ディドロ 人間学とその方法―小説作品に関する研究―

田口 卓臣

十八世紀フランスを代表する思想家ドニ・ディドロ(一七一三-一七八四)は、『百科全書』の刊行に尽力したほか、自然学、演劇、美術批評、政治経済論、フィクションの創作など、様々なジャンルにおよぶ執筆活動を通して、ヨーロッパの思想・文化に巨大な足跡を残した。本論文は、こうした多分野にまたがる彼の著作の中でもひときわ異彩を放つ小説作品に関する研究を目標とする。より具体的には、『おしゃべりな宝石たち』、『修道女』、『ラモーの甥』、『ミスティフィカシオン』、『ブルボンヌの二人の友』、『これは作り話ではない』、『ド・ラ・カルリエール夫人』、『ブーガンヴィル航海記補遺』、『運命論者ジャックとその主人』などの諸作品が示す方法論について分析することを通して、ディドロ独自の人間認識・世界認識を明らかにすることが、本論文の目指すところである。

本論文は、三部構成である。各部のタイトルと内容は、次の通りである。

第一部:小説の方法
第一部では、ディドロの小説における語りの構造、物語の起承転結、作品世界の設定について、各作品に即した形で論じる。そしてこの考察を通して、それらの小説作品のうちに一貫して二つの特徴が見られることを明らかにする。
第一の特徴とは、特権的な話者の不在である。ディドロ作品は、様々な語りの手法を駆使することによって、全知の特権的な語り手を徹底的にしりぞける方向性を持っている。そこでは、あらゆる話者が例外なく、生身の個としての限界を露呈させられてしまうのである。
第二の特徴は、作品世界の俯瞰不能性である。この特徴は、厳密には二つの次元において見出されるものである。
まず、物語の起承転結の次元。ディドロの小説では、物語の「始まり」は突拍子もない仕方で提示され、「まんなか」には様々な予測不能のアクシデントがあいつぎ、「終わり」は中途でぶっきらぼうに放りだされてしまう。こうした物語のプロセスは、目的論的な「筋」の展開をしりぞけることによって、作品世界の不透明性・不確定性を強調する機能を持っている。
そして、作品世界の設定の次元。ディドロの小説の中には、何らかの「欠落」を抱えた「原典」の、「翻訳」ないし「編集」を経た書物として設定――この設定はもちろんディドロの創作である――されている作品が存在する。これらの設定は、作品世界の総体を俯瞰する超越的な全知の視点を、不可能にしてしまうような機能を持っている。
なかんずく『運命論者ジャックとその主人』は、以上で指摘した全ての要素を複合的・重層的な仕方で展開した最も重要な作品であり、したがってこの作品の方法については、一つの章をあてて丁寧に分析することを目指す。
この第一部で析出する小説の特徴は、ディドロの人間観と切り離して考えることができない。その人間観をあえて二つの命題で要約するとすれば、それは次のようなものとなる。(1)人間は全知の神の視点には決して立つことができない。(2)ゆえに人間は、ありとあらゆるレベルで限界を抱えざるをえない。こうしたディドロの認識が、具体的にどのような射程を持つのかということに関しては、第二部・第三部を通して、より小説の内容に詳しく踏みこみながら検討する。

第二部:個としての人間
第二部では、ディドロの小説の物語内容、人物造形、比喩、描写などに光を当てることによって、ディドロの人間観をより詳細に検討する。この考察の手続きを通して、ディドロが全知の神の視点は不可能であるとの認識を持っていること、そしてこの認識に基づいて、個としての人間の抱える様々な限界を描きだしていることを明らかにする。具体的な論点は、主に三つに整理することができる。
第一の論点とは、認識や判断のレベルにおける決定的な解の不在である。すなわち、ディドロの小説作品は、登場人物たちが記号の解釈や善悪の判断を行う局面において、いつまでも解決に到達することのないまま、互いに分裂・対立した意見をぶつけあう様子を執拗に提示している。ディドロはこうした場面を通して、人間の認識や判断の拭いがたい限界を浮き彫りにするのである。
第二の論点は、意志による統御の限界である。ディドロの小説作品においては、ごく短い場面から重厚な内容を持った物語にいたるまで、登場人物たちにはどうすることもできない現実の存在に焦点が当てられている。とりわけ注目に値するのは、主要な登場人物たち――ユドソン、ド・ラ・ポムレー夫人、ド・サントゥアン騎士、シュザンヌなど――が画策する誘惑や陰謀の物語である。彼らの画策は、ほとんど完璧な成功を収めるにも関わらず、すれすれの次元で、当初の計画にはなかった過剰な結果を招き寄せてしまう。これらの物語は、人間がどのような意志や知恵を尽くしても統御・構成することのできない剰余があるということを示しているのである。
第三の論点は、ディドロの思考の肯定性である。ディドロの思考は、ありとあらゆる価値に対する懐疑を原点としている。人間の抱える諸々の限界を徹底的に明示しようとするディドロの小説の方法も、この懐疑に基づくものと言える。しかしディドロは他方で、いかなる作品においても、懐疑そのものを目的とする懐疑主義のシニシズムとは一線を画そうとしている。というのも彼のスタンスは、あらゆる問題に対して懐疑を保持しつつも、常に次善の選択を模索しつづけるものだからである。こうしたディドロの思考の肯定性は、人間自らの限界をどのように引き受けるか、そして引き受けたうえで何をなすことができるのか、あるいは何をなすべきなのか、といった問題意識から生まれている。ここでは、「後世」の観念、「矯正可能性」のテーマ、「運命論」の視点などに注目しながら、このディドロの問題意識を浮き彫りにする。とりわけ『運命論者ジャックとその主人』における「運命論」の視点は、自己自身の限界を引き受けることが、世界に対する肯定の境位をもたらすものであるという認識を示しており、ディドロの思考の特徴を理解するうえでも、最も注意を要するポイントである。

第三部:個と共同体
第三部では、第二部と同じように、ひきつづき物語内容、人物造形、比喩、描写などに注目しながら、人間の共同性の次元――より具体的には、個と個の関係の次元、共同体の機構の次元、そして個と共同体の関係の次元――に関するディドロの思考の軌跡をたどる。具体的な論点は、概ね二つに整理することができる。
第一の論点とは、人間の性愛と一夫一婦制の関係である。ディドロによれば、人間の性愛は、原則としていかなる枠組にも回収しえない可変的な特性を持っている。ゆえにキリスト教的な人間観に基づいて、この性愛を一つの型のうちに閉じこめようとする一夫一婦制は、様々な困難や弊害を内包せざるをえない。ディドロはこの認識に基づいて、一夫一婦制に関する批判的分析を展開するのである。もっとも、人間の性愛というものは、一方で根源的に移ろいやすいものであるにも関わらず、他方では不変性に執着しようとする厄介な二重性を宿している。このことが、一夫一婦制という制度にも一定の存在理由を与えているとディドロは考える。ディドロが原則として一夫一婦制を手厳しく批判しつつも、これを次善の選択として肯定するのは、このような考え方に基づいている。
第二の論点とは、一夫一婦制のオルタナティヴの問題である。具体的には、三つの作品において一夫一婦制とは異なる原理に基づく共同体が描かれていることに着目し、それらの共同体の機構や特性が、どこまで十全に機能しているのか、また、どのような次元で限界を露呈しているのかということを順番に検討する。そしてそのうえで、いわゆる「一夫一婦制とそのオルタナティヴ」という限定的な枠組にとどまることなく、われわれの考えかたや行動様式をあらゆるレベルで規定している常識、通念、約束事、規範などからの逸脱の契機に注意を払うディドロの思考の特徴について、若干ながら補足的な考察を行う。

ディドロの小説作品には、人間の限界と徹底的に対峙しようとする態度が顕著に現れている。そこで問題とされている一つ一つの論点自体は、必ずしも新味のあるものではない。もしそこに独創性があるとするなら、それは形式的にも内容的にも多様を極めるフィクションの作品世界を介して、かくも一貫性を持った仕方で、常にユーモアと肯定性を失うことなく、自己自身を含めたあらゆる人間の限界を徹底的に表現しようとする独自の方法にこそ見出される。

一覧へ戻る