欲と鬱の間 儒医朱丹渓鬱説の展開における宋代道学の受容

黄  崇修

道学思想は、どのようにして医学に取り入れられて行ったのか。その屈折・融合の過程について、既にアメリカの人文学者Charlotte Furth氏が、朱丹渓の学説を題材として、分析を行っている。そこでは、朱丹渓と親交の深かった宋濂と戴良の文章を用いて朱丹渓の思想が再構築され、その心身論や相火説について議論が提起されている。しかしFurth氏の研究では、欲望と相火との関係について言及しながらも、鬱説について、医学という視点からの踏み込んだ考察は全くなされていない。

朱丹渓の鬱説としては六鬱説がよく知られているが、実は、六鬱説は朱丹渓自身が提唱したものではない。それでは、朱丹渓が考えていた本来の鬱説は、どのようなものであったか。この問題について、本稿では、医学(二章)・儒学(三章)・文学(四章)の三分野に渡って考察を行い、それによって朱丹溪鬱説の全貌を描き出した。更に、各章での考察結果から、宋代道学が朱丹溪鬱説の形成に決定的影響を及ぼしたことをも、併せて解き明かした。以下にその概要を示す。

第一章では朱丹渓の事跡と、当時の儒学・医学の思想的背景について紹介した。また岡本一抱等の注釈を用いつつ、朱丹渓『格致餘論』の中に「欲から鬱へ」という鬱病発症の経路・構造が著されていることを示した。

朱丹溪は、朱子と呂祖謙という南宋儒学の二つの学統を継承した儒学者であり、そのため礼法を非常に重視していた。同時に、劉河間・張子和・李東垣などの金代医学に依拠する医学者でもあり、『黄帝内経』運気七篇の内容を新たに読み直し、独創的な解釈体系を作り出した。朱丹溪は、礼法を重視する朱子と鬱証を重視する劉河間の二人から大きな影響を受けながらその思想を形成した。「欲望」と「鬱証」について、通常の儒者や医師よりも、より深い関心と密接な理解を有していたゆえんである。

朱丹溪は、宋代儒学と金元医学という両系統を基礎として、二大古典『礼記』と『内経』を深く研究した。『礼記』と『内経』にみえる、「欲望」と「鬱証」という二つの問題を一つに結合して思索し、その結果完成されたのが、欲望から鬱病発症に到るプロセスである。『格致餘論』の中では、「飲食箴」「色欲箴」「陽有餘而陰不足論」「相火論」など、「鬱」という概念を頻繁に用いており、「欲望→陰不足→相火炎上→鬱証」という構造が示されている。

しかし残念ながら、朱丹渓は「欲望」から「鬱証」発生に到る過程については、更に詳しい説明をなすには到っていない。そこで本稿では、第二章(「鬱」の考察)と第三章(「欲」の考察)にわけて、朱丹渓の鬱説について更に踏み込んだ研究を試みた。

第二章では、まず医学史料を題材として、気鬱思想と相火思想の発展史について俯瞰的総括を行った。そして、医学史上の位置を確認した上で、朱丹溪の「相火炎上→鬱証」(欲が鬱を形成する経路の後半部)という論述のロジックについて解析した。

朱丹溪の相火論では、気鬱についての言説は、表面上、ほとんど『黄帝内経』以来の通説、すなわち「諸氣膹鬱屬於肺」に依拠しているだけに見える。しかし実際は、「火之升也」という命題の補充を通して、『内経』以来の気鬱思想の範囲を超越したところがある。

気鬱の発生についての朱丹溪の論は、従来のような、外気の変化が人間体内の気鬱を引き起こす現象についての観察には留まらなかった。そこから更に考察を進め、相火という概念について新たな認識と定義を行うことにより、心中の欲望が気鬱を引き起こすという、内因的鬱証学説を新たに打ち立てた。これは、朱丹渓気鬱思想の大きな特徴に数えることができる。

第三章では、朱丹溪の相火論を基礎として、更に「慾望→陰不足」(欲が鬱を引き起こす過程の前半部分)という問題について分析を進め、更に、医学の相火論と儒学の心性論との間に有った思想史上の断裂にまで迫った。

朱丹渓は、欲望が相火と関わるものと考え、周敦頤の太極図を改造して相火克化の図式をつくり、それを通して、身体論を基礎として、『尚書』十六字心伝の真義を更に深く顕そうとした。朱丹溪の相火論は、どのようにすれば、相火に生生という本来の働きを正常に行わせ、妄動させないようにできるのか、という問題意識から発せられているのだが、最終的には、朱子の「人心聽命於道心」という説をその結論とする。これはすなわち、鬱証という医学的問題から朱子学道徳の実践にまで発展して繋がる、両思想分野を貫通した、一つの連続した思考となっていたことを意味している。

朱丹渓はこのようにして、欲望についての身体観を構築した。これだけでも、既に鬱に関する身心互動についての理論的基礎が、十分に提供されていると謂うことができるであろう。しかし朱丹溪は更に論を進め、『礼記』の内容にまで遡り、程子の「目の視る所」によって「心」の赴くところが定まるという考えを吸収することで、礼法の実践こそが人心に守るべき目標を持たせて人欲に陥らせないことができる、と結論した。朱丹溪はかくして、礼法を、人心の堕落と相火の炎上を回避し、気鬱の発生を防ぐために重要な養生の手段としたのである。

一方、朱丹渓はこのような礼・欲・鬱の相互関係についての考察によって、礼に情を含ませるという『詩経』で称揚される古風な道徳に、医学実践的な根拠を結びつけた。また『礼記』中庸篇に説かれる中和の道も、同じ考えを通して、確実な実践上の理論付けを与えた。

以上のように、第一、二、三章では、「欲――鬱」という思考プロセスとその連続性について検討したが、続く第四章では、劉基「郁離子」の特徴について考察した。これは、「鬱――火」(第二章)、「欲――礼」(第三章)、「郁――離」(第四章)といった連続性によって、第二章・第三章とも繋がるテーマである。これら三組の異なる角度からの研究を通して、医学・儒学・文学の三つの領域に及ぶ、鬱に対する考えと対処法について一定の理解をえることができるであろう。

第四章の分析は、劉基の生涯と詩文とを対照させ、それによって『郁離子』という文献が、劉基の明に仕えた後で付け加えられた新しい部分を含んでいること、そして、それらの内容が劉基の心理的葛藤から来た無力感と、朝廷での権力闘争によって生まれたやるせない心情を反映していることを明らかにした。

『郁離子』を書いた時期、劉基は気鬱を病んでいた。また、その友人である宋濂たちが朱丹溪の医術と人格を高く評価していたため、劉基は自然に鬱証の専門家である朱丹溪の医説に関心を抱いたと考えられる。実際に『郁離子』を眺めてみると、その中の幾つかの篇に、朱丹溪『格致餘論』の説についての反応や間接的な質疑が見られる。

劉基本人や、『郁離子』を始めとする彼の詩文には、怒鬱現象や憂鬱現象といった、心理的な原因から発症するとされるものが描写されている。また朱丹渓は、その劉基に影響を与え、実際に対面したこともある人物である。とすれば、王永輔らの主張する、朱丹渓が心理的側面から鬱問題を観察しなかった、という評価は、妥当とすることはできないだろう。

第五章では、第二、三、四章(医学・儒学・文学)での考察結果を踏まえた上で、再度、医案の記録に注目して考察を行った。目的は、三つのカテゴリー「氣之鬱」「心之鬱」「神之鬱」が有する多元的内容を明らかにし、従来の鬱説とは異なる、朱丹溪独自の鬱説の全体的様相を示すところにある。

「氣之鬱」については、「肺氣」と「肝氣」との間のバランスを重視することが、その特徴として挙げられる。具体的には、欲望が一旦過度になると、肝・腎に位置する相火が上昇して肺を傷つけ、肺気が弱まって肝気を制御できなくなり、その結果、肝の火が盛んになり過ぎて胃気を傷つけるが、朱丹溪によれば、「胃気」は「沖和の気」や「元気」に等しい。そのため、気鬱の症状が悪化し続けると、最終的には元気が失われるという「痿病」が発症するというのである。

程子は、医家の「痿庳」を儒家に於ける「不仁」の意と説明したが、これはすなわち、自ら閉じこもって私欲の追求に陥った結果として、「痿病」が起こることを意味している。朱丹溪が「心之鬱」に対処した医療記録によれば、「私慾不仁」によって憂鬱となるものであれ、「好色易怒」によって怒鬱となるものであれ、「多欲繁思」によって思鬱となるものであれ、いずれの鬱証も、朱丹溪が情志三鬱説で示したような、欲望と情志の発現との間の深い影響関係を内含する。また欧陽脩が薦めた音楽による憂鬱への治療であれ、劉基が用いた文学による怒鬱への治療であれ、朱丹溪が名を馳せた思鬱への心理的な治療であれ、いずれの型態も更に深く掘り下げれば、その根本は「気鬱」へと還元される。それゆえ、情志三鬱説と六鬱説との間でも、それらの基礎となる思想には共通性があり、その相違は、一方が心理的な角度から出発し、もう一方が気鬱という現象から立論していることに由来すると考えることができる。

朱丹溪にとって「心」・「気」とは、一つの元の二つの側面を意味している。朱丹溪が「神之鬱」、すなわち言語失調・行動異常などを発症した病人に対処するとき、依然として「気」「血」という基礎に拠る気鬱概念を運用することで、それを説明したゆえんである。病人が気・血の両者ともに虚となった状況下で、自責の念や驚愕の感情が生じたとき、下位に位置する気・血が心・神を鎮めることができなくなるが、その結果、脳にある至陽至清の神が依拠すべきところを失い、最終的に言語の混乱や鬼怪を叫びまわる状態に陥るというのがその「神之鬱」理解である。

「氣之鬱」「心之鬱」「神之鬱」のいずれに於いても、宋代道学の議論を巧みに取り入れたところがある。朱丹渓鬱説は、朱子と呂祖謙の儒学説を吸収して成立したものということができることは間違いない。

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