1研究の目的
自己認識とは仏教の認識論において正しい認識たる知覚の一つに数えられるものである。この自己認識という認識自体がいかなるものであるか問題であるが、それが唯識思想とどのように関連しているかということに、さらに問題がある。現代の研究者の理解では、唯識思想における認識は全て自己認識であるというのが標準的理解である。それに対してケードゥプジェは唯識思想における対象認識と自己認識を区別しなければならないと主張している。本研究は、この唯識思想と自己認識理論とを、ケードゥプジェがいかに解釈しているか解明することを中心的な目的としている。

2研究の構成
本研究は大きく第I部本論と第II部『正しい認識の結果の設定大論』原典研究とに分かれる。本論第1章では、所取の形象と能取の形象という知における二つの要素をケードゥプジェとロントゥンがいかに解釈しているか対比的に検討した。また、この所取の形象と能取の形象とは両者の対象認識と自己認識の解釈についても極めて重要なものであり、その点についても考察している。
第2章では、対象認識と自己認識とをいかなる点で分節するかという問題について、サキャ派の自己認識理論を批判するゲルク派のギェルツァプジェとケードゥプジェの解釈を検討し、両学派の差異を明確化することを目指した。この話題については、すでにDreyfus博士の研究があるが、筆者とは解釈が異なっているため、博士の解釈を批判的に検証し、再検討を試みた。
第3章では、T.ikchenIIIにおいて三性説が如何に解釈されているかを検討した。三性説は主としてアサンガ、ヴァスバンドゥ系統の唯識思想において論じられる問題である。しかしながらケードゥプジェによれば、ダルマキールティの思想には独特の三性説があるとされている。これが如何なるものであるか、同著者の手になるsTongthunchenmoと比較してその特異性がどこにあるのかを考察した。さらに、この問題は正
しい認識の結果に関する議論とも関連性を有しており、その点も併せて考察している。
第4章では、PVIII338を経量部思想とするソナムギェルツェンの解釈と比較することを通じて、ケードゥプジェがなぜそれを唯識思想として解釈するのか考察した。また、同偈についてはギェルツァプジェも異なった見解を有しており、その点も検討している。
第5章では、PVIII341–352についてのロントゥンによる解釈との比較検討を通じて、ケードゥプジェが同箇所の議論の構成をどのように理解しているかを検討した。
第6章では、現代の研究者と解釈の相違があるPVIII341-352における議論について、インドの文献を中心的資料とし、Tshad’braschenmoにおけるケードゥプジェの解釈を参照して検討した。
第II部『正しい認識の結果の設定大論』原典研究は、解題およびテキストと訳註に分岐する。解題では、ケードゥプジェの著作の動機およびその内容の構成を科文に基づいて概観した。テキストを作成するにあたって、bKrashislhunpo版を底本として使用し、その他sKu’bum版、Zhol版を用いた。加えて、中国から2000年に出版されているrJeyabsrasgzumgyitshadgzhungnyermkhodanggungthangblogrosrgyamtsho’ibsdusgrwabzhugssoに収録されている同書も参照した。
ここで本論とTshad’braschenmoの関連性を述べておく。Tshad’braschenmoは本研究の中心的主題たる唯識思想と自己認識理論に関して極めて重要な資料であり、本論全体の論述を支えるものであるが、特に1、4、6章を論ずるにあたり不可欠な文献である。第1章では、所取の形象と能取の形象に関する解釈を検討したが、Tshad’braschenmoにおいては、それら所取の形象と能取の形象の問題に関してYidkyimunselやT.ikchenIIIには見られない記述がある。第4章は、ケードゥプジェがなぜPVIII338を唯識思想を説くものとして解釈するかを検討したものである。同偈にはテキストおよび思想的な問題があるが、Tshad’braschenmo以外の論書においてそれが詳論されることはない。この問題を解決するためには同書を検討する以外はないと言える。第6章では、PVIII341–352をインドの文献を資料とし、ケードゥプジェの解釈を参照しつつ検討した。Tshad’braschenmoは、基本的に、正しい認識の結果に関するインド文献の註釈的資料であり、当該の議論に関するインド文献についての彼の解釈が如何なるものであるかを知るためのきわめて貴重な文献である。
一方また2、3、5章はYidkyimunselおよびT.ikchenIIIを中心的資料として論じた。これらの章における議論がTshad’braschenmoに全く現れていないわけではないが、2、3、5章を論ずるためには情報が散在している感があり、著者自身の考えは必ずしも十分に表明されてはいない。これに対してYidkyimunselおよびT.ikchenIIIは当該の問題に関して彼の思想がよりまとめられている。よってこの両文献を中心的資料とした。

3結論
ケードゥプジェの主要な批判対象であったと考えられるロントゥンは「所取の形象に対する自己認識説」と「能取の形象に対する自己認識説」という二種類の自己認識理論を主張している。それに対して、ケードゥプジェはロントゥンの所取の形象と能取の形象の解釈に異を唱えており、この二つの自己認識理論を認めない。
ケードゥプジェにとって自己認識は一つだけである。彼にとって、自己認識とは二段階の認識が前提とされるものである。すなわち、眼識を例えとするならば、何らかの対象として生じている眼識が第一段階の認識たる対象認識であり、その眼識を認識内部において感受するものが第二段階の認識たる自己認識である。彼の理解では、この第一段階の対象認識が所取の形象であり、第二段階の自己認識が能取の形象である。
ケードゥプジェは、この「自己認識」と「知自身と一体となっている客体の認識」を区別する必要があると主張している。この「知自身と一体となっている客体の認識」というのは、唯識思想における対象認識が知自身と一体となっている客体を認識するものであること、つまり、唯識性を意味しているのであるが、それと自己認識とを区別しなければならないと彼は強調している。この見解は特に現代における仏教論理学の研究者とも異なっている。現代の研究者の解釈においては、先述の通り、唯識思想における認識は全て自己認識であるという解釈が標準的なものである。それに対して、ケードゥプジェの理解では、唯識思想における自己認識は、認識している対象がいかなるものであるかを確定するに至る一つの要素にすぎない。
この問題は特にPVIII338–352ないしそれに相当するPVinおよび同箇所の註釈文献等で問題となる。これらの箇所において、この「自己認識」と「知自身と一体となっている客体の認識」とは同じrangrigないしrangrigpaあるいは再帰的に知自身の認識を意味する表現で記述されている。ケードゥプジェによれば、この二つの意味を分けて議論を理解しなければ、当該箇所で展開されている内容を正確に把握することはできないとされている。
彼の論理学に関する著作の内で、この問題に関して最も詳細であるのはTshad’braschenmoである。同書を参照して検討した結果、確かにケードゥプジェのように解釈することが可能であることが分かった。さらに、現代の研究者の解釈ではPVIII341–352を経量部思想が説かれていると理解することが標準的な解釈であるが、PVIII351–352に対するデーヴェーンドラブッディとダルモーッタラの註釈においては経量部思想は批判されており、従来の解釈には明かに問題のあることが分かった。
ケードゥプジェの主張する「自己認識」と「知自身と一体となっている客体の認識」の区別について、筆者がTshad’braschenmoに基づいて考察したのはダルモーッタラのPVinT.である。同書に照らすなら、ケードゥプジェの理解が妥当であることを論証することが可能であると考えられる。ただし、他の註釈者においてこのような解釈が可能であるかは明らかではない。この点については更に広範囲な調査が必要であり、今後の課題としたい。