本論文は、明治期の歌舞伎の具体像を、「小芝居」という観点を導入することによって新たに探ろうとするものである。具体的には、幕末から明治二十年代までの江戸・東京の歌舞伎を対象とする。本論文でいう「小芝居」は「歌舞伎以外の名義で公的な興行許可を得るが、実際には歌舞伎を演じた興行」である。
本論文は四章から成る。第一章・第二章では、幕末から明治二十年代までの小芝居が制度的にどのように規定されて興行を行なっていたのかということや、小芝居の具体的な座のあり方、および大芝居と小芝居との関係について考察した。第三章・第四章では、幕末の小芝居の流れを汲む明治期の新興劇場の演目を取り上げ、そこではどのような興行が行なわれどのような作品が上演されていたのかということや、明治期の新しい事物である新聞および流行の文芸との関わりについて考察した。以下、各章各節ごとの概略を記す。
第一章第一節では、幕末から明治初年の小芝居興行がどのような制度的規定を受けていたのかということ、および小芝居が明治初年にまでどのように続いていくのかということを、湯島天神社内の宮地芝居を中心に考察した。その結果、盛大に行なわれていたと見られる宮地芝居が天保改革においていったんは消滅し、寺社助成のためという理由で、出演する役者の身分などに対するさらなる規制を受ける中で復活したことが明らかになった。大芝居と小芝居との峻別は幕末においてさらにその度合いが強まったと言えるが、そうした規制の中でも、中島勘九郎という人物が湯島天神社内などで小芝居の興行を続けたことの実態を得られた資料より明らかにし、勘九郎の芝居が明治期の新興劇場中島座へとつながることを見た。
第一章第二節では、芝神明社内の芝居を取り上げ、宮地という場所での小芝居の特徴について考察した。宮地芝居では「座元」という存在が重要であった可能性を指摘し、座元の一人として江戸七太夫という人物の名前が幕末にも出てくることを確認した。座元の実態は不明な点が多いが、宮地における興行権など、何らかの由緒を引き継ぐ人物だったと考えられる。そしてその由緒が、第一節で見た中島勘九郎から明治期の新興劇場中島座へと引き継がれたと推察した。また、幕末の宮地、広場・広小路、寄席における小芝居興行について、得られた資料からまとめ、大掛かりな小芝居「佐野松」に象徴されるような盛んな小芝居興行が幕末において行なわれていたことを具体的に明らかにした。
第一章第三節では、幕末の小芝居の名目や建築・舞台構造、役者、観劇料、演目、取締などの実態を得られた資料よりまとめ、その姿に迫った。たとえば観劇料からは、見世物を含めた大衆娯楽の中で、小芝居興行というものはやや高額の部類に入ることがわかった。また名目や建築の規定に反するところがあり、小芝居は実態として歌舞伎の続き狂言を上演していたと考えられる。ただし小芝居のあり方はさまざまで、物真似や軽口といった芸から発展した軽いものもあったことが、浅草のいか蔵音吉の芝居の具体相から判明した。
以上第一章では、幕末において宮地芝居などの小芝居が厳しい規定を受けながらも、実態としては、歌舞伎を演ずる場としてさまざまな形で存立していたことを跡づけた。
第二章第一節では、明治期に入り従来の猿若町三座以外に、新たな土地で新たな劇場が官許を受ける一方、「道化踊」という見世物が警視庁から興行許可を受けたことを見た。明治初年以来相次ぐ禁令の中でも止まなかった小芝居興行が道化踊として集約されたと推測した。この許可には「衰弊の土地」に対する行政の配慮も働いていた。警視庁は小芝居の興行場に櫓・廻り舞台・花道・セリ台・引幕を禁じる幕政の基準を引き継ぎ、ここに近代における小芝居が成立した。明治十年代後半には小芝居興行が盛んになり、大芝居は小芝居に脅威を感じるまでになった。大芝居では九代目市川団十郎が「活歴」と呼ばれる新しい芝居を試みていたが、観客は大芝居を離れ小芝居へと向かったことがうかがえた。
第二章第二節では、世間一般の不況の中、大芝居も困難な興行を強いられる中で、小芝居がますます台頭したことを見た。この小芝居の隆盛により、東京府は自身の管轄する公園の振興のため道化踊(小芝居)の誘致を企画する。芸能興行を管轄する警視庁の反対もあったが、結局浅草公園に道化踊の興行場が設立される。この道化踊のうち吾妻座の設立には、のちに大芝居である歌舞伎座の設立にかかわることになる実業家、千葉勝五郎の存在があった。警視庁は当時起こっていた演劇改良運動の影響のもと、道化踊のあり方について再考する意向を持っていたが、東京府および千葉の道化踊設立への意向がそれに勝ったと考えられる。道化踊(小芝居)は、その集客力により、行政や興行側の思惑の中で、歌舞伎が上演される場として明治の歌舞伎界に確固とした位置を得ることになった。
第二章第三節では、前節で見たような小芝居の隆盛により、小芝居が法的に「小劇場」という存在として認められることになったことと、それに付随して起こった問題について考察した。まず、徴税を担当する東京府において、大劇場(従前の官許劇場)付俳優と小劇場付俳優とが区分されて鑑札が発行され税額が取り決められたこともあって、引き続き大劇場と小劇場の俳優が区別され、両者が交わらない事態が発生したことを見た。小芝居が劇場という名前を得たことにより、その小屋を入れ物として見て、大劇場付属の俳優を出演させた守田勘弥のような興行師、九代目団十郎のような役者もいたが、そのことに対して大劇場側からも小劇場側からも非難が起こった。大劇場付俳優は、小劇場付俳優との峻別の意識を保ち続けていたのであり、小劇場付俳優と同座したり小劇場付俳優の名称を得ることは避けたかった。一方小劇場の方でも、小劇場付俳優はともかく、興行師の中に、大劇場の興行師が小劇場に進出することを恐れる者がおり、大劇場との交わりを拒否した。小劇場は、歌舞伎を演ずる新たな場として、大劇場側の人間と小劇場側の人間の双方にとって魅力的な場所だったのである。
以上、第二章では、明治期の小芝居、道化踊が、幕政下と同じ零細な興行として位置づけられながらも、次第に歌舞伎を演ずる場としての存在感を強める様相を明らかにした。
第三章第一節では、幕末の小芝居の流れを汲む新興劇場、中島座の興行を追った。東京の諸劇場が新富座への追随を行なう中で、中島座はそうした動きに乗らず、安い観劇料、多い興行回数など独自の興行形態を守ったことを見た。また芝居の内容としても、明治十五年ごろより、大芝居の狂言の追随にとどまらず、大阪での新作狂言や、新聞続き物などから脚色した独自の新作を舞台にかけた。これらには旧幕府の世界を素材とした長いお家騒動物が多かったが、こうした中島座の狂言が好評を得たことで、当時の観客の持っていた嗜好の一端がうかがえた。
第三章第二節では、中島座と同じく幕末の小芝居から官許劇場となった、喜昇座の興行経緯を取り上げた。従来、旧佐倉藩主堀田家と関わりがあるとされてきた同座の成り立ちについて改めて検証した結果、堀田家との関わりが生まれたのが、久松座と改称して新富座に倣った劇場を建設し大芝居役者を招聘した明治十二年前後であることを明らかにした。堀田家側や劇場関係者が、一時的にせよ新富座が得た華やかな成功を見たことにより、久松座が成立したと考えられる。だがその後、久松座の興行は苦難の道を歩んだ。
第三章第三節では、小芝居の役者の出演により開場した奥田座改め春木座が、明治十年頃に大芝居系統の役者の出演によって座の格を上げる中で、当時の行政からの規制にしたがって幕末の河竹黙阿弥の作品をどのように改訂したかについて、具体的に台帳により考察した。その結果、幕末の役者たちの演じた残酷な悲劇が、春木座においては規制の問題と出演する役者の面からもはや再現され得なかったことが明らかになった。規制遵守の風潮における狂言作者の苦心がうかがえた。
以上、第三章では、幕末の小芝居の流れを汲む三座の新興劇場が、明治の歌舞伎界においてそれぞれ異なった道を歩んでいく様相を明らかにした。
第四章第一節では、明治に登場した新しい事物である新聞と歌舞伎との関わりを、喜昇座の演目「保護喜視当活字」を取り上げて追った。新聞が「事実」を報道する新しい情報媒体であり、文明開化を体現するものであることを、芝居において取入れながらも、その脚色には従来のお家物の構造が用いられたことを見た。
第四章第二節では、新聞記事を錦絵にした錦絵新聞が喜昇座などで脚色された様相を見た。錦絵新聞の持つ絵の印象強さが舞台で表わされたことや、一つの話題が大芝居を含む舞台と錦絵の世界とで交互に取り上げられた様子が明らかになった。
第四章第三節では、三遊亭円朝の翻案物「〈欧州/小説〉黄薔薇」の劇化において、円朝の代表的作品「怪談牡丹燈籠」の印象が付随していたことを番付の絵から明らかにした。
第四章第四節では、文政年間に起こった江戸城中の刃傷事件が、幕末から明治を経て物語化される様相を見た。事件が芝居の枠組みを多用した明治の新聞小説となり、中島座の舞台で劇化上演されたことを具体的に明らかにした。
以上、第四章では、明治の世相や文芸のあり方と新興劇場の演目との関わりを見た。従来知られている活歴や散切物の作品だけではない、明治の歌舞伎の作品が具体的に明らかになった。
以上により、本論文は、幕末から明治二十年代までの歌舞伎界および社会における小芝居のあり方を、主に制度的な側面から具体的に跡づけ、小芝居がさまざまな人々にとって重要な歌舞伎上演の場として存在したことを明らかにし得た。また、小芝居の系統にある新興劇場の演目から、明治期の歌舞伎の新たな一面を探り得たと考える。