒介したかを理解する手掛かりを与えてくれた。維新期に、地域的利害を代弁する地域行政主体・在地商人の自立性が貫徹した場合、交換可能性が適用される範囲は従来のまま維持され、藩札流通も有用性を保った。そして、小額貨幣として地域の貨幣需要に弾力的に応える役割を果たしたと言える。

以上の検討を通じて、維新期には高額貨幣・小額貨幣ともに、紙幣が鋳貨に比して数量的に優位に流通していた地域事例とその背景を明らかにした。正金との兌換性が保証されていない紙幣の安定的流通と、太政官札を基軸とした貨幣相互の有機的連関は、近代的貨幣制度の成立を準備したものと評価できる。