琉球王国における近世とは、一般に1609年の島津氏(薩摩藩)の琉球侵攻から1879年の琉球処分までの期間とされている。これは琉球が、14世紀から続く中国(明清)との君臣関係(冊封・朝貢関係)を維持しつつ、日本(幕藩制国家)の支配領域にも包摂されていた時期を指している。すなわち近世期の琉球とは、中国と日本に異なる形で臣従しつつ自国の運営を行う国家であった。またこの時期の大半において中国・日本は国家間の関係を有していなかったため、琉球は様々な面から両国を間接的に繋ぐ国家でもあった。
本稿はこの時期の琉球に焦点を当て、その国際的位置がどのように形成され、かつ維持されていたのかを、東アジアの国際状況―とりわけ従来の研究では看過されがちであった中日の関係性―、及び琉球の国家的営みの両面から時間軸に沿って検証し、そこから導き出し得る近世琉球の国家的特質とその歴史的意義を指摘することを目的とするものである。
本稿は三部から構成される。第一部(計三章)においては①琉球が明日両国に「挟まれていく」過程を、琉球侵攻前後の日明関係の展開と連動させて検証し、さらに②明清交替の琉球における歴史的意味、特にこの事件による日中の関係性の質的変容が琉球の国際的位置の確定と維持にもたらした意味を考察した。さらに第二部(計四章)では、特に琉清間の漂流・漂着問題に着目して、清朝の成立により最終的に確定した近世琉球の国際的位置が、王国末期までどのように維持されたのかを、琉球の国家的営みに即して検証し、中日の狭間の構造を具体的に考察した。最後に第三部(計一章)において、中日への臣従や、それによって生じる諸矛盾への対処が、いかなる国家体制と国家意識とによって支えられていたのかを考察した。
本稿の分析成果は次のように総括できる。
近世琉球の国際的位置は、16世紀前後の東アジアの動乱の中で中日関係の展開と密接に連動しながら形成された。日本では徳川政権が国家間関係の構築による日明貿易の独占的掌握を目指し、島津氏を通じて明との交渉仲介を琉球に求めた。琉球侵攻はこの政策の一環であり、侵攻後の幕府・薩摩は明の反応を窺いながら対明・対琉政策を展開した。一方、明朝は琉球問題を明日間の問題と捉え、属国琉球の維持が日本に対する優位の確保に繋がると認識していた。従って明は琉日の結託を疑い琉球への態度を硬化させながらも琉球を拒絶することはなかった。すなわち明日は琉球を各々の対日・対明戦略の重要な要素と見なし、互いを見据えつつ「琉球」という綱を引き合っていたのである。琉球が明日どちらにも完全には包摂されない位置を形成し得た最大の要因はこうした明日の関係性にあった。
加えて、この過程において琉球が示した積極性もまた重要な意味を持っていた。琉球は侵攻以前から、深まる明日対立の中で、日本の政治的・軍事的要求に「ある程度」応じながら明朝へも「従う」二方面的な外交策を展開していた。侵攻後この両義的な姿勢はより強化され、琉球は日明の相容れない要望に個別に応じようとした。それはまさに琉球が明日それぞれに対して自らの存在意義を示し、二国の狭間に積極的に位置を獲得しようとする試みであったと言えよう。
やがて日本は方針を転換し、明との国家間関係の構築を断念して琉球を通じた間接関係の充実を目指すようになった。これに伴い琉球の対明・対日外交は「明朝との関係改善により幕藩制の要請に応じる」という方針に統合されていった。また国王尚豊は「明への進貢=薩摩への奉公」を国家存続の根本とする認識を示した。すなわち琉球は、自らの獲得した国際的位置を組織的に支える国家体制の構築に向けて踏み出そうとしていたのである。
こうした中で発生した明清交替は、結果的に琉球の国際的位置の確定に大きく寄与することになった。明朝とは異なり幕府は清朝の存在を脅威と見なし、琉球に関して清朝の支配秩序を優先する意向を示したため、琉球に併存する清日の支配秩序の序列構造が確定し、日本の支配秩序の可動域は琉清関係を冒さない範囲内に限定されたのである。これにより明清交替の動乱の中で一時的に日本の支配秩序に傾斜を強めていた琉球は中国を中心とした伝統的な国際秩序へと回帰し、琉清関係の充実を図った。これを受けて清朝もまた積極的に琉球を優遇した。支配確立期の清朝にとって忠実な朝貢国・琉球の存在は政治的に重要であったと考えられる。
こうして定まった近世琉球の国際的位置は、清日二国の支配秩序を併存させながら、近世末期まで比較的安定的に維持された。そこには前記した琉球における清日の支配秩序の序列構造の存在に加え、以下の二つの要素が重要な意味を持っていた。
第一は、二秩序間の微細な矛盾を調整する琉球(首里王府)の自律的行為の存在である。琉球は清日の支配秩序の相違を把握した上で、清日各々への臣従の建前を固持しつつ、自国にとって最も整合性を持つように二秩序の矛盾を調整する国家運営を行っていた。第二は、清日の支配秩序の序列構造から派生した「清朝に対する琉日関係の隠蔽政策」の存在である。この政策は、幕府の意向を汲んだ薩摩の指示と自国の安定を図る琉球の積極的な取組によって推進され、第一・第二の要素、すなわち清日の支配秩序の衝突回避と矛盾調整を補完していた。
こうした琉球の行動を支える国家体制及び国家意識は、一七世紀後半から一八世紀後半にかけて首里王府が旧制を刷新し「近世」的な国家へと自己改革を遂げる中で、家臣団の再編・身分制の確立・儒教の導入などといった諸施策と密接に関わり合って整備された。
この改革の中で首里王府は「琉球は中国(唐)と日本(大和)との関係によって完成し、二国への『御勤』(国の奉公)を担う国家である」と自己を規定し、この概念を国内―とりわけ王府の構成員である士族層―に浸透させていった。すなわち琉球は自らの国際的位置を国家の根本要素として、またその維持(清日への臣従)を国務として定義したのである。
さらに王府は「御勤」のためのあらゆる責務を、士族個々人の職務(奉公)の中に振り分けていった。また王府は士族に対し清日と通融する国としての軽からざる「御外聞(国の評判)」への自覚と、この「御外聞」に相応しい行動をも義務付けていた。
こうして近世中後期の琉球には、士族層に「御勤」や「御外聞」のための、或いは二秩序併存の矛盾回避や隠蔽のための技能・知識・学問・教養を職務として習得させ、それを家や個人の功績、ひいては国家の命運と結び付けて推奨する国家体制が形成されたのである。それは琉球の国際的位置を組織的に維持するための国家的適応であり、清日との関係の「究極の」―その二関係が無ければ国家は成立しない程の―内在化であったと言えよう。
以上から導き出し得る琉球の国家的特質及び歴史的意義は、さしずめ次のようになるだろう。すなわち①近世琉球は中日の関係性への自己適応の産物であり、またこの関係性を最大限に活用することによって構築・維持された国家であったこと、②中日の実質的な境界は、まさに琉球の自律的な国家運営の中で管理・調整されていたこと、の二点である。
20世紀後半以降、狭間を成り立たせる大国の支配秩序に関しては研究と理論化が進められてきたが、大国を成り立たせる小国の、とりわけ複数の大国を同時に成立させる狭間の実態解明や理論化は相対的に不十分であるように思われる。しかし本稿において示したように、東アジアにおける中日の支配秩序の併存(=求心性の両立)に対して、狭間である琉球の自律的営みが果たした役割は少なくない。また琉球は中・日の支配秩序を相対化し、その実態や限界性を照射し得る歴史的存在でもある。こうした状況を鑑みるに、狭間は前近代のアジア地域の国際関係をより深く読み解く重要な手掛かりの一つであると言い得るであろう。今後は狭間の実態解明と比較分析を一層進展させ、また狭間から大国を相対化し、単なる支配・被支配や強弱の観点からではなく、相互に補完し合う固有性の総体としてアジアを、世界を捉え直していくことが、歴史学全体の課題となるだろう。