現代ロシア語学のための基礎的記述法の研究

古賀 義顕

本論文は現代ロシア語の音声学および音韻論を中心に筆者が重要と考える各課題およびその解決方法に仮託して現代ロシア語学の基本的な記述方法を探求した論文である。第I部日本語論文と第II部ロシア語論文からなり、後者には第I部第1章および第3章に加筆のうえ露語訳した論文を参考として付録する。

<第1章現代ロシア語の母音体系:単音[i]と[ɨ]の構造的解釈>
現代ロシア語の母音体系については、従来2つの解釈が併存しており、いまだに決定的な解決を見ていない。この解釈の相違は、非円唇前舌高母音[i]と非円唇中舌高母音[ɨ]を同一音素とみるか否かによるものであり、モスクワ音韻論学派の研究者はこれらを同一音素の異音であると解釈し、他方ペテルブルグ学派の研究者は異なる2つの音素と解釈し、この2つの観点は相容れないものとして長い間対立してきた。この2つの単音の分布を見てみると、[i]は軟子音の直後ないし語頭にのみ現れ、これらの環境に[ɨ]が立つことはなく、なるほどこれら音声的に類似しつつ相補分布を示す2つの単音は、同一音素に該当するといえそうだ(モスクワ音韻論学派の視点)。他方で[ɨ]という単音を母語話者は[i]と異なる音としてはっきりと認識し、かつこの単音を単独で発音することができるため、きわめて自立性の高いものとして別途音素として扱うことも可能である(ペテルブルグ学派の視点)。後者の立場に立てば、[ɨ]を表す字母ыを音韻表記できない前者の解釈は不備であり、また前者の立場に立てば、字母ыは単語ではなく、また他の母音と異なり[ɨ]がけっして単独で語頭に立たないなど特殊なふるまいをみせる以上、/ɨ/をあえて音素としてレパートリーを増やすのは経済的ではない。こうした従来の解釈をふまえ、本章では声門破裂音および軟口蓋接近音の音素的な価値に着目し、これを別途音素/ʻ/として立てると同時に「現代ロシア語のいかなる音節も子音ではじまる」と解釈しさえすれば、[i]と[ɨ]に共通する特徴の束としての音素/ɪ/を立てることが可能になり、これらの単音は、[i]=/jɪ/、[ɨ]=/ʻɪ/と解釈できるようになることを指摘した。さらに、従来の伝統的な記述による母音体系とは異なる母音体系を提示した。この解釈を採れば、モスクワ音韻論学派とペテルブルグ学派のそれぞれの解釈の難点とを同時に克服することができるだけでなく、形態論記述にもメリットがもたらされ、またこれにより母音体系の方言的差異を対立の中和という観点から合理的に説明できることを述べた。

<第2章現代ロシア語の音素と音声>
現代ロシア語の母音体系の再解釈とその分析の行程に焦点をあてた第1章では、議論を簡単にするために、音素と異音の間の関係について一部あえてかなり単純化して述べ、また直接関係しない子音その他についてはまったく触れていない。本章では第1章で述べきれなかった異音についての若干の記述を目的とし、さらに破擦音の音韻解釈に関して補足的な解説を行った。冒頭にロシア語の音素の一覧を掲げ、異音との対応について述べ、かつ子音配列上の基礎的情報を記述した。音声記号に関していえば、諸々の理由からロシア内外の音声記述においてはIPAに必ずしも忠実ではない慣例的な記述方法が用いられることが多いが、本章の音声記述は現行の国際音声字母(IPA2005年版)によってロシア語の音声を記述しようとする試みである。

<第3章「現代ロシア語の前置詞K、S、Vの形態音韻論>
現代ロシア語の前置詞k(~のほうへ)、s(~とともに/~から)、v(~の中で/中へ)はそれぞれ3つの異形態を持っている。これら異なる形態の出現は後続の名詞(名詞句)の音韻的あるいは/および文法的な特徴によって条件づけられていることが指摘されてきたにもかかわらず、その条件はいまだ厳密に特定されているとはいいがたい。しかし、子音1つからなるこれら前置詞の異形態の現れる条件を厳密に規定することは、ロシア語学習者への実用的な裨益もさることながら、ロシア語の音素配列論、特にロシア語の特徴でもある複雑な語頭の子音束(consonantcluster)を網羅的に記述するために欠かせない作業である。これらの前置詞が子音1つの異形態として現れた場合に現れうる語頭子音束は、それが内部に音節境界をいっさい含まず、したがって音韻論的に子音束として扱われてしかるべき子音連続であるにもかわらず、前置詞であるという形態論的な予断にはばまれ、従来のロシア語音素配列論の記述においては不当にも記述の射程に収められることがなかった。本章では現代ロシア語に現れうる語頭子音束を網羅的に調査し、なおかつ、それらが上記の各前置詞と結合する場合に、いかなる異形態をとるかをインフォーマントに質したうえで、適切な異形態の選択をコントロールする形態音韻規則を定式化した。たとえばJakobsonによれば、smglístogovéčera《霧のたちこめた晩から》という語句は[zmgl']と発音されるが(口蓋化をアポストロフィで表す)、わたしの収録したコーパスとそれに基づく定式からは/smɡl'/という発音が導かれ、また実際にそう発音されている。この差異はロシア語における有声/無声に関する逆行同化規則の通時的変化を示唆している。

<第4章現代ロシア語の音節構造>
現代ロシア語の音韻記述において<音節>という単位はいわば暗黙の了解事項としてあるが、本章では「聞こえsonority」の多寡を基準とする従来の音節概念および音節境界の画定法の不備を指摘し、これとは異なる基準で音節およびその境界を見極める方法を提案した。すなわち、単語の語頭および語末は音節の頭および末尾であるという前提と、単語は音節の連続から成るという前提から、語中の子音(ないし子音束)を語頭子音束(Aとする)のみから成るか、あるいは語末子音束(Bとする)と語頭子音束の連続から成ると仮定し、語中に現れるAの直前に音節境界があると仮定すると、間接的にではあれ、また全ての場合にではないにせよ、音節境界を従来よりも明示的に見極めることができることを述べた。本章ではロシア語においてありえる音節の網羅的記述のための資料として、語頭子音束および語末子音束の網羅的記述を付録した。語頭の子音束については、第2章において設定した、前置詞k、s、vが子音1つで実現する場合の異形態に関して逆行同化の範囲を規定する規則をあてはめれば、演繹的にロシア語の語頭子音束の網羅的なリストを作成しうる見込みがある。ここで行う子音束の記述がそのまま音節構造の記述となるわけではないが、他の言語の音節構造と比較する場合、本章におけるロシア語子音束の網羅的な記述は一定の比較対象を提供するものと思われる。

<第5章ロシア字ローマ字化翻字法新案>
近年の印刷所はほとんどの場合ロシア文字による入出力に対応しているため、原稿の作成に際してロシア字をローマ字で翻字する必要に迫られることはかなり少なくなってはいるが、現在もなおロシア字を翻字せねばならない機会があることは経験的によく知られている。にもかかわらず本邦には長い間、学問的見地からじゅうぶん吟味され、かつ自信をもって公共の実用に供することのできる合理的な翻字法がなく、個々人が必要に応じてロシア字の翻字に対して別個に対応しているのが実情である。こうした中、日本音声学会の『音声学会会報』(193号)誌上で、川上蓁氏によって「実用明解ロシア字ローマ字化案」と称するきわめてエレガントな翻字法が提案された。本章では、補助記号を使わず、かつ容易に一対一の復元が可能なこの瞠目すべき翻字方式の概要とそれを支える翻字設定の基本的な思想とを祖述した。その上で、軟音符をjで、硬音符をアポストロフィでそれぞれ表す川上式翻字法に代えて、軟音符をアポストロフィで、硬音符をwで表すという実用的/音韻論的観点からの2点の変更を加えた翻字法(KJ式)を提案した。

<第6章ロシア語と音声記号:モスクワとペテルブルグにおける記号の用法>
ロシア語で書かれたとくにロシア語学の文献のなかでわたしたちが目にする音声記号は、(1)ラテン文字にもとづく音声字母、および(2)キリル文字に基づく独自の伝統にもとづく音声字母に大別できるが、これら各種の音声記号の混在は、各種のロシア語文献を比較検討し、それに言及する際の、些細ではあるがけっして無視しえない困難の一因になっている。本章では現在までロシア国内で行われてきたこれらの音声表記のうち、(1)いわゆる「ペテルブルグ音韻論学派」を代表する音声学者レフ・シチェルバSqerba、LevV.(1880-1944)によって考案され、主としてペテルブルグの研究者らによって継承されている音声記号とその改訂版を紹介検討し、ついで(2)レフォルマツキーA.A.ReformatskijやアヴァネーソフR.I.Avanesov、パノーフM.V.Panovらいわゆる「モスクワ音韻論学派」の研究者を中心に用いられる音声記号および音韻表記を批判的に検討し、これをもってロシア語学・ロシア語音声学の研究文献にアプローチするための一助を提供することを目的としている。これら2つの音韻論学派に代表されるロシア語の音韻理論については当事者間のあいだはもとより、国外の研究者によっても理論面での比較がかねてより行われてきたが、本章はその記号の用法に焦点を当てて両学派を比較検討するおそらく初めての試みでもある。

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