清代中国の民間度量衡問題と社会秩序

洪 成和

本稿では、清代の民間度量衡の使用の実態について、いくつかの方面から検討を行ってきた。「カオス」とも称されるその不統一の状況はどのようなものであったのか。その不統一の歴史的意味は何か。人々はそれをどのように乗り越えようとしたのか。とりわけ着目したのは、度量衡をめぐる秩序がどのような仕方で支えられていたのか、という問題である。度量衡の不統一のもたらす不確実性を克服しようとする際に、国家の規制と民間の努力はどのように関わっていたのか。民間での努力はどのような人間関係の形成を通じて行われたのか。

第一章では、清代の度量衡制度及び度量衡製作の概観を行った。度量衡を媒介にして交換が成立するためには、売り手と買い手との間で、使われた度量衡器に対する情報が少なくとも一定程度共有されることが必要である。その共有された情報の均一性、安定性が高いほど――即ち、度量衡器が一定の規格に統一され、その地域的・業種的多様性や時間的変動が少ないほど――交換は容易になるはずである。情報を均一化する方法として、まず考えられるのは、近世のヨーロッパの事例と同じく、政府が制度的に度量衡を設定・保証し、これを強制することであろう。そこで本章ではまず、政府の管理規定から考察を開始した。
清政府は、度量衡に対する制度的保証の重要性を見逃していたわけでは決してなかった。清代における度量衡という制度は政府の次元で制度的に樹立され、その規定も相当に詳しい内容を持っていた。しかし、その規定内容の間に相互不一致があり、それを管理する統一的組織が不在であった。まして、民間での度量衡については、十分な管理は不可能であった。
このような度量衡の分散的状況に対する皇帝、地方官、紳士など清代の人々の認識と対策論には、大きな幅があった。いずれにしても、彼らの目的は、当面の市場秩序の安定化にあり、度量衡の統一による経済の長期的な活発化と成長にあったわけではなかった。したがって、その問題の深刻性に比べて、その徹底性や提起の頻度は不十分なものであり、制度的改善をもたらすことができなかった。

第二章では、より具体的に焦点をしぼり、江南都市の商工業行会における度量衡問題を取り上げて、江南地域の商工業秩序及び民間で度量衡の設定の一端を究明した。
清代江南諸都市におけるそうした度量衡管理の試みを時期別にみてみると、アヘン戦争以前、即ち19世紀前半までは、度量衡をめぐる紛争に際し、人々はまず官に訴え、官が直接介入し、度量衡の設定においても官がイニシアティブをとる傾向があった。それに対し、19世紀半ば以降は、官の仲裁的な役割が弱化し、民間の組織化を通じての度量衡管理努力が表に出てきた。その組織化の外的形式としては会館と公所であり、内容としては度量衡や価格などを統一させるための行規であった。即ち、度量衡の分散などに現れる外部の低信頼度という問題に対し、団体の形成を通じて、その内部の信頼度を高めようとしたのである。このような組織化は、度量衡に関する情報が非対称的な状態の下で、信頼できる人々をできるだけ組織して度量衡の基準を一致させ、「逆選択」即ち歪曲された判断を下すのをできるだけ回避するための行動であった。
このように、彼らは、移住地という不安定な「海」のなかで安定的な経済活動を狙うために、自分なりに同郷集団や同業組織(「島」)を作りながら熟知集団化を目指していた。その熟知集団化の動きのなかで、まず目立つのは、様々な経済行為のなかで不可欠の要素、たとえば、度量衡器とか貨幣や価格などに関して、お互いの合意を形成しようとしたことである。その合意の過程では「公議」という形が欠かせなかった。
国家の規制と民間の管理努力とを、D.ノースの語を借りてそれぞれ「公式的制約」と「非公式的制約」と呼ぶならば、度量衡の統一を通じて「公式的制約」と「非公式的制約」との一致を推進した近世・近代ヨーロッパの場合と異なって、清代の方式としては、「公式的制約」と「非公式的制約」を厳しく統一するよりも、民間の自律を大幅に許容し、ただ、問題が起こった際にその紛争を行政命令とか裁判という形を以って調停する管理方法がとられたといえる。このような方法は、度量衡の統一により交易における取引費用を減らすよりも、度量衡に対する管理の費用を節減しようとした緩やかな管理方針であったと見られる。この意味で、度量衡をめぐる官と民との関係は、官の規制に民間が従わないという官・民対立の構図で捉えることもできないし、また官が民間団体に公的な負担を割り当てる「ライトゥルギー」的な観点でとらえることもできない。むしろ、民間の自発性に官が依拠するゆるやかな協働ということができるだろう。

次の三章では、清末の調査を主な史料として、湖北・湖南における度量衡の空間的な差異のあり方を詳細に分析することを試みた。湖北・湖南の度量衡の状況は、まとまりのない極めて不統一なものであったといえるだろう。しかし同時に、単なる「度量衡の紊乱」という語では表現しきれないいくつかの特徴も窺うことができた。
第一に、それぞれの都市において、度量衡は業種により取引形態により異なったが、そこにはしばしば「標準」とされる度量衡が存在したことである。第二に、官定の度量衡のほかにも、一都市の範囲を超えてやや広域的に用いられる度量衡が存在したということである。第三に、大きな河川を中心とするいくつかの交易圏では、必ずしも規則的ではないものの、上流のほうが量器が大きく、下流のほうが小さい、という傾向が見られることが指摘できる。第四に、計量方法や枡などの材質、形などにおいては、ある程度の地域的な特色を見出すことができた。
このような度量衡の不統一は、必ずしも商業の未発達と各地域の孤立性を意味するとはいえない。また、このように、度量衡の規格が分散したのは、これに対する管理が不在であったからでは決してない。地域社会で使われた度量衡に対する地方官の実際的な監督は不在であったにも関わらず、市場における商工業者たちは、自らが使っている度量衡に関しては、なるべく徹底的に管理しようとした。問題は、その管理が統一的な求心点を持たなかったまま、進行した点にあった。度量衡の分散と孤立性は、このような度量衡管理主体の間の分散性と軌を一にした。即ち、管理の不在というよりも、管理の分散性、基準の不在よりも孤立性にその原因があったといえる。
このような度量衡の分散に対する別の原因としては、商人たちの機会主義的属性が挙げられる。まず、統一された規格がなかったというのは、恣意的な規格設定が可能であったのを意味する。特に、穀物を測る時、主に使われた量器の場合に、このような機会主義的属性が最も強く発揮された。
第四章では、度量衡をめぐる紛争とその解決という視点から、清代における都市の商業秩序の性格を考察してみた。四川省の巴県の商工業秩序の特色は、本城人であると他地域出身者であるとを問わず、小規模な商工業者の組織が叢生していたことである。このような商業秩序の状況のなかで、商工業者たちの前には二つの選択肢があったと思われる。即ち市場のなかの分散的秩序を一つに統合するか、或いは、その統合を諦めて、自らに直接関わる範囲で業種別あるいは地域別に管理することである。即ち、組織化の範囲が、市場全体に及ぶのか、それとも個別業種に止まるかという問題である。市場全体を統合するのは、根本的解決になるかもしれないが、それには実行主体と経済的費用が必要である。反面、個別業種の統合のレベルに止まると、費用は節約できるかもしれないが、組織以外の商人との度量衡や信用の問題が残る。
上述の二つの選択肢のなかで、個別の商人たちにとって、統合への社会的費用を負担して全面的な統一を図るよりは、自らの取引する商品を中心にして個別的に度量衡を管理する方が、費用を節約する上での合理的な選択であった。この個別的な管理のための組織が「会館」や「公所」であった。市場内の人間関係を包括的に設定するよりも、自分の取引関係を組織化するミクロな組織化を選好したのである。商工業者たちにとっては、自分の取り扱った商品の種類が限られているから、その範囲だけ管理しようとしたのである。財源が限られた状況で、彼らが「投資対効用」の観点をもっているのは当然であり、それは、個別の商人からみれば経済的ないし合理的選択であった。これは当時の商人たちが直面していた情報的・資金的制限のなかで、彼らなりに最大限の合理性(“boundedrationality”)を発揮したものともいえよう。
諸ネットワークの間の紛糾は、より大きな規模の恒常的な組織や制度の生成へと帰結することなく、個別事例に即したそのつどの調停や裁きという形で解決されていったといえる。紛糾が規約や和解として収束しながらも、何度も繰り返し起こってきたのは、いわば、秩序の中心が明確でない、重慶のこのような商業秩序のあり方に起因すると考えられる。むろん、このような商業秩序の性格は、重慶のみならず、清代の他の都市にも共通するものである。ただ、重慶の場合は、他の都市にはあまり見られない八省客長のような存在があり、単なる個別の同業団体の集積ではない統合された都市行政秩序の存在も予想されたのである。しかし、実際に検討した結果によれば、八省客長の存在は、必ずしも統合された都市行政秩序を意味するものではなかった。地方官府は、こうした諸ネットワークが併存・競合しつつ交渉する秩序のあり方を、上からゆるく権威づけたのである。

一覧へ戻る