植民地後期・解放後における朝鮮社会主義者の現実認識と「転向」

洪宗郁

植民地からの解放をはさんだ朝鮮半島の近現代史を振り返る際、情勢の変化およびそれと連動する政治・思想の展開を中心に、3つの時期を想定することができる。1930年代半ば、日中戦争勃発後の戦時期、そして解放後がそれであり、戦争と解放がそれぞれ節目を成している。1930年代半ばは、民族解放運動の熱気が未だ残っているなかで、様々な模索が行われていた時期として、そして解放後は、民族国家を建設しようとするエネルギーが一挙に噴出するなかで、その方向をめぐって熾烈な角逐が繰り広げられていた時期として評価される。そして、韓国・朝鮮の政治あるいは思想の流れを説明するうえでは、戦時期を跳び越えてこの2つの時期をつないで理解する方式が、一般的に取られてきた。その間に挟まれている戦時期については、国外の民族解放運動に歴史の「正統性」が求められる一方、植民地朝鮮内における知識人の動き―主に体制協力あるいは体制容認の態度―は、歴史からの逸脱と見なす傾向が強かった。
思想あるいは知識人のあり方に焦点をあてて考えるなら、植民地朝鮮の戦時期を表すキーワードは「転向」であろう。本稿では、植民地下における社会主義者たちの、戦時期に「東亜新秩序」あるいは「大東亜共栄圏」の可能性に賭け、また解放後に民族国家の建設に参加するという、一見矛盾と逆説に満ちた足跡から、戦争と解放を貫く「知」の流れを読み取ることを試みた。そのため、戦時期に「転向」を表明していた、あるいは「転向」と呼ばれるような態度をとっていた、金明植・印貞植・朴克采・尹行重という4人の社会主義者を取り上げ、彼らの実践を周辺情勢の変動と交差させつつ、彼らが生き抜いた時代の像を描いてみた。本稿では、倫理主義的な非難や状況論理に導かれた合理化を超えて、「転向」に対する内在的批判・理解を志向した。「転向」とは、思想および運動の断絶であったが、また同時に連続の側面も存在していたといえる。本稿は、戦時期という思想空間の性格を明らかにすることによって、1930年代半ばから戦時期を経て解放後へつながる、朝鮮半島の近現代思想史を再構成するものである。
序章では、まず植民地朝鮮の「転向」を取り上げる意味について、日本の思想史研究がつくりあげてきた「転向」の概念を、植民地帝国の次元に広げて批判的に検討することによって、その脱構築を目指すことを明らかにした。そして、本稿の分析対象となる植民地朝鮮の戦時期に関する先行研究を、戦時期の欠落、「親日」研究、「転向」研究、植民地近代論、総力戦体制論・「戦時変革」論の順に検討した。先行研究と関連付けて本稿の分析方向を整理してみると、植民地近代論の成果を踏まえて総力戦体制論・「戦時変革」論の補完・克服を目指すということになる。
第1章では、植民地朝鮮における「転向」の推移に対する分析を通して、朝鮮では日本と違って日中戦争期に「大量転向」が発生したことを明らかにした。そしてその事実から、国際情勢の変動と関連して日中戦争期という歴史的条件の持つ特殊性に注目し、また植民地朝鮮の「転向」においては民族問題が核心的な論点であったことを明らかにした。「転向」の論理については、日中戦争期における「東亜新秩序」の構想と、それを受け入れることによって提起された「協和的内鮮一体論」を検討し、「転向」の論理の中で民族問題がいかに説明されていたかを分析した。第1章での「転向」の推移と論理に対する分析は、第2章以下で個別事例の分析に入るための準備段階としての意味を有する。
第2章では、植民地朝鮮の初期社会主義運動に著しい足跡を残していた金明植の思想の軌跡を検討した。まず、金明植が、戦間期における世界秩序の新植民地主義的再編の動きを「非植民地化」と規定・批判し、朝鮮研究などを通じて朝鮮という主体を立てることで、それに立ち向かおうとしたことを明らかにした。次に、日中戦争期に入って、金明植がこだわり続けた朝鮮という主体が、帝国という主体に包摂されていく論理の回路を検討した。一方、金明植の「転向」に込められていた近代批判の性格については、その可能性と限界の両面を捉えた。
第3章では、農業経済学者である印貞植の実践を、解放後までを視野に入れて分析した。まず、印貞植の半封建社会論に内在していたアジア的停滞性論が朝鮮という主体の軽視につながり、結局「転向」に向かう通路として機能したことを明らかにした。「転向」後については、むしろ朝鮮の言語・文化の独自性に対する関心が増加すると同時に、農工併進による朝鮮独自の発展が企てられた点に注目し、「転向」が持つ両義性を吟味した。また、そうした企ての挫折から、植民地近代・総力戦体制の持つ限界を指摘した。解放後については、印が掲げていた平民的土地改革と自主経済のスローガンを、戦時期の朝鮮に課されていた課題の延長線上で理解することによって、「解放」の持つ意味を考察した。
第4章では、植民地期・解放後にかけて朝鮮を代表する経済学者であった朴克采・尹行重の経済論を検討した。まず、1930年代、アカデミズムの領域を超えて積極的な社会的実践を試みた植民地朝鮮の知識人たちの動きを意識しつつ、朴克采・尹行重のマルクス主義経済論の展開を分析した。続いて、戦時期に朴克采と尹行重が経済統制の進展と広域経済の樹立に社会変革の可能性を見出そうとした点に注目し、「転向」の持つ連続と断絶の側面を考察した。解放後については、二人とも民族経済の建設のために積極的な実践にのり出した点と、特に尹行重の場合、1950年代、北朝鮮における経済路線をめぐる論争に一定の役割を果たした点を分析し、戦争と解放を貫く「知」の軌跡を確認した。
終章では、金明植・印貞植・朴克采・尹行重についての考察を基にして、1930年代から解放後にかけての朝鮮近現代思想史の全体像を、主体形成の企てという観点から描き出した。まず、1930年代、反帝民族統一戦線および朝鮮研究の不振の原因を、植民地における主体形成の困難という側面から捉えなおした。戦時期については、人民戦線-国民戦線および帝国の中心-植民地という構図が複雑に錯綜する世界情勢の変動と関連付けて、社会主義者の「転向」に込められていた反資本主義・脱植民地という主体形成の熱望を確認した。解放後の民族国家の建設については、植民地期とりわけ戦時期の朝鮮社会に課されていた課題が、変容しながらも持続した側面を明らかにした。また、植民地期・解放後にかけて知識人の思想の軌跡を追うことによって、植民地性の問題とくに自主と従属という枠組みが持つ規定性を吟味した。
第1次世界大戦は、近代の矛盾が噴出した事件であった。途方もない暴力と犠牲を前にして、それまで近代社会を支えてきた諸規範は大きく揺れ始めた。既存の世界体制、すなわち植民地帝国もその限界を露呈したことになる。近代の矛盾に直面して、それを克服しようとする動きが「改造」の気運として現れたとすれば、それを管理し、再び体制内化しようとする努力は「総力戦体制」の樹立を生み出した。1920年代半ばには一定の安定期が到来するが、1929年の大恐慌を契機にして、矛盾は再び爆発することになる。植民地朝鮮で起きた急激な社会運動の高揚も、こうした巨視的な脈絡のなかで捉えることができる。しかし、ヨーロッパのファシズムと同様、日本の「現状打破」の政策は擬似革命的性格を帯び、民衆のエネルギーを吸収しつつ成長していった。満洲国の成立は、その状況を象徴している。
植民地朝鮮の社会運動が鎮静化する中で、一部社会主義者も参加する形で、朝鮮研究のブームが起きた。それは、国際主義・普遍主義一辺倒であった既存の運動に対する反省から来たものであり、国際主義と民族主義を調和させようとする努力であった。すなわち、朝鮮という主体を、退歩や停滞のイメージから掬い取って、新しい抵抗の根拠としようとするものであり、ヨーロッパや日本の人民戦線の動きと連動する、反帝民族統一戦線の思想的根拠として評価されうる。しかし、社会主義運動の主流からの評価は否定的なものであった。健全な民族ブルジョアジーあるいは教養と伝統を擁護する自由主義者が存在し得ない植民地状況で、民族統一戦線・人民戦線の樹立は困難なものであった。それは、植民地における主体の不在、すなわち解放の不可能性を意味するものでもあった。戦争の脅威に直面して国共合作という抗日民族統一戦線が成熟していった中国の状況と比べると、植民地といわゆる「半植民地」との差異は明らかである。植民地朝鮮には、深い沈滞と挫折が訪れた。
日中戦争の勃発による総力戦体制の本格化は、植民地朝鮮社会にも大きな変化をもたらした。日本における革新勢力の拡大は、国家が主導する社会変革に対する期待を引き起こした。植民地朝鮮人の主体的な戦争協力を引き出すために掲げられた「内鮮一体」は、朝鮮の主体性に対する関心が爆発する契機として働き、戦争協力の見返りとして朝鮮の独自的発展の保障を要求する一種の「戦時変革」論へもつながった。「大量転向」として現れた左派知識人の思想の転回は、民族統一戦線・人民戦線に対する熱望を遅延し屈折した形で反映していたと言えよう。しかし、こうした主体形成の企ては、帝国日本の秩序の中に受け入れられることなく、圧殺されてしまった。
解放によってようやく人民戦線・民族統一戦線の条件が整えられた。戦争と同様、解放も外部から与えられたものであったが、それを受け入れ、「反帝反封建」の課題を遂行するための契機としようとする努力は続けられた。そこでは、戦争と解放を貫く主体形成の企てを確認することができる。冷戦体制の形成と、それによる分断と戦争の渦中で、主体はさらに甚大な変容と屈折を被ることになる。

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