喫茶習慣は17世紀に茶道具の陶器と共にイギリスに紹介され、次第に〈午後のお茶(afternoon tea)〉という正式な社交の様式が成立した。〈午後のお茶〉は主として有閑階級人々による社交的な集まりを提供し、喫茶において特有の礼儀作法やマナーなどについての知識が要求され、喫茶道具や家具、また参加者の服装なども美的意匠を凝らすものになっていく。ヴィクトリア朝後期、特に1890年代になると、〈午後のお茶〉は全盛期である大英帝国の繁栄、そしてそれに裏打ちされる洗練された審美眼を体現する典型的な文化現象のひとつとなった。必然的にその時期以降のイギリス小説においては、喫茶という文化現象が生活様式のさまざまの細部を反映するものとして利用されることになる。注目すべきは、その際、喫茶表象が諷刺、パロディ、比喩といった手法によって、本来の喫茶習慣の担っていた社交性を転覆し、ときにアイロニカルな、ときに喜劇的な効果を生み出す装置として機能していることである。19世紀末から半世紀以上にわたるイギリス小説を見ると、喫茶表象は独自の運用パターンと特殊な文学的含意を持つひとつの文学伝統になっていると言える。そしてこれまで十分に注目されてこなかったこの文学伝統が、しばしば指摘されるイギリス的ユーモアと深く結びついていることも明らかとなる。以下、章立てに従って、本論文の概要を述べる。

クロード・レヴィ・ストロースの人類学的な分析によると、お茶は(干した植物の葉として)「生のもの」であると同時に(お湯で点てたお茶として)「火を通したもの」でもある。レヴィ・ストロースは食物に火を通す操作が自然から文化への移行を示すことであると主張している。この見解に従えば、イギリス風のお茶を嗜む儀式は東洋から輸入した茶葉を極めてイギリス的な文化習慣に移行させたものと見ることができる。興味深いのは、文学における喫茶表象が、単純に物理的な喫茶の所作や社交マナーの描写よりも、その背後に潜む社交上のルールに従っているかに見える登場人物(間)の心理的抑圧や葛藤を引き出す媒介となって、しばしば表面的な意味を裏切る含意を秘めていることである。

文学テクストにおける喫茶表象の最初期の例を探ってみると、お茶がイギリスに輸入された直後の(未だ小説というジャンルが成立していない)17世紀後半からの王政復古期喜劇が格好のテクストとなる。そこでは喫茶場面や喫茶への言及が、表面上の上品さへの身振りとは裏腹の含意(例えば、何らかの性的含意)を伴っていることの少なくないことが看取され、ジェイン・オースティンやディケンズによってさまざまな変奏が加えられながらも、後のイギリス小説において確立されることになる文学伝統の起源となっていることが窺われる。

この王政復古期喜劇の特質を最もよく受け継いだのが、1890年代に活躍したオスカー・ワイルドの劇作で、その人気作品には喫茶儀式を強調もしくは誇張した場面がよく見られる。こうした喫茶場面は、興味深いことに、同時期のヘンリー・ジェイムズも小説に利用している。戯曲において既に確立した重層的意味を持つ喫茶場面の伝統(特にアイロニーを中心として社交性を転覆する手法)を小説創作に導入したのである。劇作家としての成功を断念して小説に回帰したというジェイムズ独特の創作経験から、彼の小説に登場する喫茶場面は王政復古期喜劇とリアリズム小説の写実伝統を融合しているのはもちろん、「意識の流れ(stream of consciousness)」や「省略叙法(narrative ellipsis)」も導入されて、20世紀前半のモダニズム小説の先駆的性格を体現している。また、アメリカ生まれのジェイムズにとって喫茶習慣がイギリスの風習を観察し、描写するのに格好の材料を提供し、彼が発明したとされる「舞台的描写法(scenic method)」という手法にとって喫茶場面が極めて有効な背景を提供している。ジェイムズはこの手法によって、例えば当時、社交上の禁句となっている露骨な「性」への言及が、喫茶儀式のなかでいかに隠微に変奏されるかを見事に描き出している。こうした道徳的堕落や邪悪な動機を水面下に潜ませる二重性を持った喫茶場面の描出は、ジェイムズ以後の小説家(リアリストとモダニストともに)に引き継がれ、発展していく。

ヴァージニア・ウルフの作品『ダロウェイ夫人』(1925)、『オーランドー』(1928)、『歳月』(1937)と『幕間』(1941)に登場する喫茶場面がその変容を反映する。『ダロウェイ夫人』において同性愛を隠喩する場面や、『オーランドー』に見られる17世紀の貴族の男女関係を揶揄する機能を持つ場面、そして彼女の創作活動後期に属する2作品に描かれる「家族同士の喫茶(family tea)」(『歳月』)と「共同体構成員間の喫茶(community tea)」(『幕間』)の場面においても、そこに潜む不協和音があぶり出されている。こうした場面において、ウルフは時にパロディの手法を駆使しつつ、喫茶儀式に従うことで生じる意見したところ喜劇的な小事件が、いかにそれに関与した人物の感情に漣を立てるかを繊細に描き出し、この個人と個人を融合するための場であるはずの喫茶儀式を、大戦間のイギリス社会におけるジェンダーと階級間の隔離を背景とする孤立性を際立たせるものとして利用している。

この点を確認して、E.M. フォースター、D.H. ロレンス、H.G.. ウェルズ、キャサリン・マンスフィールド、オルダス・ハクスリー、エリザベス・ボウエン、サマーセット・モームといった20世紀前半の他の作家に目を転ずると、喫茶場面はさまざまの視点から描かれながらも、ひとつの共通した機能を持っていることが分かる。それは、想定される社交性を裏切るかのように、個人やグループの間の衝突や摩擦が最も鋭角的に現れる場として描かれているのである。20世紀前半の激動の社会を背景に、喫茶場面は当時のイギリス社会の細部を描く上での重要な契機となっている。これらの喫茶場面はジェームスやウルフから喜劇性を帯びた伝統を引き継ぎながら、ジェイムズやウルフが着目するイギリス上流、中流階級に留まらず、更に広い社会階層を対象とする作品にも頻出し、また過去の価値観の理想化やそれに対するノスタルジアを表現する際にも用いられることにより、その表象は明確な文学伝統として確立した。

喫茶習慣は第二次世界大戦後に大きく変わるイギリス社会と共に大きく変容して行く。文学の表現手段としての喫茶場面は、バーバラ・ピム、アンガス・ウィルスン、ミュリエル・スパークなどの作品においては、戦前のユーモアや諷刺などの文学伝統を継ぎながらも、戦後、大英帝国の崩壊によって生じた人々の生活実感の変化を喫茶場面の表象に反映する。一杯のお茶の中に安らぎを得ることで、イギリス社会が帝国からの脱落を冷静に受け止め、福祉を志向する姿勢を凝縮して表現するのである。さらに、ワイルドやウルフの作品に見られる隠喩として表現された同性愛を前景化し、戦後におけるこの問題についての再考を促している点も注目に値する。

こうした喫茶習慣の変遷とともに無視できないものに喫茶店の存在がある。喫茶店は19世紀後期、女性により女性客のために作られたもので、一人で都市部に出かける女性が気楽に入れる休憩場所だったが、19世紀末から20世紀初期にかけてロンドンなどの大都市では新しい庶民的な男女交際の社交場に変わっていた。こうした新しい社会現象として喫茶店はすでに、T.S. エリオットやエズラ・パウンドらの詩作に取り上げられ、H.G.. ウェルズ、 ヴァージニア・ウルフ、ジョージ・オーウェルなどの作品の舞台設定に用いられもしていたが、喫茶店の別の機能、即ち、女性にとっての新たな職場としての喫茶店に焦点を当てた作家たちがいる。J.B. プリーストリーは、20年代末からの大恐慌を背景にロンドンのウェストエンドにある高級喫茶店を舞台に、週末の特別な楽しみとしてそこを訪ねる青年とそこで働くウェイトレスの小さな衝突を描き、喫茶店を資本主義体制の隠喩として用い、そこで搾取される人間の運命をコミカルに表現する。サマーセット・モームの主人公は喫茶店のウェイトレスに惹かれながらも、お互いの階級や教育の差に気づき、最終的に二人の関係は悲劇に終わる。H.E. ベイツは仕事中のウェイトレスの行動や客とのやりとりを描写しながら彼女の内面に迫り、彼女と客との葛藤丹念に描く。このように喫茶店はそれまでの社交としての喫茶場面とは異なった喫茶習慣を提示する場となり、20世紀に入ってから変わっていくジェンダー関係の一面を表現する。これは、男女の社交場が旧来の私的な応接間から商業施設である喫茶店へ変って行く社会の変遷を反映している。

本論文の対象とする作品が1950年代に出版したものまでであるのは、戦後のイギリス社会が大きく変容するのにともない、喫茶も「国民的習慣」としての地位が揺らいで、その頃から文学伝統としての喫茶表象が見えにくくなるためである。しかし、それがイギリスの(喜劇)文学の伝統における重要なトポスであることは間違いない。