1問題の所在
オスマン朝の起源をめぐっては、これまで様々な形で議論が繰り返されてきた。その多くは、「史実として」同朝の起源を確定しようとする試みであった。しかしこうした研究は、史料的制約に加えて、論者のイデオロギー的立場に左右される傾向も見受けられ、十分な成果を出せずに終わっている。
本博士論文において焦点を当てるのは、「史実」ではなく「言説」である。前近代のオスマン朝史家によって、王家の系譜・血統にまつわる起源伝承がいかに語られたか、その過程と背景にある論理を明らかにすることが、本稿の目的である。所与の集団の「起源」は、その構成員にとり、しばしば切実かつ喫緊の主題をなす。それは、起源を主張するという行為が、行為主体の持つ自意識および権威の問題と、密接に結びついているからである。前者はナショナリズムを準備した前近代的前提(これを「エトニ」といい換えても良かろう)、後者は支配の正当性のあり方と関係する。本稿の検討により、これらの問題について、オスマン朝史の視点から一つの事例研究を提供することができるものと考える。
本稿と問題意識を共有する研究として、近年、オスマン人の持つ自意識や、オスマン朝の支配の正当性を扱った研究が現れはじめている。これらの多くは実証的な見地からいって十分なものではないが、この分野での研究を進める機運が徐々に高まりつつあるといえる。本稿はこうした潮流を踏まえ、実証性の面でも十分な強度を備えた検討を試みるものである。
その際、本稿が焦点を当てるのは、テュルク・モンゴル系集団が共有する「オグズ伝承」、ムスリム一般が持つ歴史観である「旧約聖書・イスラーム的伝承」、そしてオスマン朝がその後継国家であることを自認し、紐帯を強調することで権威を利用しようとした「先行王朝(セルジューク朝とモンゴル)」である。これらは何れも、オスマン王家の起源意識を構成する重要な要素だといえる。
なお本稿が対象とする時期は、オスマン朝において歴史叙述が始まる15世紀初頭から、古典期の体制が整う16世紀半ばのスレイマン一世時代までとする。それは、前近代における系譜意識がこの時期までにある程度確立すると見なしうるからである。

2各章の概要
本稿の構成は、全二部で各部が三章ずつ、計六章である。第一部では、第一章と第二章の分析結果が第三章で綜合され、第二部では、第四章の分析結果が第五章と第六章の前提をなす構造となっている。

第一部「オスマン王家の伝説的起源」では、王家が自らの始祖を誰と定めていたか、そしてそれがどのように変化していったかを問うた。
第一章「オスマン王家のオグズ伝承起源:ギョクとカユ」では、オグズ伝承に由来する始祖を取りあげた。オグズ伝承とは、テュルク・モンゴル系諸集団に広く共有された、テュルク族の伝説的な始祖オグズ・ハンを主人公とする伝説である。テュルク系王朝にとって、この伝承が伝えるいずれの人物を始祖とするかは重要な意味を有した。15世紀のオスマン朝史料には「ギョク」と「カユ」という、オグズ伝承に由来する二つの始祖説話が存在した。本章では、オスマン朝以外のオグズ伝承を広く検討し、その文脈に「カユ」と「ギョク」の両始祖を位置づける作業を行い、両説が唱えられた背景を検討した。結論として、ギョクは、オグズ伝承とは無関係にオスマン集団に古くから存在した伝承に由来する可能性が高いことが明らかとなった。それ故にギョクのオグズ伝承的権威は低かったが、対してカユは、オグズ伝承において最も「正統」の地位に近い存在であった。カユは、王家のイニシアティブのもと、王家の権威強化のため新たに選択された始祖であったといえる。
第二章「オスマン王家の旧約聖書・イスラーム伝承起源:ヤペテとエサウ」においては、旧約聖書に淵源を持ち、のちムスリムに伝わった伝承に由来する始祖を取りあげた。テュルク族出身のオスマン王家は、この伝承に由来する始祖を、ムスリム史家の「定説」に従いノアの子ヤペテとしていた。しかし1480年代から、王家の始祖をエサウとする説が主張され始める。エサウはノアの子でいえばセム裔にあたり、ヤペテ説とは矛盾する。本章では、オスマン朝におけるエサウ起源言説と、オスマン朝以外の史料におけるエサウ評価を分析することで、エサウ起源説がどのように、なぜ現れたかの解明を試みた。検討の結果明らかとなったのは、エサウの子孫は、コンスタンティノープルを征服し、かつ帝王となる存在であると一部の史書で予見されていたことであった。この意味でエサウ説は、権威の低いヤペテ説よりも王家にとって相応しいと見なされたのである。
続く第三章「「オグズ伝承起源」と「旧約聖書・イスラーム伝承起源」の融合」では、第一章と第二章で検討した、全く別系統の始祖伝承が一つに融合してゆく過程を検討した。15世紀にはギョク説とヤペテ説が優越していたのが、16世紀初頭には、その権威の高さからカユ説とエサウ説が主流に取って代わった。カユとエサウは同一視すらされ、その副産物として、カユとギョクが併存するという本来あり得ない形の王統譜が登場した。エサウ説は、ムスリムの伝統的な史観であるヤペテ説に押される形で16世紀の半ば以降放棄されることになるが、追記という形で根強く残った。ときには、エサウがヤペテ裔とされることで、ヤペテ説とエサウ説の統合がなされることすらあった。

第二部「オスマン王家の先行王朝起源」の目的は、他者との関係においてオスマン王家が自己をどう位置づけたか、より具体的にいえば、先行王朝とオスマン朝との言説上の関係を明らかにすることであった。
第四章「史書の構成における先行王朝の位置づけ」では、オスマン朝史書の構成を比較することで、いずれの王朝が重視されているかを検討した。結論として、オスマン朝史書では「セルジューク朝」と「モンゴル」が、先行王朝として重視されていることが導き出された。
続く二つの章(第五章「オスマン朝歴史叙述におけるセルジューク朝との血縁・主従的紐帯」、第六章「オスマン朝歴史叙述におけるモンゴル観の変遷と血族化」)では、第四章の分析結果に従ってセルジューク朝とモンゴルに焦点を当て、両者がどのように語られているかが検討された。まずセルジューク朝についていえば、15世紀末まではセルジューク朝とオスマン朝との同族・血縁関係が主張されたのに対し、16世紀に入ってからはそのような主張は下火になっていった。これは、ルーム・セルジューク朝の権威はアナトリアに限定的なものに留まっており、16世紀以降、同朝の支配領域を越えて発展したオスマン朝にとって、権威の源泉としての魅力が薄れていったためだと思われる。これに対し、モンゴルの評価はセルジューク朝と全く逆の経過をたどった。15世紀中は否定的に描かれることが多かったモンゴルは、16世紀以降高く評価されることが一般的となり、オスマン王家との血縁関係すら想定されるようになる。これには、当時オスマン朝と抗争していたサファヴィー朝、そしてオスマン朝にとって有力な同盟者となりつつあったクリム・ハンとの関係といった、同時代的な背景が影響しているものと考えられる。両章の検討結果は、「セルジュークからモンゴルへ」という形で端的にいい表すことができよう。
さらにこのモンゴルとつながる系譜は、分岐という形で、第一部で検討したオスマン王家の系譜に接続された。すなわち、第一部と第二部で扱った、全く別の次元に属していたはずのふたつの系譜意識が、全体としてはひとつにまとまった系譜に束ねられたのである。

3結論
オスマン王家の起源言説の変化は、オスマン朝が徐々に世界帝国としての体裁を整えていく15世紀から16世紀にかけて起こった。王家の系譜意識を構成するのは、「オグズ伝承」「旧約聖書・イスラーム伝承」「先行王朝」という諸要素であった。これらの要素は、それぞれが内在させている論理そして時代状況によって集合離散を経験しつつも、一つの系譜へと収斂していった。その変化の過程からは、ふたつの「原理」が抽出できる。
ひとつは、より権威ある始祖を求める傾向である。「オグズ伝承」では、オグズ族の正統に近い始祖カユが、最終的にギョクに優越した。「旧約聖書・イスラーム伝承」では、権威が低いヤペテではなく、セム裔に属し、子孫が王となると予見されたエサウが一時期力を持った。「先行王朝」としては、ローカルな権威しか持たないセルジューク朝よりも、世界征服者たるモンゴルが重視されるようになった。こうした変遷を追ってゆくと、王家はより高い権威を有する始祖を求め続けた、という事実が浮かび上がってくる。カユ説とエサウ説が、王家の側から積極的に主張されたことを鑑みると、こうした選択はオスマン王家の権威強化という文脈で行われたといえる。
もうひとつは、様々な「起源」が取り込まれることで、系譜がより包括的なものになってゆく傾向である。最終的に成立した王家の系譜は、ヤペテ、カユ、ギョクを含み、史料によっては更にモンゴルにつなげられている。一般的ではないが、これにエサウを加える系譜も存在した。様々な起源を組み込んだ系譜は、厳密には矛盾を含むものの、様々な人々の史観や起源意識を同時に満足させうるものであったと思われる。
古典期オスマン朝王家の持つ権威の源泉にして自意識の表象たる系譜は、オスマン朝の発展と平行して、各時代の政治的・社会的状況に適合的となるよう微調整されつつ、ふたつの原理-より「正統」に近い始祖を選択することで王家の権威を高め、同時に様々な始祖を取り込むことで包括力を増す-に従って生成されたのである。