本論文はシュレーゲルの著作、遺稿、および講義の聴講者による筆記録を、1795年から1805年まで基本的に通時的に概観し、古典文献学から出発した彼の最初期の美学から、雑誌『アテネーウム』の諸論考に代表されるいわゆる「イェーナ・ロマン主義」あるいは「初期ロマン主義」時代の美学への移行、さらにロマン主義サークルの解体後の彼のカトリックへの傾倒が、共同体という観点から見ていかなる意味を持つのかを分析した。以下に各章の議論を概括する。
第一章では、最初期シュレーゲルの美学的著作「ギリシア文学の研究について」(「研究論」、1795,1797)における芸術の歴史哲学を再構成することを試みたが、その際の糸口として、シュレーゲル自身が「リュツェーウム断片集」(1797)においてこの論考に「アイロニーの欠如」がみられると評していることに着目した。一方では、「研究論」において枢要な役割を担っている芸術の「無限の完全化可能性」という構想は、「リュツェーウム断片集」におけるアイロニーの理論と確かに一定の類似性を持っている。しかし、アイロニーの理論には哲学を体系に叙述することの可能性への懐疑が見られるのに対して、「無限の完全化可能性」の構想は、「客観的美学理論」の普遍的体系が確立されることを前提とした点で相違がある。芸術の「無限の完全化可能性」の構想は、近代ヨーロッパの「作為的形成」によって古代ギリシアの「自然的形成」が遺した文学を乗り越えて進歩することを目指すものだったが、同時に、フランス文化の「伝達能力」とドイツ文化の多面性および学問とを統合することによって、近代に新たな普遍的で統一された共同体を創出する理念も含意した。しかし「研究論」には「無限の完全化可能性」の構想と並んで、古代ギリシア文学を芸術の「絶対的最高点」とみなす歴史観が見られ、両者は相互に矛盾した。これら二つの歴史観が並置されていることによって「研究論」の歴史哲学は錯綜、混乱した様相を呈し、特にシュレーゲルは「美的革命」以降の芸術の新時代をあたかも古代ギリシア文学そのものの再生のように性格づけ、「無限の完全化可能性」の構想から逸脱しており、「作為的形成」によってのみドイツ人が獲得しえた趣味の多面性と学問的知識によって新たな趣味の共同体を樹立するという構想にも矛盾したのである。
「研究論」では、「客観的美学理論」がギリシア文学史という実例に裏付けられた上で「公論」に受け入れられ、「真の権威」を獲得することが芸術の「無限の完全化可能性」の前提とされており、この点で趣味の共同体が芸術家個人の創造を可能にするという枠組みになっているが、その後のロマン主義時代のシュレーゲルの場合には、芸術家個人の精神のうちに見出される無限の創造性が、芸術創造の源泉とみなされている。この初期シュレーゲルからロマン主義的シュレーゲルへの移行を検証するために、第二章では、シュレーゲルの1796年の政治論文「共和制の概念についての試論」(「共和制論」)を取り上げ、従来フランス革命擁護の書と理解されてきた「共和制論」において、共和制を擁護するシュレーゲルの議論が、逆説的に個人による絶対的支配の正当化となっていることを明らかにした。この論文には、政治制度の基礎を共同体の「公論」に求める議論と、統治者個人の卓越した精神に求める議論とが併存し、前者の議論が(逆説的に)後者の議論を正当化するという構造が見られるのである。すなわち、シュレーゲルは「研究論」でも称揚した古代ギリシアの統一された共同体を前提として共和制を構想したが、まさにそれゆえに彼は、公共的道徳一が存在しない近代には専制君主が人民の教育者として支配することが適していると論じたのである。さらに「アテネーウム断片」第369番では、君主はもはや民主制的共和制の実現までの暫定的存在ではなく、「国家の世界霊」としてそれ自体が(何かの代理としてではなく)国家の全体性を代表する存在とみなされていることも指摘した。この点で「共和制論」には、趣味の共同体から芸術家個人の精神へというシュレーゲルの美学理論の移行と平行する現象が見いだせる。
第三章では、シュレーゲルの文学理論において、芸術創造のための前提条件が、もはや趣味の共同体ではなく、創造する個人の精神の潜在的な無限性とみなされるようになる過程を追跡する。その際に導きの糸となったのは、シラーの論考「素朴文学と情感文学について」(1795)からシュレーゲルが「情感的」の概念を受容し、自らの美学の発展的変容に合わせてその都度意味を変形させつつこの概念を利用した過程である。シュレーゲルは「研究論」本論(1795)においては「関心を惹くもの」を「個別的なもの、独創的なもの」の描写として否定的に評価し、とりわけ近代文学の頂点としての「哲学的悲劇」(『ハムレット』)を論じる際に、運命から疎外され自然の全体性から分離された孤独な個人を批判したが、シラーの論考を受容した後の「研究論」序論(1797)では、文学における「関心を惹くもの」は、個体的なものの表現を通じて理想に現実性の「イリュージョン」を与えうると積極的に評価し、このような文学を「情感文学」と呼んだ。さらに彼は、シラーの「情感文学」論の用語を利用して、「アテネーウム断片集」(1798)では「超越論的文学」の構想を定式化したが、これは(シュレーゲルの定式化した)「情感文学」から「ロマン的文学」への移行を包括している。「アテネーウム断片集」において「ロマン的文学」とは、文学作品の内部、あるいは文学作品相互の間で行われる変容を伴う反復と再創造(「詩的反射の累乗」)によって表現行為そのものを前景化させ、「古典性」と「進歩性」とを統合する文学である。そして「小説(ロマーン)についての書簡」(1800)では、個人としての、また総体としての著者による際限のない創造の反復が能産的自然を模倣するとされ、この模倣関係が「情感的なもの」と呼ばれている。
「ロマン的文学」の理論の哲学的前提を探るため、第四章では、シュレーゲルが「アテネーウム断片集」および「超越論哲学」講義(1800-01)において展開した理想概念を分析した。彼は、「超越論哲学講義」において唯一無限の実体を想定する一方で、世界は生成過程にあるために、この実体は多数の有限な個体において断片的かつ歴史的に表現されると論じる。シュレーゲルによれば、それぞれの個体の課題は自己の個性を追求することであり(彼は、「誰もが自分自身の理想を探求せよ」と述べる)、それら個体は共通の実体から形相(「知性のエネルギー」)を受け取っているので、根源的な調和関係にある。このような哲学構想において、理想は、有限な個体の個性の完成であると同時に、唯一無限の実体の像でもあるとされる。しかしこの理想を構想するためには、生成の途上にある世界のなかにありながらその完成態を予見する特殊な能力が必要であり、シュレーゲルは、多様な諸個体についてそれらの理想を構想しうる精神の中では、「宇宙が成長しきって成熟している」(「アテネーウム断片」第121番)と述べ、さらにこの精神を「天才」と呼ぶ(「超越論哲学講義」)。理想を構想するためには既に「自然の恩寵」によって理想と一致していなければならないという循環がここにはある。
ロマン主義的シュレーゲルはこのように芸術家個人の精神の無限性を芸術創造の源泉と捉えるが、これをもって単純に、社会関係の意義をシュレーゲルが軽視したと非難することはできない。本論文第五章では、『ルツィンデ』(1799年)を分析し、そこに、芸術創造にとって恋愛と友情という親密性が重要な役割を果たすという思想が見られると指摘している。それによれば、芸術家は恋愛において自己の個性を全面的に肯定される経験を経ることによって、はじめて自己の精神を外的な現実と和解させる。そしてこれがこの精神の外化としての芸術創造を促進する。また恋愛によって成熟した芸術家は、友情という他の親密性を通して、恋愛という二者関係を相対化すると同時に、芸術家相互の間で個性を補い合うのである。それ自体として無限である芸術家の精神が、その個性を友情によって相互に補完しあう、というモデルは、「神話についての演説」(1800)にも展開されているが、これは「ロマン的文学」における著者相互の再創造の関係、さらに「超越論的哲学」講義における、「世界の完成」のための諸個体の協働という構想と趣旨を同じくする。
第五章で注目した、友情を介した芸術的創造性の相互補完という構想は、特権的な天才相互の関係に留まるものであり、この関係とその外部との関係がさらに問題となった。この問題に答えるため、第六章ではシュレーゲルにおける「新しい神話」の構想、さらに神話と哲学の関係に関する見解の変遷を検討した。1798年の『ギリシア・ローマ文学史』によれば、古代ギリシアには二種類の神話、つまり、哲学とは疎遠なホメロスおよびヘシオドスの叙事詩、そして近代を先取りし哲学を生み出した神秘主義があった。前者が知識と芸術全体の源泉として、古代ギリシアの社会全体を統一する役割を果たしたのに対して、後者においては、真の教説は秘教的な秘密として少数の「聖別された者」に独占され、大衆はそこから排除されたのである。しかし「リュツェーウム断片」第42番によれば、神秘主義の流れをくむソクラテスのアイロニーは、無限なものを言い表そうとすることの矛盾そのものを伝達することによって、公教性と秘教性の区別をもたず、哲学と文学とを包括する言語表現である。このような神秘主義に由来するが公教性と秘教性を分離しない言語表現を近代において再興することが、シュレーゲルの「新しい神話」の構想である。しかし論考「不可解さについて」(1800)が示唆するように、ロマン主義サークルの言語表現は理解不可能と非難され、彼らの協働は結局公衆の中で孤立してしまった。シュレーゲルのカトリックへの傾倒はこの孤立からの脱却の試みと理解できる。彼は以前批判した位階性を受け入れ、また公教性/秘教性の厳密な分離を主張した。すなわち、無限なものを明確に規定しようとする哲学の言語は難解であり、哲学(および神学)は秘教的なものとして少数者に独占されねばならない。秘教的なものを覆い隠す公教的なものは文学であり、文学の言語は無限なものを単に暗示するだけであるために「理解しやすい」大衆向きのものと規定されたのである。このように文学が哲学を外面的な覆いへとその地位を低下させたことによって、シュレーゲルのロマン主義的芸術理論は解体したのである。