レヴィナスが論じるのは、何ものかと相対的ではない、「絶対的に」他なるものである。しかしそれは、どのようにして可能になるのだろうか。レヴィナスが採るのは、一見矛盾しているが、徹底的に主体性を考察する仕方である。ただし、他なるものをとらえ、認識できる主体ではなく、反対に、それをとらえきれずに、取り逃がし、そればかりか他なるものの切迫から逃げられずに、とらえられ、侵される主体である。その、取り逃がすさま、自らの能力を超えたものをむかえるさまを探求することが、他なるものを考える唯一の方法だとレヴィナスは考える。このさまとは、他なるものが、主体に交わり、主体のうちにあるにもかかわらず、主体において、それを本質的に超え出るさまであり、このことをレヴィナスは、「超越」あるいは「超過」と呼ぶ。
主体が他なるものに超過されることが、他なるものとの関係それ自体なのである。すると主体とは、他なるものとの関係の「場」であることになる。一方で、認識の主体として、また所有の主として、他のものに働きかけ、力を及ぼす主体が、他方では、少しも能動性の余地なく、他なるものに侵され、傷つけられる仕方でそれとかかわってしまってもいる。主体とはじつは、このような「両義性」だとレヴィナスは考える。主体が認識し、存在者として存在し、他に能動的に力を及ぼす「自律」したものであることは疑う余地がないから、主体において他なるものとの関係を考察することとは、主体をこのような「両義性」として見ることに他ならない。
主体が「両義性」であることは、それが身体をもつこと、正確には、身体で(・)ある(・・)ことによって可能になる。というのも、主体は身体であるがゆえに、大地の上に立って身を支え、動き、食べ物を摂り、快楽を得ることができるし、それを基盤として、至高の能動性である認識の主体にもなることができる。しかし他方で、身体であるがゆえに、主体は逃れえない弱点をかかえてもいる。身体は、疲労し、倦怠をもよおさせ、あるいは傷つき、病にかかり、老いて、いずれ朽ち果てるからである。他なるものが迫り、襲うのも、この身体である。むしろ、すでに身体は主体にとって他なるものであり、その測り知れない他性を前面に押し出すのが、他の人間の顔あるいは切迫なのである。レヴィナスが、主体における他なるものの「超過」を見るのは、まさにここにおいてである。超過は、身体において、身体の他性を通じて、身体の他性によってこそ起こる。

本稿は、上記のような考えにのっとって、身体と分かちがたく結びついた「超過」を主題として、いくつかの観点からそれを考察する。それは、「無限の観念」、「苦しみ」、「悪」そして「被造性」である。それぞれを順に、第一部から第四部の主題とする。

第一部無限の観念

他なるものとの関係としての「超過」の構造を、何より明瞭に表しているのは、レヴィナスにとって、デカルトの「無限の観念」の考察である。こうした観点から無限の観念は、レヴィナス自身の思想にとりいれられ、独自の概念として、他なるものとの関係の基盤を成している。とはいえ、無限の観念だけによっては、身体の側面を考察することがむずかしい。そのため、しだいに、無限の観念をいだくコギトは「受肉」したものだと考え、無限の観念は、受肉したコギトを襲い、傷つけるものと考えるようになる。それとともに、身体の考察も豊かに、また掘り下げられていく。

第二部苦しみ

身体はしかし、初期から、存在することすなわちイリヤとの関係を通じて、すでに独自の仕方で考察されている。注意深く見直して見ると、そのなかで、いずれも「苦しみ」が重要な役割を果たしていることが分かる。第二部では、初期から後期に至るまでの思想を、身体と苦しみの観点からたどりなおす。それを通じて、主体が「両義性」であることが明らかになる。主体が両義性であるとは、自律した側面と同時に、他なるものに依存し、ときにはそれを少しの能動性の余地もなく絶対的受動的に被る側面とをあわせもつことである。つまり主体とは自律と依存または絶対的受動性とのあいだで不安的な均衡を保っている両義性なのである。ところが、無限に他なるものとの関係とは、この均衡を絶対的な受動性の方へと一気に傾け、振り切らせることである。

第三部悪

レヴィナスは、上記のような苦しみの「超過」の性質をとくに悪と呼ぶことがある。このことはレヴィナスにとって、悪を苦しみとして、悪を苦しみに基づいた超過として見ることでもある。善を基準として、それとの関係で悪が決まるのではない。言いかえれば善の欠如を悪とみなすのではなく、善とされる基準を「無意味」かつ無力にし、それを「超過」するものを悪とみなす。この見方は、悪を苦しみに根差すものと考えることによってはじめて可能になる。第三部では、レヴィナスにおける悪の超過を、ナベールの悪の超過を参照しつつ論じる。ナベールにおいて悪の超過の考察を支えているのは、必ずしも、主体が身体であることではない。この点を確認することが、レヴィナスの悪における、身体の位置づけを別の角度から考えることを可能にしてくれる。

第四部主体の被造性

これまで見てきたように、主体において他なるものを考察する試みは、主体を両義性ととらえることにかかっている。レヴィナスは単に、主体は自律から、依存へあるいは絶対的な受動性へと移行するとか、移行するべきだとか主張するわけではない。両側面が交錯しつつ共存していること、つまり両義性であることが重要である。とはいえ、主体はどちらともつかない曖昧さなのでもないし、どちらかが入れ替わり立ち代わり主体に現れるということでもない。両者の関係は、レヴィナスにおいて、はっきりしている。受動性の側面が、自律に先立ち、それを可能にしているという関係である。ただし、受動性が単に、時間的に自律に先行するのではなく、そのような時間系列にはのらない、隔時的な仕方で先立っているという。したがって、そのような「無起源」は、主体が見出すことがなければ、その「無起源」が主体を成り立たせ、支えているにもかかわらず、気づかれることも、考えられることもけっしてない。このような自律と依存あるいは絶対的受動性との関係を、第四部で、主体の「被造性」の観点から論じる。

無限に他なるものとは、自律においてではなく、絶対的受動性においてすでに逃れがたくかかわっている。とすると、主体は、自らの存在をじつは支えている、無起源における他なるものとの関係に、「自然に逆らって」遡ることになる。ただ、主体は自らの意志によって遡るのではなく、目の前の他の人間の切迫に、そうすることを否応なく強いられてしまう。具体的にはそれは、身体が重みを支え、傷つき、侵されることである。すると否応なく他なるものとの関係に遡行することとは、苦しみであり、超過に他ならない。