中世僧侶集団の成立史的研究―律家および三鈷寺流を中心に―

大塚 紀弘

〔第一部〕中世仏教を論じる際に、顕密仏教に加えて、禅律仏教という枠組みを設けることが有効である。中世では仏教勢力を認識する際に、「顕密」と並んで「禅律」という枠組みが一般的に用いられた。この「禅律」という枠組みが形成される背景には、南宋仏教の影響・受容があった。南宋「禅教律」観という仏教観は、栄西、俊芿を嚆矢とする入宋僧により紹介され、「禅教律」十宗観という新たな仏教観が成立した。これは、顕密仏教で共有されていた「顕密」八宗観とは異なり、八宗に禅宗と浄土宗を加え、それら十宗を「禅教律」という宗派を超えた枠組みでとらえる仏教観であった。「禅教律」十宗観を背景に、禅家、律家および浄土宗といった僧侶集団は「禅律」という新たな枠組み、すなわち禅律仏教として把握されるようになった。南宋仏教の影響は、仏教観のみにとどまらず、寺院の制度や文化に関わる点に及んだ。国風文化の影響の下で展開した顕密仏教が国風仏教と特徴づけられる一方、寺内組織、堂舎の名称、僧侶の通称など多方面にわたり、宋代中国の寺院制度、文化を受容した禅律仏教は宋風仏教と評価できる。それは鎌倉時代に始まった仏教改革運動が、同時代の中国仏教に範を求めた結果であった。顕密仏教と禅律仏教を、中世仏教の二つの対照的な僧侶集団として設定することで、それぞれの特質がより明らかになるのである。
鎌倉時代に始まった仏教改革運動は、仏教本来の実践性を取り戻すことを目指した。その背景には、末法意識の中で仏教本来の修行体系である戒定恵三学の衰退に対する問題意識があった。顕密仏教では三学が観念的にとらえられる傾向にあり、三学のうち智恵のみで足るとされていた。こうした状況に対する改革運動は、次の二つの方向性で展開された。①仏教本来の修行体系である三学に立ち返って、悟りへの道筋を構成し直そうという方向。栄西、俊芿を嚆矢として形成された禅家・律家そして三鈷寺流では、末法にこそ三学興行が必要であると捉え、禅定・持戒を根本にしながら、三学兼備を理想と考えた。この方向に形成された僧侶集団として、禅律仏教を位置づけることができる。②修行の体系としての三学の意義を否定し、それに代わって信仰に基づく新たな救済を追求する方向。法然・親鸞や日蓮は、末法における三学の意義を問い直し、三学による修行体系を超越し、信仰による新たな救済思想を形成した。
〔第二部〕律僧により新たに形成された律家の日常的な特質は、「衣食」における律法の護持にあった。他の僧侶集団との差異を明確化したのが、日常生活の作法に関して詳細に規定する『四分律』やその注釈書に基づく日常生活の集団的規制であった。『四分律』における衣食の規定に着目すると、顕密仏教に対する中世律家の革新性・独自性が明確になる。僧侶であることを身分標識として外見的に示す袈裟に関して、顕密仏教の小袈裟に対し、律家では、墨染または香染の大袈裟を着用した。また、顕密仏教では省みられなくなっていた持斎(午後に食事を取らないこと)を遵守した律家では、食事を朝粥・中食の二食に限定した。以上のような特徴は、栄西を嚆矢として形成された禅家とも共通し、禅家・律家および三鈷寺流は持斎の僧侶集団であった。持斎には来世に果報をもたらす作善の他に、現世利益の功徳があるとされたことが、集団的規制として持斎が受け入れられる背景にあった。鎌倉前期には栄西によって、中期以降は西大寺流によって、持斎や八斎戒が世俗社会にも盛んに弘通された。鎌倉期に始まった仏教改革運動は、世俗社会も含めた持斎の弘通を最大の特色としたのである。
衣食の改革から始まった南都と北京(および山門)における律法興行運動は南北交流の中で展開した。律家が強く意識したのが、中国宋代に形成された「禅教律」三院のうちの律院で、鎌倉前期に入宋僧の俊芿が南宋の律院・教院を規範として、北京に泉涌寺を建立した。他方、南都や山門における律法興行運動は、持斎の復興を出発点とした。持斎や衣鉢について俊芿に尋ねた貞慶を嚆矢とし、次いで、鎌倉中期には布薩や僧堂における僧食の作法が、泉涌寺から南都(西大寺、唐招提寺、戒壇院)および法勝寺、元応寺を拠点とする山門黒谷系の律家に伝播した。こうして衣食改革を起点に始まった律法興行運動は、南都・北京の交流の結果、律家という共通の特質を帯びた社会的集団の形成に至った。
律家は世俗権力のみならず、中世都市に住む多様な人々に支えられた僧侶集団であった。中世最大の都市である京都において、律家は幅広い階層の都市民に働きかける活動を展開し、その支持を得ることで勢力を拡大し存続を図った。鎌倉期には、泉涌寺を拠点とする北京律家に続いて、南都系の律家が京都に拠点を設けた。南北朝期以降、京都の律家は都市民が出入りする都市寺院としての性格を強めた。多くの律家は南北朝期から室町期にかけて、不特定の都市民に働きかける勧進芸能を興行することで修造費用を賄った。また、庶民信仰に訴えかけて信仰財を獲得した他、都市民の葬送、追善供養を担った。また、天皇家、貴族らは、受戒、葬送、追善仏事、祈祷を通じて特定の律家と関係を深め、また室町幕府も様々な形で有力な京都の律家をその体制仏教の中に取り込もうとした。
他方、東国最大の都市である鎌倉では、西大寺流の忍性が極楽寺を拠点として律法興行を展開した。鎌倉幕府と密接な関係を背景に、鎌倉で飢人・病人・非人などの救済、港湾の整備など様々な活動を展開したことがよく知られるが、こうした社会的活動の空間は極楽寺の周辺地域であった。極楽寺の内部空間は、律法興行のための日常的活動が行なわれる場であった。
〔第三部〕鎌倉前期に、栄西・俊芿を嚆矢とする入宋僧により南宋仏教の「禅教律」観や「禅教律」三院の行事や作法が日本に導入された結果、特に南宋の禅院・律院を意識した禅家・律家という新たな僧侶集団が成立するに至った。他方、教院もまた中世仏教に一定の影響を及ぼした。鎌倉前期には、南宋の教院に学んだ俊芿を始めとする入宋僧によって、南宋の教院(および律院)を模範として、京都に泉涌寺や大慈園寺が建立された。ただ、両寺は教院という側面を持ちながら、一貫して律院を称しており、教院は新たな僧侶集団を支える主張として、有効性を持ちえなかった。
中国の禅院・律院を意識した僧侶集団として、禅家・律家の勢力が拡大する中、鎌倉末期から南北朝期にかけて、三鈷寺流は教院興行を掲げて、新たな僧侶集団を形成した。鎌倉末期に三鈷寺の住持となった康空は、最澄時代の延暦寺を規範として衣食を改革し、インドに大乗寺の系譜を引く中国の教院における作法を導入しようとした。康空は後醍醐天皇や上層貴族の帰依を受けて、洛中の大慈園寺の住持を兼帯した。さらに、門弟の仁空・照源らは、朝廷や室町幕府の支持を得、廬山寺や近江・山陽地方などにも教院興行を拡大していった。
康空が最初に改革の対象としたのが僧侶の「衣食」で、仁空がこれを引き継いでその規定を整備した。服装では律蔵の規定に近い大きさの大袈裟を着用し、食事では持斎が守られ、朝昼に僧侶集団が一堂に会して僧食が行なわれるようになった。三鈷寺流は禅家・律家と同様、持斎の僧侶集団で、持斎を省みない顕密仏教との差異は鮮明であった。
三鈷寺流の教院興行は中国の教院を規範とした改革運動で、制度的に寺内の役職名、食事の作法を受容した他、宋風文化も積極的に取り入れていた。また戒定恵三学のうち、智恵を第一とする教院の興行を掲げた三鈷寺流では修学が重んじられ、天台・真言・円戒・浄土の四宗が兼学された。ただし、最澄が延暦寺建立の際に依拠したインドの一向大乗寺を根本的な規範し、中国の教院もその系譜を引く寺院とされたため、中国の教院という新儀の導入と、延暦寺本来の作法への回帰を並存させていた。菩薩比丘の僧侶集団である三鈷寺流は、大乗戒経に依拠しようとしたが、それに規定がない作法については、『四分律』など律家の作法書を広く参照し、必要に応じてその規定を採用した。「衣食」の改革を出発点に、さらに中国の教院や律家・禅家を参考にして「住」についての様々な作法が制定された結果、寺院における日常生活の「衣食住」が刷新された。律家との共通点や宋風文化の受容をふまえると、三鈷寺流は顕密仏教と対照的な禅律仏教という枠組みにより理解することができる。
〔総括〕鎌倉前期に末法意識が深まる中で、仏教の修行体系である戒定恵三学の意義を問い直そうという僧侶が現われた。三学のうち、智恵すなわち修学に力点を置く顕密仏教に対して、より実践的な修行である禅定・持戒に重んじることで三学を興行しようとする動きが大きな潮流となった。そして、三学の修行にふさわしい生活環境の確保という点から、僧侶集団本来のあり方として、日常生活の集団的規制が省みられ、「衣食」の作法が最初に改革の対象とされた。この点で、従来の顕密仏教との差異が、日常生活の上で明確にされた。
鎌倉前期には、俊芿、栄西を始めとする入宋僧により、中国の禅院・律院における儀式・作法が日本にもたらされ、修行の場である寺院における日常生活の規範として積極的に採用された。鎌倉中期から後期にかけて、こうした改革運動が広く社会的な支持を獲得した結果、新たな僧侶集団として禅家・律家が形成された。さらに、鎌倉末期から南北朝期になって康空・仁空は教院興行を掲げ、中国の教院を意識した三鈷寺流という新たな僧侶集団を形成した。
禅家・律家および三鈷寺流が南宋仏教から受容した要素は、日常生活の作法のみならず、「禅教律」観という仏教観や種々の寺院文化にまで及んだ。以上の僧侶集団は、大袈裟・持斎といった衣食における日常的特質から、宋風仏教という文化的側面に至るまで共通の特質を持っていたのである。そこで世俗社会は、鎌倉中期以降、こうした新たな僧侶集団を一括して「禅律」という枠組みにより認識するようになった。これこそが禅律仏教に他ならない。三学興行という日本仏教の内在的動向に、日宋交流の活発化による南宋仏教の影響・受容という外在的契機が伴った結果として、禅律仏教の形成に至ったのである。

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