アランの情念論 第三共和政下フランスにおける哲学と実験心理学

新田 昌英

本研究はフランスの哲学者アラン(Alain)の情念(passion)の学説に関するものである。20世紀の哲学と心理学において情念の概念はその復権が試みられながらも「死んだ」概念であった。19世紀末に哲学の教育を受けたアランは、哲学教師、著作家として生理学的な心理学の成果を吟味した結果、情念の概念にたどり着き、これを自己の思想の支柱とした。今日、アランの思想のインパクトが忘れられつつあるとすれば、彼の情念論が呈する一見時代錯誤的な外見が多分に関係しているだろう。19世紀末から20世紀の初めにかけてのフランスでは実験心理学が学問分野として形成され、大学内の講座として定着し始め、感情の生理学的な研究が登場してくる。こうしたコンテクストでアランが20世紀の初めに情念という概念を自分なりの仕方で「発見」し、自己の思想の中核に持ち込んだ必然性はどこにあったのだろうか。本論ではこのような問題を検討してみたい。

第1章ではアランの情念論に関する予備的な考察から始める。情感性の領域を情動、情念、感情の3段階に系列化する情念論は、アランの思想の中核をなすものである。しかし初期の段階では、後年に彼の思想で重要な位置を占める情念について、アランはほとんど何も考えていなかったか、あるいは後年とは大きく異なる概念規定をした形跡がある。こうしてアランの情念論とその生成の問題が浮上する。

第2章ではフランスにおける情念論の歴史的考察を行う。情念という術語を多用するアランの著作は20世紀以降の心理学や哲学では異色のものに見えるが、19世紀中頃までのフランスでは情念という術語はそれほど珍しいものではなかった。ガルニエの情念論が顕著に示しているように、19世紀中頃に折衷主義の心理学では情念の概念は一定の意義を持つものであった。しかしこの概念は、神経生理学的に依拠した実験心理学や精神医学の発展の最中に、折衷主義とともに衰退していく。20世紀初頭に情念論の復興が試みられるときには、もはや折衷主義の能力概念に依拠することはできなかった。リボーのように生物学的な傾向概念によって情念を基礎づけようとするにせよ、アランのようにデカルトへの回帰を図るにせよ、情念概念の有効性を訴えるためには、生理学との対立的な自己規定によって思弁的になった折衷主義的な情念論から情念の概念を解き放つ必要があった。

第3章ではアランの知覚の理論を扱う。アランの情念論は長い時間をかけて形成された知覚の理論に基づいている。対象の認識を可能にする条件を反省的分析によって遡行していくと、対象をその都度構築する精神の働きが見出される。純粋な感覚の所与は意識にとっては虚無であり、感覚と知覚の区別は言語による抽象以上のものではない。アランの知覚理論は、直観の形式による対象認識の徹底的な被規定性から出発しており、実体の概念も関係の認識に解体される。情念論が立脚する心身の区別は実在的な区別ではなく超越論的な視点から理解されなければならない。

第4章ではアランの知覚理論における情感性の位置づけを明らかにすることを試みる。情感についてのアランの思考は、それが表立って出てくる頻度と与えられる重要性は時代ごとに異なるものの、知覚理論の中に初期の段階からあらかじめ造り込まれている。つまり、情念についての思考をアランが明示的に展開し始めるとき、その認識論的前提として、知覚と情感性の関係についての理論は、実は常に同梱された状態で差し出されている。認識における主体と客体の区別が成り立つ最も原初的な段階で対象はすでに情感的に表象されている。対象の原初的な認識様態を考察した後で、アランの二元論を論じる際に考慮すべき身体概念を問い直すことができる。生理学的に描写される身体観と客観的な身体概念が形成される以前の思い観られた原初的な身体観がアランの思想には共存しており、前者は後者を前提としている。

第5章では、19世紀末から20世紀初頭にかけての哲学と心理学の関係を思想史的、制度史的に検討し、アランを当時の認識論的なコンテクストに置き直すことを試みる。心理学と呼ばれる学問は19世紀の前半に既に大学で教えられていたが、神経生理学的なアプローチに依拠した実験心理学は新興の学問として19世紀末のフランスに輸入されてきたものであった。折衷主義的な心理学の擁護者としてのジュフロワ、折衷主義の批判者であり実験心理学の先駆者であったリボー、超越論的な哲学から心理学の認識論的批判を展開したラシュリエの言説は、19世紀フランスにおける哲学と心理学の相互規定的な関係を示している。折衷主義の伝統を汲む心理学の教育は中等教育課程の哲学教育に組み込まれていたため、リセの教師であったアランにとっては避けがたいものであった。リセの生徒は教師の教える哲学とは別に高等教育機関の受験用マニュアルを学んでいた。マニュアルへのアランの評価は低かったが、マニュアルとそれが依拠する国の指導要領は考慮しながら独自の授業を組み立てていた形跡がある。

第6章ではアランの心理学批判が具体的にどのようなものであったかを見ていく。心理学を「定義のあいまいな学問」として批判するアランの議論からは、心理学の方法によっては捕捉することのできないアランの自我論が見えてくる。折衷主義の心理学が内観によって把握しうるとする内的な事実をアランは初期の対話篇で批判している。アランによれば、対象を認識する直観は時間と空間に規定されているため、空間内になく時間内にある内的な事実の観察はそもそも認識の対象になりえないものを問題にしている。筋肉感覚が知覚に果たす役割や脳と思考の関係を検討するアランは、認識と思考の座を身体に同定しようとする実験心理学の研究が、身体に魂を与えようとする原初的な心性にもとづくものとみなす。いずれの心理学もが僭称する自己認識の学は、活動する精神の痕跡を反省的な分析によって見出す哲学以外に担うことができないのである。

第7章では「神経学的身体」の時代における情念論としてのアランの情念論とリボーの情念論との比較研究を試みる。アランが情念論によって感情を論じた時代には、哲学や心理学の一環としての情念論はすでに廃れていた。精神医学や病理心理学では精神的な疾患を神経学上の問題として扱う研究手法が台頭していた。感情研究もこのような傾向に従って神経生理学の概念によって行われるようになってきていた。実験心理学をフランスにもたらした先駆者であったリボーは感情研究の極度な自然科学化に警鐘を鳴らし、20世紀初頭に情念論の復興を試みた。アランの情念論もこうした反時代的な試みの一環として捉えることができるが、アランはリボーの生物学的な情念論を乗り越えるかたちで自己の情念論を展開した。

第8章ではリボーの弟子であったジョルジュ・デュマの感情心理学とアランの情念論との関係を扱っている。『幸福論』には「悲しいマリー」という文章があり、現在で言うところの双極性障害の患者の話になっている。これはアランがデュマの研究を意識して書いたものであった。「悲しいマリー」に書かれたマリーという女性の話は、デュマが自身の研究で扱った症例であった。アランのテクストはデュマの心理学についてのアランの解釈として読むことができるのである。

第9章ではフランス国立図書館所蔵の『感情の哲学』という草稿群に関する書誌学的な事項を解説し、アランが準備した講義の構想を概観する。感情に関する講義を準備するにあたってアランは「感情の力学」「感情の歴史」「感情の哲学」という3部構成の草稿を書いた。この構成はアランの他のテクストに見られないものであるが、内容は後世の情念論に引き継がれるものである。草稿群はアランの情念論が形成されつつある段階を示している。このことを示す例として、草稿に遺された情動、感情、情念の分類表を検討する。

第10章では「感情の哲学」と実験心理学の関係を扱っている。アランが同時代の生理学的知見をどのように受け止めたかを確認したあとで、感情心理学で当時有力な学説であったジェームズ・ランゲ説とアランの思想との関わりを具体的に見ていく。アランはジェームズ・ランゲ説を部分的に受け入れるが、感情の情感的な質の扱いについてはこの説に同意せず、独自の路線を打ち出していく。「感情の哲学」は感情を知覚としてとらえることで、情感的な質が身体変容の単純な意識ではなく判断から生まれるという立場を明確にしている。

情念論を確立させた後のアランは、ジェームズ・ランゲ説に接近しつつ、情念の原因が身体運動であると繰り返し明言してはばからなかった。経験として考えれば、それは確かに正しいからだ。しかし超越論的な観点から考察すれば、感情は身体変容の知覚であり、意識の機能である。情感的な質は、経験的直観において、対象の定立とともに、自己自身に関係する判断から生じる。「感情の哲学」が明らかにしたのは、宇宙全体の把握という原初的な認識の様態において、すでに情感的な質が規定されているということであった。

19世紀には哲学的な心理学の一部門であった情念論に依拠することで実験心理学を批判したアランの思想には、確かに復古主義的な要素があった。しかし情念論が自然科学的な心の学への批判となるためには、情念論を折衷主義の心理学から解き放つ必要があった。この作業はデカルトの『情念論』へ回帰することによりなされた。情念に身体の次元を取り戻しつつも、情感的な質を知覚から生まれるものとすることによって、すなわち超越論的な視点から情念論を再構築することによってなされた。アランの情念論は、心が自然化されていく時代に試みられた魂の医術としての感情の哲学であった。

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