本論文は中国・明代の長篇白話小説『金瓶梅』について、主として創作手法論的見地からその特質を論じる。『金瓶梅』はいわゆる四大奇書の中で成立年代が最もくだる作品であり、他の三作品(『三国志演義』『水滸伝』『西遊記』)がそれぞれ芸能に源流をもつ長い前史を有しているのに対して、大部分は一人の作者によって創作されたと思われる。作者は先行作品から多くを学びつつも、それらに見られない斬新な手法を用いている。そして新たな手法が生み出された背景には、従前の手法においては十分に表現されることがなかった、新たな手法によってこそ効果的に表現され得る何らかの認識が存在していると考えられる。手法の使用を事実として摘示するに止まらず、それによって目指された表現効果を把握し、作者の創作態度に迫らんとすることが、本論文の企図するところである。

 序章「近現代における『金瓶梅』評価の課題と本論文の構成」においては、近代以降における『金瓶梅』評価の諸相を、本論の主題に関わる議論を中心として概観する。様々な言説を紹介しつつ、全体として、①作中の社会描写を淫猥描写から切り離して前者のみを高く評価する態度の是非、②作中に描かれる世界から作者が批評的距離を取れていないとの批判を誘発する作品の特質を如何に評価すべきか、③作中の人物描写が前後で矛盾していて性格の発展が根拠づけられていないという批判の当否、④登場人物が歌で感情をあらわす箇所を小説表現としてどう捉えるべきか、⑤作中に多くの先行作品の引用が散りばめられている点をどのように評価するか、などの論点を紹介する。

 第一章「明刊各本の序文と導入部」においては、最初に『金瓶梅』の刊行にいたるまでの写本流通の記録を整理した後、『金瓶梅』の二つの明刊本である詞話本(一般により原作に近いとされる)とその改訂本である崇禎本とを、導入部や序跋を中心に比較し、両者の快楽に対する捉え方に明確な違いがあることを指摘する。世俗的快楽の正体を暴きその忌まわしさを明らかにするという論調の崇禎本に比して、究極的には取るに足らぬが一般的な人間は心を揺すぶられ我を忘れてしまうものとして(男女の)「情」や「房中の事」を捉える姿勢が詞話本には顕著であり、特に詞話本の欣欣子序は抗い難い訴求力をもって迫る「楽」の諸相を感嘆するような調子で語っている。詞話本には『金瓶梅』の作者の、人間感情に対し当事者として飽くなき関心を持つ姿勢がよくあらわれている。登場人物の感情の動きをまざまざと読者に伝える『金瓶梅』の小説手法の背景には作者のそのような姿勢が存している。

 第二章「張竹坡の『金瓶梅』批評について」においては、古典的『金瓶梅』論の代表として張竹坡(一六七〇~九八)の『金瓶梅』批評を取り上げる。自らも「世情の書」の創作を試みて挫折した経験を語る張竹坡は、作者の立場に視点をおいて『金瓶梅』を完全無謬のテキストとして扱い、一見単純な錯誤と思える箇所すらもすべて作者の意図の反映として理解しようとする。全体構成を透視することによってこそ作者に「騙され」ずに済むのであると述べる張竹坡の読み方の然らしめるところ、作品を読み進める際に読者が抱く素朴な感興よりも、前後と脈絡づけて或る場面の位置づけを論じることが優先されがちとなる。こうした張竹坡の解釈姿勢は同じ箇所に対する崇禎本と張竹坡の批評を読み比べることによっても浮き彫りにすることができる。たとえば西門慶の改心を祈って夜香を焚く妻・呉月娘の姿を西門慶が偶然みつけて感動し、夫婦が仲直りをする場面がある(第二十一回)。翌朝潘金蓮が「夜香を焚くなら黙って焚くものだ」と嫉妬しやっかむ箇所について、崇禎本の批評が潘金蓮の毒舌ぶりにたじろいでいるのに対し、張竹坡は同じ台詞に触発されて、前後の場面に証拠を求めた上で、潘金蓮の言う通り月娘の祈祷は芝居であったとの解釈をとる。このように張竹坡の読み方は或る意味で客観的といえる反面、読書体験における素朴な驚きは表面に現れることが少ない。

 第三章「『金瓶梅』描写論――人物・情景描写について――」では西門慶の人物像がいっけん矛盾していると思われる第三十四回の描写を、この小説の表現のいわば文法に則って解釈することを試み、そのためにこの作品の他の場面をも参照する。問題とするのは西門慶の、自らが高潔な官吏であるかのような口吻で発する台詞であり、これは同じ回における彼の実際の行動と明らかに矛盾している。しかし作者は、それを単なる滑稽な言動不一致として描くのではなく、西門慶がなぜそのような(読者からみるならば誤った)自己認識を抱くに至ったのかを、前に彼の長い物語行為――自らの関わった裁判を見事に決着させた自慢話――を置くことによって読者に説得的に示している(この裁判物語は既存の作品を利用したものである)。同様の手法は、姿を見せぬ恋人を怨む女性の心情を描く俗曲を潘金蓮が口ずさむ場面にも見出だされる(第三十八回)。潘金蓮の場合も、残忍な女性としての潘金蓮の形象と歌詞とが不釣合いであるとの評価があるが、やはり、自らの歌に感情移入するうちに自らも歌の主人公であるかのような錯覚に陥っているという表現を見出だすべきである。『金瓶梅』の作者は、人物の一貫した強固な性格やその発展よりも、家庭や社会の諸関係にあって人間が見せる多様な心理の一つ一つを読者が実感できるように描写する傾向が強く、そのような描写のためには相応の工夫を怠っていない。

 第四章「『金瓶梅』構成論――第三十九回を中心に――」では『金瓶梅』の小説構成法、特に第三十九回に顕著な回内部の対偶構成を論じた。この回は『金瓶梅』において大きな意味をもつ事件が起きるとされる「九」回系列に属する長編小説中の重要な一齣でありつつ、一方では緻密な対偶構成により前後半が照応し支えあっており、一つの回としての独立的な表現構想をも持った回となっている。回の前半には家の外で男性により行われる羅天大醮(道教)が描かれ、儀礼文書や符の列挙によって神々の秩序だった機構が浮かび上がる(社会性)。対して後半に描かれるのは、婦人の部屋で女性たちだけにより行われる宣巻(仏教)である。そこで語られる宝巻においては、千金小姐の懐胎と出産とが韻文で印象的に描かれている(身体性)。また前後半はそれぞれ、西門慶の二人の息子の未来を暗示していると思われる。小説手法において両者は、語り手が態度を表明しないまま宗教的テキストを長く引用して読者を宙吊りにする点で共通し、表現構想の同軌が対偶構成を支えている。前後半のトーンの落差は、道士が官哥の長生と富貴とを願い送り届けた道服を、まったく異なる角度から論評する女性たちの視線に象徴的に現れている。そこでは作者らしい複眼的な表現が対偶構成の中で巧みな効果を上げており、本回の構成が作者の表現志向にも適した形式であったことがうかがわれる。

第五章「『金瓶梅』の感情観」では、作者が人物たちの感情を描く際の、室内外を対照させたり、文芸作品を引用したりする手法を論じる。作者はしばしば、まず室内にいる感情的に昂揚した人物たちを描き、然る後に、彼らを見守る室外の人物たちの、室内の昂揚とは断絶した立場からの視線を描き加える。典型例として第十九回末、西門慶と李瓶児との緊迫した口論が描かれるが、第二十回冒頭では時間が引き戻され、その緊張感の埒外にあって二人の様子を門外から窺う潘金蓮と李瓶児との様子が描かれる。これらの場面において作者は、或る空間に漂い人の感情に影響を与える雰囲気に意識的であったと思われ、その内側と外側にいる人物たちを対照的に描き分けている。作者はまた、或る種の文芸作品にも同様に、受容者の感情を動かす感染力を認めていたとおぼしい。いま雰囲気や感染力と呼んできたものを「気分」と総称するならば、作者は描写や引用などの工夫によって「気分」に作中人物のみならず読者をも巻き込み、その上で読者がその「気分」を客観視もするように、小説展開を工夫していることが指摘できる。このような観点から、当時の通俗文学でしばしば取り上げられていた酒色財気という主題の扱われ方に注目するならば、登場人物を酒色財気に迷わせている「気分」が読者をも巻き込み、それにより読者が作中人物の迷いにいわば共感する過程をたどった上でそれが迷いであったと気づき、酒色財気の人を惑わせる様を実感的・体験的に理解するという新たな小説表現を、作者が創出していることが分かる。

終章(結論)においては、序章において『金瓶梅』評価の課題として提示した論点に対し、各章で得られた知見がどのように寄与できるのかという観点から全体を振り返り、且つ、愛情や肉親の情といった人間的感情についても酒色財気への惑溺と同じ要領で客観視が促される点につき補足的に論じ、作者が酒色財気に溺れる心性をも一種の人間性として捉えていたのであろうと結論づける。また『金瓶梅』の、読者を作品世界に自然に遊ばせることにより内的な真実を実感的・体験的に悟らせる手法について総括的に論じ、読者の参与を求める作品という『金瓶梅』の性格を明らかにする。